黎明(二)

 訓練場の中央で、青年が弓に矢を掛ける。濃紺の瞳を細め、遠く離れた的の中央に焦点を定めた。ぎりぎりまで引いた腕に力を込め、指を離す。

 制止力から解き放たれた矢は空を切って飛び、反動で青年の背がやや後ろに反った。手応えはある。今度こそ思い描いた軌道に乗ったはずだ。しかし——


「っ……あぁ……」


 矢が的の端に刺さったのと同時に、青年の腕から力が抜け、弓が下を向いた。


「シードゥス、また外したな」

「さっきより端に寄ったんじゃないか?」

「あと一回、外したら賭けは俺の勝ちだぞー」


 周りの衛士から飛ぶ野次に、シードゥスと呼ばれた青年は「うるさい、ほっとけ」と言い返した。するとの衛士の中にいて一人、無言で見ていた長身の男性がシードゥスに近づきながら、「お前たち訓練を賭けに使うなよ」と野次を黙らせる。男性が群れから出てきてシードゥスの横に立つと、それに従い、シードゥスもだらけた姿勢を正した。


「どうもまだ姿勢がぶれるんだよな。さっきはいい線いってたんだが」

「ロスさん、これさっきと何が変わったんでしょうか」


 弓を構え直して二、三、角度を変えながら、シードゥスは張りの無い声を出す。


「力の入れ具合とかいくつかあるけど、そこのところ自分で掴まない限りは確実な当たりはないぞ。肝心なのは……」

「ってもこれ何回目ですかぁ。見本一回じゃ分かりませんよ。もう一回、ロスさんやって見せて下さいよ」


 説明を遮り懇願する情けない調子にロスは呆れた視線を返し、仕方ない、と弓を受け取ろうとした。ちょうどその時、二人の横に微かな風が立ったかと思うと、首を巡らせるよりも前に前方で短く小気味よい音が立つ。

 一本の矢が見事、的の中央に垂直に刺さり、微かな揺れも見せずに静止した。


「弓は久々だが、さほど鈍ってはいなかったか」


 ロスとシードゥスが後方を振り返ると、訓練場の入り口のところに立った男が構えていた弓を下ろした。茶に近い前髪の下に輝く蘇芳の瞳が印象深い。まだ幼さを残すシードゥスよりも年長、歳の頃二十代半ばといった具合か。遠目でも整った容貌が知れる長身の美丈夫である。


「カエルム殿下!」

「お帰りでしたか!」


 入口とは逆側にいた衛士たちにも男性の姿が見えると、途端に歓迎の声が巻き起こる。それらに挨拶がわりに笑いかけ、この城のもう一人の主人であるシレア国第一王子カエルムは、傍の衛士に弓を返し、シードゥスたち二人へ歩み寄った。


「多分、肩が地面と水平になっていないのではないかと。おそらく妙な力が入っている。そこで軌道が微妙に斜めになってるのだろうな。適度に力を抜く感覚を覚えればいいと思う」

「肩、ですか」


 カエルムとシードゥスから目線で問いかけられ、ロスが頷いた。


「上達はしているのだろう? またあとでロスに見てもらうといい」


 青年がさらに肩を落とすので、カエルムは声音を和らげ、軽く背中を叩いてやる。すると、今しがたカエルムが入ってきた訓練場の入り口の向こうから、ぱたぱたと軽い駆け足が聞こえてきた。


「お兄様ーっ!」


 衛士たちの間を駆け抜けたアウロラは、あと少しのところで弾みをつけてカエルムに跳びついた。


「お昼過ぎると思ったのにお早いお帰りね!」


 抱き止められた腕の中で、アウロラは紅葉色の瞳を喜びに輝かせて兄を見上げた。対するカエルムの蘇芳の瞳にも慈しみが浮かび、自分とよく似た柔らかな妹の髪を優しく梳いてやる。


「ただいま帰った。留守中、城のことをありがとう、アウロラ。変わりないか」

「城はいつも通りよ。城下や近隣からの報告はあるけれど」


 報告する間も興奮が収まらない。自分はまだ城を取り仕切るには迷うところも多いが、主人として不安を表に出すわけにはいかない。短い間とはいえ城を離れていた兄が戻って、張り詰めていた気が解けたようだ。そんな妹の心境を悟ってか、髪を滑るカエルムの手もゆっくりと優しい。しかしふとその手が止まり、同時に「うきゃっ」と小さな叫び声がした。アウロラが兄の腕の横に顔を出すと、衛士たちの間をスピカがまろび出て来たところだった。


「王……うあ、じゃなくて、カエルムさま、お帰りなさいませっ」


 なんとか転ばず踏みとどまると、スピカは慌てて姿勢を正し、服を摘み上げて軽く腰を落とした。淑女が日常的に取る礼である。呼びかけを受けてカエルムも少女の方へ振り返る。


「スピカ。女官の振る舞いも幾分か板についてきたかな? 勉強と並行は大変だと思うが」

「はいっ!」


 気遣いのこもった返事を貰って、スピカは血色の良い頬をさらに上気させた。


「今日は夏の花茶の淹れ方を教えてもらいました! 礼儀作法は五課まで進んでお辞儀は全部覚えて褒めていただいたんです! あとお勉強はすっごく楽しくて、城下町の学校の方ではもうちょっとで計算を試験するんですけれどお城ではちょうど歴史のお勉強でテハイザとの貿易が」

「こら、侍女の心得は」


 弾丸のごとく話し出したスピカの頭をシードゥスが小突き、「あ」とスピカはようやく口を手で封じた。縮こまったスピカが上目遣いで問うようにカエルムとアウロラの顔を窺うので、アウロラは思わず吹き出してしまった。


「シードゥス、私は構わないから。どうやら聞かなくてはならない話が山ほどありそうだな」


 カエルムはアウロラを離してスピカに微笑むと、衛士たちの方へ向かって声を一段高める。


「皆、そろそろ昼時だ。今日は大食堂で取ることにしよう。希望する者は共に食卓へ。留守中のことなども含めて皆の近況を聞かせてくれるか。指揮官長への苦情でも構わない」


 最後の一言に「ちょっと殿下」と咎めたロスの言葉は、衛士たちが口々にあげた歓声の中に埋もれた。「冗談だ」とカエルムはさっぱり返し、アウロラと城の方へ連れ立って行く。

 数日ぶりに主人が揃った歓喜のさざめきが空へ昇る中、城の方からは小麦の焼ける芳しい香りが漂って来た。料理長自慢のパンが焼き上がるのも、時計台の鐘と同じく毎日寸分も違わない。



 ***



 通常は祭典や国際会議の折に使われる大食堂が開放され、下働きの者や女官から各省の諸官までが集まると、立食での昼食は実に賑やかなものになった。食事を運ぶ給仕や料理人も作った品々の感想を聞いては議論を交わしている。主人二人の周りには、普段は食事を別にする城勤めの者たちがこの機会にとひっきりなしに寄ってきた。王子が国王即位を前に国内各地を回ってきたこともあり、特に地方出身者は故郷の様子を聞きたいと質問を浴びせかけ、また王女の方にも、上司の愚痴やら城内の恋愛相談やら街中での一悶着やらを訴えに次々と臣下が訪れた。

 ようやく人の足が途切れたのは、人々が食事を終えて午後の仕事へ向かい始めた頃である。地方から王城各部署への雑多な報告は随行した数名の官吏に任せ、王子と王女は周りに人のいない隅の席を見つけてお互いの報告に入った。今のところ政情には新しく報告すべき大きな変化はなく、気がかりといえば不安定な天候のみだった。


「なるほど。天候不順はどこも同じようだな。この季節に通り雨は珍しくはないが、流石に今年は多すぎてシレア国内各地でも風雨による影響は出ていたよ」


 王女と並んで座った王子は、茶器を手に取ると慣れた所作で妹の碗に茶を注いだ。果実と花を混ぜた甘い茶の香が湯気と共に上がる。


「例年と比べるとさすがに多すぎると思うの。国内生産に関して言えば、城下に入ってくる作物にそこまで大きな影響は出ていなさそうだけれど、この後も雨が続くようなら冬季の貯蓄が心配になるから今から対策を」


 カエルムは頷き、茶器から顔を上げると、卓にシードゥスが近づいて来たのに気がついた。


「そちらも何かあったか」

「はい。テハイザ王陛下から書状が来ました」


 兄の視線にアウロラも同意を示す。ちょうどロスもこちらへやってきたのを見とめると、カエルムは卓から立ち上がった。


「部屋で聞こうか。ここより落ち着けるだろう」


 まだざわめきが満ちる中を横切り、声をかける面々に挨拶を返しながら、兄妹は食堂を後にした。

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