万有の分銅

佐倉奈津(蜜柑桜)

旅の前夜

 日が沈み、世界の色が変わる。

 山の稜線を朱く縁取っていた空の際は紫から藍へ変わり、連なる山脈の輪郭が曖昧になっていく。天空が紺の色を濃くし、次第に星屑の瞬きが強くなると、白月が見下ろす街中では、真昼の力強い日差しに代わって暖かみのある街頭の灯がぼんやりと白い石畳を照らし出す。

 目に映る色が塗り替えられていくとともに、世界そのものが変わっていく。

 昼日中ひるひなかに役人や行商が行き交った大通りは、いまやすっかり静まった。逆に酒場や民宿のひしめく宿場街は闇が濃くなるにつれて活気づき、一日の仕事を終えた人々の開放感で満ちていく。特に行政上の要所であり、それゆえに商いも盛んな地であれば旅人も多い。王都に次ぐ第二の大都市であるこの街もそうだった。もう間もなく日付が変わるという時間になっても、宿から食事に出た泊まり客や地元の常連が、街路に立ち並ぶ店からひっきりなしに出入りしている。

 至るところに陽気な空気が漂い、談笑する声は街路から空へ昇る。しかしそんな中、無言で道をゆく者がいた。外套を羽織った旅装らしいいでたちだが、肩から下げた鞄は薄く、旅途中には似つかわしくない。月明かりを反射する革靴にくたびれたところも目立たず、勝手知ったる様子で地を踏み行く。

 口元を隠す広い衿と頭に巻いた布のせいで、男の面立ちは見えない。ただ眼光だけは、宙空の深い藍の中で瞬く星の如く。

 地に落ちる丈高い影は、橙に染まった石畳の上を滑り、酒を呷って酩酊した人々の間を迷いなく縫っていく。そして宿場町の外れ近く、さして大きくもない小料理屋の前で、その影は止まった。

 男が扉の取手を押すと、蝶番の音が耳に突き刺さった。だが、木戸の隙間が僅かに開いた途端、中から溢れ出る喧騒にすぐさまかき消される。

 男が足を踏み入れると、すぐに威勢のいい高い声が飛んできた。


「あらお客さん、ちょっと混んでるけどどうぞ! お一人?」

「いや、連れが先に来ているはずだ」


 給仕の女が了解を示したのを確認すると、男は店の中をさっと眺め回し、すぐに確かな足取りで奥へと踏み出した。客が乱した椅子を避けながら、狭い卓の間をするすると抜け、すでに先客のあった壁際の小卓の前で止まる。


「随分と遅かったのね」


 男が椅子を引くと、座っていた人物は初めて顔を上げた。顔にかかった濃い灰青色の髪を耳にかけ、翡翠の瞳が上目遣いに男の顔を見る。男が店に入って来たのにはなから気づいていたかのようだ。


「悪いな、手間取った。なかなか支配権を握る者を相手にするのは面倒だ。向こうの神経を逆撫でせずにとなると、特に」

「そんなところだと思っていたけれど、どうせ上手いことやったのでしょう」


 女は手にしていたさかずきをゆっくり揺らして可笑しそうに微笑む。杯にかけた指は細く、右の薬指には指輪があった。しかし指輪の石は一つ欠け、天井から落ちる灯火がいびつな石の上で乱反射する。

 すると女は突如、眼の色に鋭い光を走らせ、低い声で告げた。


「それで、今日わざわざ呼んだというのは?」


 女が杯を弄ぶ手を止めて卓に降ろすと、男はその横へ静かに無地の封筒を差し出した。表面には小さな凹凸が出来ており、撫でると何か硬いものの感触がする。

 朱印を押された封を開け、中身をしたためた女の瞳が、僅かに開く。


「本気?」


 驚き露わな反応に、男はしかと頷いた。


「いいの、こんな大層なものを持ってきてしまって」


 女は急いで声を顰めた。自らの疑問に返事が無いので、もう一つ問いを重ねる。


「なぜ、いま?」

「はっきりとは言えない。だが」


 布で隠れた男の表情は読めない。だが、瞳に鋭利な光が宿る。


「早晩、役には立つと思う」

「その厄介な『支配者』をどうこうするのに?」

「さあな」


 短く答えると、男は椅子から立ち上がり、戸口の方へと体を向ける。女は封筒を胸の合わせの内へしまいながら、男の背中に声をかけた。


「もう行くわけ」

「心細い、とでも惜しんでくれるのか」

「まさか。そういう期待もしないくせに。ただ」


 女が人差し指を立てると、色を塗った爪が灯火を映して光った。


「聞かないで見送るのも、無粋というものよ」


 悪戯めいた色を瞳に浮かべて女が見上げる。その視線を受け止め、男は一瞬、目を和らげた。そしてすぐに元の緊張を孕んだ面持ちへ戻り、そのまま卓を離れて間口へ向かう。

 男の後ろ姿が扉の向こうへ消えると、女は石を欠いた指輪に目を落とし、それを隠すように、そっと手を重ねた。

 店に満ちるざわめきは、どこか遠くのもののようだ。窓の外では、闇の中で風が啼くのが聞こえる。

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