揺籃

揺籃(一)

 もうすぐ秋の訪れる晩夏ではあるが、やはりまだ日は長い。黄昏が訪れるのは遅く、冬よりもゆっくり西に傾いていく午後の陽が室内の木の机を暖め、その上に広がられた書物の頁が光を浴びて目に眩しい。具合良く空腹が満たされた昼食後には常に襲ってくる眠気も手伝って、つい瞳を閉じて机に突っ伏したくなる。だが目の前にいるのはしかめっ面をした初老の女性教師で、生徒は自分一人である。居眠りなどできようはずもない。それにせっかく城下町の学校へ通うのとは別に、追加で授業を受けさせてもらえるているのだ。聞き逃すのも申し訳ないし、何より勿体ない。スピカは努めて瞼を高く上げ、教師を凝視しながら眠気と戦っていた。


「この国の時間はどこにいてもシューザリーン王都の時計で知らされるというのは知っていますね。時計の始まりがはっきり分かっていないということも。そこで復習です。時計の鐘の音が聞こえるのはどこまでですか」

「シレア国境内に限られます。ええと、シレア国を取り囲む森の端まで」

「ええ、そうです。国境を出たら、もう人の耳に音は聞こえないと言います」


 女性教師は満足気に頷いた。

 今日の授業は歴史学であり、内容はシレア国に唯一存在する時計台についてだった。


「わたくしは見たことがありませんが、他の国——テハイザにも時を知る道具はあるのでしょう」


 スピカは首を縦に振って肯定を示す。


「でもシレアの鐘の音は聞こえてきません。テハイザは船乗りの知恵を借りて時をわかるようにしています。あと、王宮では天の巡りで時を知ります」


 テハイザは古くから海洋国として成り立っている。外国の様々な知が持ち込まれ、それらの中には時を知る学も技術もあった。王宮に住んでいたスピカが馴染んでいたのはテハイザのだが、他によく目にしたものの一つは水時計だった。水夫が船に乗せて行くときに、揺れにも耐えるため便利な型なのである。


「ええ。シレアにも城の調理場などでは砂時計を使っていますけれどね。でもシレアでは常に留まらず動く『時計』は王都の時計台のみ。鐘楼の鐘の音が鳴るのに耳をすませるのです。仕組みはまだ解明されていませんけれど」


 シレアで正確な時を知る術は城下中央に存在する時計台しか無い。いつからか国にあり、寸分違わず時を刻み、その鐘は毎時、時報を鳴らす。時計の針や鐘を物理的に動かす機構は存在しない。ただ一つ、文字盤にシレアの神器を飾るものと同じ水晶に似た薄紅色の石が嵌っているが、それが動力になっているのかどうか、確実なところは分からない。ただ神器と共通の石ということで、不思議な力があるのではないかという人々の声はスピカも聴いていた。


「それでは、この時計が歴史的に果たしてきた役割ですが……」

 手の上で開いた書物の頁を捲りながら教師が述べたちょうどその時、窓の外で鐘の音が鳴り始めた。


「ああ、もう授業の時間が終わってしまいましたね。続きは今度にしましょう」


 分厚い歴史書を閉じ、教師が机の上を片付け始める。一方のスピカは音の響いてくる方向に視線を移したまま、シレアに来て初めて知った妙なる響きに耳を傾けていた。鼓膜から体の髄にまで音が入り込んでくるような、奇妙な感覚を覚える。


「ねぇ先生」


 ふと浮かび上がった疑問が言葉になって出る。


「あの鐘楼が鳴るのは、時を知らせる時だけなんですか?」


 太古からあるという、不思議な力を宿す時計台。あれほどまでに美しい鐘楼の音が、時を知らせるだけのために鳴るのはなんだか寂しい気がした。


「良い質問ですね」


 教師は手を止めて答える。この娘は何とも教え甲斐があって良い。自分の直近の教え子である二人の王位継承者ときたら、理解度は抜群ながらも授業態度は誉められたものではない。かたや授業を真面目に聞いているかと思えば帳面に父王の政策に対する考察を書きつけているし、かたや教科書を真剣に読んでいると思えば、教科書ではなく職人の匠が事細かに書かれた料理本だったりする。それにも関わらず、質問すれば即座に正答を返すものだから叱るに叱れない。

 その反面、隣国の留学生は眠そうな時でも必死に話の内容を吸収しているのが分かる。教師として形無しという体験を積んできた後でこんな生徒を持ったら、上機嫌にならない方がおかしい。

 何年振りかの満足を噛み締めて、女教師は滔々と説き始めた。


「時計台は国に重要な事が起こる時にも知らせてくれます。わたくしがここに勤めてからでしたら、カエルム殿下がお生まれになった時や、アウロラ様のご誕生の時。なんとも珍しい男女お一人ずつの御子のお生まれだからでしょうかねぇ。『生まれいずる光とかえる光』と呼ばれるご兄妹ですわ。それはそれは心惹かれる輝かしい音が鳴り渡ったのを今でも思い出します。国じゅうに聞こえたのですよ」

 教師は自らも窓の外へ目をやり、しみじみと語る。


「先頃ですとお妃様がお亡くなりの際にも物悲しい音に心打たれたものです。国の誰しもに教えてくれるのでしょうね。国民一人一人にとって大切なことが起きているということを。本当に海から来た妖精が、シレアを見守ってくれているのかもしれません」


 澄んだ調べは微妙に高さを変えながら、午後の時の数を数え終える。空気の中に残った残響は、目に見えたらきっと光の粒のようであるに違いない。鼓膜がまだ振動を受け取っているのを感じながら、スピカは一つ一つ、音を記憶に刻んだ。

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