黎明

黎明(一)


 南の海から妖精が移住したという、緑に囲まれた国、シレア。その国土の南端に位置するシューザリーンは、交易の主要地であるとともに国政の中枢として機能する王都である。活気溢れる都の北には山々が連なり、季節ごとに色を変えて峰を彩る木々の間を、一筋の川が流れ出る。王都と同じ名を持つこのシューザリエ川は、澄み渡る水に陽を映しながら斜面を下り、途中で地に潜ってはいくつもに枝分かれして再び地上に顔を出す。川の支流は木の根を湿らせ平野を潤し、シレア全土の生命の源となるべく水の恵みを届けゆく。

 国を支えるシューザリエ川の本流は、王都郊外より太い一本の流れとなって南を目指して下っていく。城下町を通り王都の先の森を抜け、次第に太く勢いを増しながら、隣国の大海へと辿りつく。


 昼前の明るい日差しの中、水面を珠のように輝かせながら、今日もシューザリエ川は王都を通りゆく。とめどない流れを見守るように、シューザリーンの城下街中央に立つのは、天に向かうが如く丈高い時計台。その文字盤でたったいま、細い針が真上を差した。すると透き通るような鐘の音が鳴り響き、澄んだ空気を震わせた。

 妙なる音が時を告げる。城の白い物見台の天辺から、大空へ向かって鳩が羽ばたき立つ。

 鐘の音は街の隅々へ行き渡り、人々の耳を優しく撫で、顔を上げさせる。そして大路小路を通って市門を過ぎ、やがて人には届かない音に変わりながら、遠い海まで時を伝える。

 この時計台こそ、シレア国で唯一時を刻み、知らせるもの。時という流れに基準を与え、一日、一年という秩序を生み出すもの。鐘の音は国のどこにいても必ず届き、それを頼りに民は規律を定め、約束を交わし、信頼を築き、絆を結ぶ。人々の心を互いに繋ぎ、安定と安寧をもたらす国の至宝。

 それが、シレアの時計台なのだ。





 城の一室で、物見台から飛び立った鳩の羽音に一人の娘が書見台から顔を上げた。窓の外に目をやると、よく晴れた夏空の下で時計台の文字盤が光を反射する。文字盤に嵌った水晶のような淡い桜色の宝玉は遠目からでもよく見えた。

 娘は書見台に寝かせていた腕を上げ、手を軽く揺らした。娘の細い手首で華奢な作りの小さな腕時計が文字盤を娘の方へ向ける。古来、時計というものを一つしか持たなかったシレア国に、何の因果かつい先頃に舞い込んだ第二の時計であった。だがいまはもう、その針は動きを止めている。

 娘は星座があしらわれた文字盤をしばし眺めると、再び面を上げて窓を開けた。青々とした木の葉の匂いを孕んだ風に乗り、城の敷地内から小気味よい音が聞こえてくる——弓矢の音だ。音のする方向を臨むと、訓練場に的が並び、少し離れた位置に数人が弓を手にして立っていた。やや距離をおいて、彼らを半円形に取り囲む衛士の集団がある。軽い掛け声を挟んで次々と矢が放たれるも、続けて聞こえる音はどうも掠れて頼りない。まだまだ的の中心にうまく当たらないのだろう。時折り衛士たちが言い合うのが風に乗ってくる。娘は頬杖をついて活気ある声に耳を澄ませた。

 すると、背後でこんこんっと球が弾むような音がし、続けてがちゃりと扉の開く音がした。


「お仕事はいかがでしょうか。お茶とお茶菓子をお持ちしました」


 高い声に振り返ると、年頃とおを超えたほどのあどけない顔つきの少女と、部屋の主である娘よりも十歳は上と思われる侍女が間口に姿を現した。少女は侍女見習いの空色の服に身を包み、黒に近い髪を編み込んで肩下で一つにまとめている。一方、年長の侍女の方は城勤めの女官の中でも高位の者が纏う藍色の衣装で、灰茶色の長い髪を高い位置でまとめている。

 侍女に促され、少女は足をぴたりと揃えてお辞儀をする。手に持つ盆は肩の位置で止まり、どうにも無理な姿勢である。後ろに控えた侍女が、不安げに少女の手元を見つめる。


「ありがとう。さっき区切りがついたところよ。休憩してもいいわね」


 娘——もといシレア国第一王女は、少女の様子を見てにこりと微笑む。返事を受けた少女はそろそろと書見台に近づくと、盆をおいて「ふぅーっ」と息を吐いた。


「スピカ、お疲れ様。今日はもうお勉強は終わったの?」

「はいっ!」


 盆を置いて緊張から解放されたのだろう。スピカは鉄砲玉よろしく顔を上げた。


「今は侍女のお仕事の修行中なんです、王女さまっ!」

「スピカ」


 即座に挟まれた低い声に、スピカは肩をぴくっと上げ、急いで「アウロラ様」と言い直し、侍女の方を横目でちらりと伺った。


「そうですよ。アウロラ様はもう近く女王陛下になるのですから、貴女もそれ相応に振る舞わなくては」

「はぁーい」


 決まり悪そうな返事に、アウロラは笑いながら手を振った。


「やだ、やめてよソナーレ。そりゃ身分は変わるから責任も重くなるけれど、城の中でまでそんなに畏まられちゃ肩が凝って仕方ないわ」

「そう仰いますけれど、カエルム様もアウロラ様も真にこの城の主になられるわけですから、わたくしたちも今までと同じには」

「お兄様だって国王陛下とか言われたら絶対『今すぐによせ』って仰るわよ」


 アウロラの父、つまりこのシレア国の王は近年崩御し、その後に続いて政務をとっていた母后も一昨年に世を去った。その子女であるアウロラは十八の歳にして九つ上の兄のカエルムと共に王位継承者であり、即位後は正式に二人の共同統治となる。国王に男女一人ずつの子女が生まれるのは建国以降稀であり、カエルムとアウロラは幼い頃から国の繁栄を期待されて育ってきた。

 兄のカエルムは、すでに国王崩御の後から母を支えて老獪をも唸らす良策をとってきた英才であり、その実力は他国の王まで敬服および警戒するほどである。アウロラも兄のようになりたいと日々、学びに精を出しているが、やはり即位して本格的に実務に携わるとなると身が引き締まると同時に恐れを感じる。女王となれば、自分を見る周りの目も様変わりするだろう。


「今まで通り姫様でいいわ。せめてソナーレたちくらい変わらないでいてよ」


 萎縮するスピカに「ねっ」と言って手招きすると、スピカは素直に目を輝かせて駆け寄った。その様子にソナーレは肩をすくめたものの、いたし方ないと自分も後を追う。


「王女さま、何してらしたんですか?」


 卓の上に重ねた書類にスピカは好奇の目を注いだ。


「あら、気になる? さすがテハイザ国王陛下がお送りになった奨学生ね」

「もちろんです! あたしも将来はテハイザ王宮の女官ですから! やはり王女さまたちのお仕事も知らないと……あ、でも国家機密ならいいんですけれど、聞いちゃいけないから」


 才気煥発なこの少女は、隣の友好国テハイザよりシレアに留学している。その間、本人の希望もあって、勉学の傍ら王宮で礼法や侍女としての研鑽も積んでいる最中だった。もともと頭の回転が早いらしく、スピカは学問であれ宮中仕事であれ、何にしても飲み込みが早い。こうした興味関心の高さも彼女の才が伸びる一因だろう。そしてアウロラには、自分を慕って色々と聞いてくる少女が妹みたいに可愛らしい。


「機密になることじゃないからいいわよ。シューザリーン近郊の農家と材木業から送られてきている記録の整理をしていたの。例年とどのくらいの差が出ているのか確かめておきたくて」

「ああ、ここのところおかしな天気が続いていましたものね。そんなに変わっていましたか? 今日は見事な晴れですけれど」


 ソナーレが茶器を整えながら、雲ひとつない空を仰ぎ見た。訓練場の矢の音はまだ続いている。


「今のところは致命的影響というほどには……まぁ今日は訓練も大雨に見舞われることは無さそうね。いい天気で皆のやる気もあるみたい」

「王女さま、そこから訓練場、見えるんですか?」

「結構、よく見えるわよ。あんまり矢の当たりは良くないみたいね」


 アウロラは身を右にずらしてスピカに窓の前を譲ってやる。素早く窓枠に寄ったスピカは、爪先立ちして窓の桟に手を掛けた。アウロラは微笑みながらスピカを見つつ、茶器を手に取った。


「とりあえず今、城に来ている分の報告はまとめられたわ。この後にどうするかはお兄様と話さないと決められないし」

「そういえば、カエルム殿下のお帰りは今日でしたかしら」

「ええ。早ければお昼後にでも……」


 そう言いかけたとき、風を抜けて馬の嘶きが聞こえ、窓の外を見ていたスピカが「あっ」と叫んで身を乗り出した。その後ろからアウロラも背伸びをし、城門の向こうへ目を凝らす。


「ソナーレ、お茶あとでいただくわね!」

「あっ、王女さま待って!」


 窓からくるりと向きを変え、アウロラはあっという間に廊下へと駆け出し、一瞬遅れてスピカがその後を追う。「あっ、こら!」という侍女の制止の声は虚しく、元気な足音がぱたぱたと廊下を遠ざかって行った。


「まったくもう……。アウロラ様がどうにかならないとスピカも落ち着きそうにないわ」

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