第十八話 雪女・大詰め 2

 僕達は過去の情景を垣間見る。第三者の視点で、カジ・ユキオの心に触れて同調する。


 それは実にありきたりな不幸だった。


 十八歳の少年――カジ・ユキオは、学校でいじめられていた。

 先頭に立っていたのはタチバナ・ユキオ。彼と同じ音の名前を持つ彼女は、それこそが許せないのか、カジ・ユキオを手酷く罵り悪辣な渾名で呼んだ。名前どころか苗字ですら呼ぶことはなかった。


 彼は、そんな彼女を――心の底から、羨んでいた。


 愛情にも似た渇望だった。

 彼の肉体は紛れもなく男性のものだったが、しかし心は女性だった。性同一性障害――心療内科でその診断が下ったのは随分と早い時分だった。それだけ彼の精神は不安定で脆弱だった。

 心は女性だが、しかし成長する肉体は男性として成熟していく。

 それ自体が強いストレスだったためか。彼は小学生の時点で男性的な不能になっていた。性的欲求が死んでいた。それを自覚したのは中学生の頃だった。


 性欲を欠いた生き物は、それを補う形で代わりに食欲が増す。


 この症状は去勢した犬や猫、そして人間にも見られる現象だ。カジ・ユキオは生殖器を持ったまま自然とそんな状態になっていた。だから食べた。気付いた時には完全な肥満体となっていた。


 医者からは性転換手術を奨められたが、受けることはなかった。


 そんな恥ずかしいことはやめてくれと、両親から懇願されたのも理由の一つではある。しかし実際のところ、手術をしても望む結果は得られないのだと彼が自分で判断したが故だ。

 手術を受けたところで、女性になるのは見た目だけ。

 生理もなければ妊娠もできない。筋肉や骨格の構造も男のまま変わることはない。偏に現代医学の限界だ。ならば余計なことはしない方がマシだと、カジ・ユキオは観念した。


 変わりたい。

 しかし、変われない。変われる訳がない。


 ―――“”は屑だ。こんなにも醜い。


 カジ・ユキオは誰よりもそのことを知っていた。誰よりも自らの肉体を嫌悪し、憎悪していた。


 両親はカジ・ユキオを異常者と見做して冷遇した。

 周囲の態度はそれに輪を掛けて酷いものとなった。


 当然だと、カジ・ユキオは思った。


 自分でさえ自分が好きになれないのだ。ならば周囲が彼を嫌うのは自然の摂理である。彼は自分が醜いと認めることで、己を取り巻く環境の正当性を保っていた。


 仕方がない事だと言い聞かせ、全てを諦めていたのだ。


 そんな彼が――ある時、恋をした。


 ユキオとユキオ。


 自分と同じ音の名を持つ少女。長い黒髪は艶やかで。端整とした顔立ちにすらりとした長身の、誰よりも綺麗だった女性。自分とは完全に正反対な、凛とした華の如くあった彼女の存在に、カジ・ユキオはどうしようもなく惹かれた。

 だから、耐えられた。

 苛烈な暴行と恐喝に耐え、あらゆる恥辱に耐え、想いを伝えたいという衝動にも耐えた。だって彼にはそれだけしかできない。彼は芋虫のような男だった。

 暴行されることでしか彼女と繋がれない。ならばその繋がりを大事にしようと、カジ・ユキオは思っていた。なんて歪な――けれど、これ以上なく無垢な祈り。彼にとってその想いだけが心の拠り所だった。


 しかし、それも終わる。


 ある日、彼は裸に剥かれて晒し物にされた。

 自らの肉体の性とは異なる性の精神を持つ彼にとって、醜い身体を暴露されることは、強姦にも等しい尊厳の破壊だった。だがそれだけならば耐えられただろう。どうでもいい級友共であれば、犬に噛まれただけのことだとなんとか自分に言い聞かせられる。

 もちろん、精神に負った傷はその程度では済まないだろうが。

 それでも致命傷にはならない――筈、だった。


 問題があったとすれば、それは―――


 憧れの存在であるタチバナ・ユキオが、彼の裸体を見て吐いたことだ。

 そしてこれ以降、彼女自身はいじめの指示をする一方でカジ・ユキオのことは徹底して無視した。触れることすら汚らわしいと、殴ることを止めて、視界に入れることすらしなくなった。


 どこにも逃げ場なんてなく。

 憧れることすら許されない。


 どうしようもない、絶望。


 それを知った時、カジ・ユキオの中にあった大切ななにかが壊れた。


 彼は正気を失った。

 遺書を書き、廃病院の屋上から飛び降りた。それは完膚なきまでに自殺だった。

 自殺とはいわば、究極の現実逃避だ。

 見たくない現実から、死で以って目を背ける行為。


 ―――時に、死は救済と謳われる。


 それは仏になることであり、神の御許へ召されるということ。しかし自殺による死は例外だ。それは自分自身への暴力行為であり、己自身で行う尊厳の凌辱である。

 別けても、人が説く倫理と道徳においてはそう定められている。


 当たり前だ。

 無責任に何もかも放り捨てて逃げ出した癖に、救われることを期待する方が馬鹿げている。そんな虫のいい話はない。


 ――――自殺は救いになどなりはしない。

 逃げたところで、現実は何も変わらない。


 結果として――彼が投身自殺を遂げられなかったのは、ある意味で当然の帰結だろう。即死を免れ生き長らえた。しかし後遺症により植物人間になった状態で、彼は意識を保ったまま病院で寝たきりの生活を送る。

 蓄えた脂肪が失われるほどの長い時間。

 意識しかない彼には、暗い闇の中で考えることしかできない。


 憧憬、恋慕、嫉妬、憎悪。


 彼の脳は、強烈な負の感情を煮込み続ける鍋になっていた。そこから溢れ出る芳しき香りは、誘蛾灯のように妖を誘い引き寄せる。


 瞼を閉ざし寝たきりのまま、彼は自分の枕元に奇怪なモノが立っていることに気付いた。

 それは宇宙の化身。混沌という究極の虚空に座す、暗澹たる渦動。

 彼が持つ負の感情に惹かれて、妖が現れたのだ。ソレはカジ・ユキオの顔をじぃっと覗き込み続けている。しかし、


 怪異は、生き物が妖を目視することで産まれる。


 逆に言えば、盲目のものから怪異は産まれ得ないのだ。そしてその点に関しては意識不明の重体であるカジ・ユキオも同じだった。彼が怪異になる筈がないのだ。


 しかし―――


「“―――承諾した。稀人マレビトよ、オマエの願いを叶えよう”」


 気が付けば。枕元にもう一人、誰かが立っていた。

 眠るカジ・ユキオの両目の上に掌が置かれる。ソレは武人を思わせるごつごつとした大きな手で、木乃伊ミイラのように乾いていた。


 掌が強引に瞼を開かせる。

 光のない眼球が、妖の姿を映す。その瞬間―――


 カジ・ユキオの肉体が現世から消えて。

 怪異・雪女が、廃病院で産声を上げた。


 * * *


 過去の情景から現実へと引き戻される。

 長く永く寝惚けていたようで、その実流れた時は一瞬。一秒どころか刹那すら経過していない。ただ観察するだけの時間旅行。シュテンが有する異能の力――その発露だった。


「―――なに、それ」


 呆然と呟く。

 それはタチバナさんの声だった。彼女もまた同様に、あの情景を視ていた。妖にカタチを与える胎盤となった、醜いおんなの負の情念を。


「そんなふざけた理由で私達を――私を甚振ってたっていうの。―――ぁぁぁあああああああ! 気持ち悪い! 気持ち悪い気持ち悪い、気持ち悪いッ!!」


 髪を振り乱し、頭を掻きむしる。

 皮ごと頭髪が抜けるが当人に気にした様子はない。完全に痛みよりも嫌悪の方が勝っている様子だ。


「ただの復讐だってんならまだ分かるわよ……。いや、そういう意図もあったんでしょうね! だって私、自殺させられる度に頭が痛いし! そこのそいつらだって身体を操られて自殺させられてたんだから! すっっっごく凝った復讐ね! 陰湿! 最低! この屑、豚野郎! 糞虫が、笑わせるんじゃないわよッ!」


 逆恨みも甚だしい気がするが、そんなことを言ったらその瞬間に絞め殺されそうなのでぐっと抑え込む。

 それに、彼女の言うことも半分は正しい。

 どんな事情があったにせよ、どんな想いがあったにせよ。なんであれ雪女――カジ・ユキオがしたことは私刑だ。それはこの法治国家で許されることではない。


 虐げられるのが嫌なのなら。その現実を憎悪するのなら。

 彼は、自殺するのではなく。弁護士を雇い、警察に通報し、司法の下で戦うべきだったのだ。


 救われたいと願うなら、彼は変わるべきだった。


 芋虫が蝶になるように。追い求める理想の姿に変わればいい。必死に生きて、その努力をすればいい。しかし、カジ・ユキオはそうしなかった。自らの命を絶つことで、努力することを永遠に放棄した。


 故に彼は度し難く愚かで、醜い。


 芋虫のような彼は、蝶にも蛾にもなれはしない。永遠にずっと醜い芋虫のままだ。この事実は決して覆せない。それが自殺するということなのだから。


 挙句の果てに、怪異と化して人に害を為すなど言語道断である。


 もちろん、だからと言って、タチバナさん達の「はんこうしないのだからこいつはいじめてもいい」なんて言い分を正しいと認める気は毛頭ない。暴行と恐喝と誹謗中傷は立派な犯罪です。ダメ、ゼッタイ。

 同種の生物が暮らすコミュニティ内において劣弱な個体が排斥されるのは自然の摂理だが、それはあくまで自然界での話だ。人間社会に持ち込んでいいルールではない。


「―――――お前みたいな欠陥品、生まれてこなければよかったのよッ!!」


 ……そんな指摘は今更だろう。

 きっと他ならぬ生前の彼自身が同じことを思っていた。『好きで生まれてきた訳じゃない、こんなことなら生まれてくるんじゃなかった』と。

 あの過去の様子から察するに、彼の両親ですら『生むんじゃなかった』と後悔していたに違いない。


 ……ああ。なんて滑稽で、悪趣味ななんだ。


「―――――」


 観劇するクモ――シュテンが、満足気に嗤っている。


 一方、タチバナさんはぜえぜえと苦しそうに肩で息をしていた。余程激昂しているらしい。

 ……と思いきや。罵るだけでは足りなかったのか。彼女は僕の下へ駆け寄ってくると、BARを引っ手繰った。そして銃口を雪女に向けて引鉄を引く。


 三秒と経たず空になる弾倉。


 お世辞にも上手いとは言えない射撃だったが、相手が巨大なこともあって大体の弾が雪女に当たった――ように見えた。実際は一発も当たっていない。雪女も雪男同様に、霊体化する能力を有しているのだ。ただの物理的な攻撃では傷一つ付けられない。

 ガチガチと空転する機関銃。

 タチバナさんは激情に任せて、役立たずの銃器を床に投げつけた。そしてぼろぼろと涙を零しながら、何度も床を蹴る。


「畜生ッ! 畜生、畜生、畜生、畜生ォッ!!」


 こわい。


「恨み節はもうその辺でええかいな。それなら、後はボクらの出番よ。―――おいで、名無し君」


 数歩前へ出て、シュテンがこちらに手招きする。

 ショルダーバッグを床に置き、僕は大人しく指示に従った。


 邪神――怪異・雪女を前にして、僕とシュテンが肩を並べて立つ。


 不意に、シュテンが抱えていた退魔ノ剣が、独りでに宙に浮く。

 境界を映す鏡のように―――――僕とシュテンの間で静止する。


 ―――ジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジッ


 危機を察したか。雪女が、こちらに向かって電撃を放つ。

 雪男のものとは比較にならない。直撃すれば間違いなく命はないだろう。しかし、それはシュテンが展開した壁型の結界によって防がれた。

 命拾いしたが、それも長くは続きそうもない。

 壁となっている十二枚の札は、既に黒く変色しつつある。


「罪のは歴然よ。人を呪わば穴二つ。他人ひとを殺したんなら、自分も殺されるんが世の中の道理やけんね。

 雪女。妖でありながら、君は梶幸雄君に恋をした。彼に惹かれ、己の立場も弁えず、軽々に彼の前へと姿を晒した」


 ―――それが天津罪。


「梶幸雄君。君は見てはならんものを見て、妖を受肉させ、形あるものへと貶めた。人を捨て、化け物に成り果てた」


 ―――それが国津罪。


「そして怪異となったは、かつての同級生を殺めはった。それだけじゃ飽き足らず、人形に改造して弄んだ」


 ―――そしてそれこそが、怪異が現世にもたらした許許太久ノ罪。


 シュテンが胸の高さまで左手を上げ、掌を掲げる。

 それに倣い、僕もまた前方へゆるりと右腕を突き出した。その瞬間――シュテンの姿が幽霊のように搔き消える。


 更に退魔ノ剣の口が、鎖を噛み砕く。

 鎖が砂のように崩れ、大気に溶けて消えた。


 あとは、僕の仕事だ。


 意識を殺して、淡々と――退魔ノ剣の封を解く最後の口訣を引き継ぎ、唱える。


「―――神が犯せし天津罪、民が犯せし国津罪。世に現れし是ら許許太久ノ罪を――退魔ノ剣で以って、祓い給う清め給う也。

 布瑠部フルベ――由良由良止ユラユラト――布瑠部フルベ―――――!」


 瞬間―――――時間が、停止した。

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