第十九話 雪女・大詰め 3
停止していた時間が動き出す。
その時、名無しはそこに居なかった。入れ替わるように――丁度、二人が立っていた間の位置に。退魔ノ剣を前にして、一人の男が、左手を掲げた姿勢で泰然と佇んでいる。それはまるで鏡に映り込んだ虚像のようだった。
その男は、鬼だった。
長く伸びた黒い
黒い着物と袴の和装に身を包み、豪奢な蒼い小袖を羽織っている。更にその上、
そして、神宝の十個目――八握剣の一振りである退魔ノ剣を掴む。
鬼である彼には、退魔ノ剣を抜く資格が無く。
しかし、怪異を討つことに一切の支障はない。
この男こそが退魔ノ剣に封じられし酒呑童子――その化身。
化け物を殺すことができる、唯一の化け物である。
本能的な恐怖を感じ取ったのか。雪女は再び電撃を仕掛ける。しかしそれはまたしても壁状の結界によって防がれた。
酒呑あとらのように予め携帯していた札を使ったのではない。
指先から蜘蛛の糸を生成し、それを編み上げて一瞬にして数十枚の札を構築。防御陣として展開したというだけのことだ。
「――― “
剣指の印を結んだ右手が、退魔ノ剣の柄を叩く。
その瞬間、言葉通りに雪女の体が斬られた。呪術によって生じた不可視の刃を受けて、雪女の腹から血飛沫が迸る。
再び酒呑童子が剣指を執った右手を振るい、五芒星を切る。
それに連動する形で、呪いの刃が雪女に襲い掛かった。縦、横、斜。幾つもの斬撃を受けて、節足が落ち、背中から内臓が零れ、渦巻き状の頭部が唐竹に割れる。傷口から
満身創痍となった雪女が地面に横たわる。
雪女の腹を突き破って幼体の雪男が這い出した。彼らは女王を護ろうとするが、“斬”の一太刀で一掃される。
雪女は――
求めている。訴えている。生きたいと。欲しいと。愛しい貴方が欲しいのだと、必死に手を伸ばす。
その先にある人影。
立花雪緒は、汚物を視る目で雪女を睨め付けていた。
「これで終わりだ。―――赦せ」
酒呑童子の手に巨大な玻璃細工の紅い盃が現れる。
盃を満たすのは鬼殺しの神宝・神便鬼毒酒。それはどんどん量を増し、勢いよく縁から溢れ出す。毒酒の波濤が、瞬く間に雪女と全ての雪男を飲み込んだ。
伊吹大明神の
意のままに洪水を起こす天災の化身・八岐大蛇。その児である酒呑童子の権能。
「―――――明鏡止水・“
酒に溺れ、酒の中に消えていく怪異。
潮が引いていくように、毒酒の波が跡形もなく消失する。全てが凪いでいた。瞬間――酒呑童子の姿が忽然と消えていて。入れ替わるように、名無しと、再び鎖で封じられた退魔ノ剣を抱える酒呑あとらの姿が現れた。
蒼い瓢箪の飲み口に唇を付け、酒呑は盛大に中身を呷る。
そして喜びに満ちた歓声を上げた。
「くぅうう! 効くわぁ! 労働の後はこれに限るやねぇ。はぁ、甘露甘露」
「怪異は無事祓えましたか。これで万事解決……とはいかないんだろうなぁ」
酒呑とは対照的に、名無しは心底憂鬱そうに溜息を吐いた。
肩越しに背後を視る。そこにいるのは依頼人である立花雪緒。彼女は
「なんっ、で……! 雪女は、死んだのに……!」
「―――ハッ、雪女を殺したところでソレが治る訳ないやろ。それは君が負った罪なんやから。さっき言うたやろ、人を呪わば穴二つ。人を虐げるから、自分が虐げられる羽目になるんよ」
嘲りに満ちた言葉を浴びせられ、雪緒は激昂して顔を上げる。
そして、絶句した。
雪女がいた場所。その背後に――見たことのない機械の山がある。
「ミ=ゴの生態は色々。電撃に透過となんでもあり。そしてその中で最も有名なんが、高い科学技術っちゅう訳や。彼らは生き物の脳を取り出して、ガラス製の缶詰に詰めて保存する習性があるんよ。丁度今の君と、そして彼らみたいにねぇ」
三日月を連想させる嫌な笑み。
機械の山は全て保存処理された脳の缶詰だった。缶詰の上部分からは長いチューブが伸びており、その先は断たれている。恐らくは雪女と繋がっていたのだろう。だから雪緒と彼女のクラスメイト達はその行動を怪異に操られてしまった。
これこそが、毎夜毎夜に見る自殺の悪夢の正体。
そして立花雪緒には決して認められない現実だった。
「……カジ・ユキオは、貴方を特別視していた。素の貴方が欲しかった。だから貴方だけ自由意思を持った人形にした。貴方達の頭には多分、まあ、本物の脳の命令を受信する茸のようなものが埋め込まれているのだと思います。そしてそれは今もなお正常に動作している。……恐らくですが。そのままでも日常生活を送る分には問題ないと思われます。医療が発達すれば、抜き取られた脳を再移植する技術や方法も見つかるかもしれません」
名無しの言葉は気遣いに溢れていた。慰めだった。
けれど――そんなものが何になるというのか。
「ふざけないでよ……そこの廃人共よりはマシだから我慢しろっての!? まだ頭が痛いのよ! 死にそうに痛いの! こんな状態で生きていける訳―――」
「―――ほんなら、死にはったらよろしおす」
冷徹に、残酷に。酒呑あとらは雪緒の懇願を切って捨てた。
人間の命も苦痛も、どうでもいいのだと。
実に鬼らしい、同情心の欠片もない対応。
名無しはそれを咎めるように眉を怒らせる。しかし、何も言わなかった。言っては、くれなかった。その事実に絶望している自分に雪緒は気が付く。
(ああ、私は―――)
今更気付いても、もう、どうにもならない。
「ほな、行こか。名無し君」
「はい、シュテン所長。……この度は満足のいく結果を出すことができず、誠に申し訳ありませんでした」
深く礼をし、床の機関銃とショルダーバッグを拾い、酒呑の後を追って名無しが歩き出す。
雪緒は動けない。何かを言う気力ももう湧いてこない。それ程までに頭が痛かった。頭痛に耐えかね、彼女はその場に胃液をぶちまけた。苦い胃酸がタイル張りの冷えた床を汚す。
ここは寒い。
雪緒は両手で自身の体を掻き抱いた。粉々に砕けたプライドをどうにかして集めて、みっともなく泣くことだけはどうにか堪える。
背後で扉の開く音がする。
酒呑の足音が遠ざかる。名無しは霊安室から出る直前に足を止めて、二秒ほど迷ってから、もう一度口を開いた。
「―――では、僕達はこれで失礼します。さようなら」
それだけ告げて、名無しは去った。
後には雪緒だけが残される。
彼女は痛みを堪えながら、無意識内に床を這った。案山子のように突っ立った同級生達を無視して、冷たい空気の中、機械の山に手を伸ばす。
目的のものは直ぐに見つかった。
ガラス製の缶詰。中には妙な液体に漬けられてぷかぷかと浮かぶ脳味噌。その上部には、見慣れた名前が刻印されたプレートが打たれている。
―――立花雪緒
頭痛と悪夢の原因。痛みを生む肉腫。それに泣きながら額を擦り付けて、雪緒は嗚咽を漏らした。
人を呪わば穴二つ。
まさに因果応報。自らの業に追い付かれた女は――長く迷って、悩んで。遂に、自分が
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