第十話 廃病院と恐怖の夜 2

 彼は片手で拳銃を操作して弾倉を振り出し、空の薬莢を排出する。真鍮しんちゅうの筒がコンクリートの床に落下し、甲高い音を立てた。


 名無しは私の手から自分の手を離すと、懐に忍ばせ、六つの弾丸がついた黒い筒状の物体を取り出す。それを空の弾倉に押し込むと、手首を振って振り出された弾倉を元に戻した。それで用が済んだとばかりに、彼は黒い筒を床に捨てる。


 どうやら黒い筒は素早く再装填を行うための道具だったようだ。名前は知らない。調べる機会は――果たして、今後訪れるかどうか。


 闇の中から足音がする。

 足音がする方向に懐中電灯を向ける。白い光が、少なくとも五人以上の人影を浮かび上がらせた。


 わざわざ屋上から、地下ここまで降りてきたのか。


 人影には皆見覚えがあった。やはりここに来る途中で見た顔だ。彼等は一様に死んでいるかのような虚ろな表情で、わらわらとこちらに殺到してくる。


 そして――背後からも。


 後方へ明かりを向けると、撃ち殺されたはずの男が迫ってくる様が見えた。胸に三発、頭に二発もの銃弾を受けているというのに、なぜか彼は生きている。


「九ミリじゃ殺せないか。なら―――」


 名無しは拳銃を懐に仕舞うと、上着の背中に腕を入れた。襟口と裾に飲まれた二本の腕が、ずるりとなにかを引きり出す。


 ソレは、斧だった。


 楕円を描く大ぶりの刃には、現代的な鉄パイプの柄と樹脂の握り手がついている。それを二振り両手に持って、名無しは地面を蹴った。


 ……私は、何を見ているのだろう。


 まるで映画のワンシーンのようだと、凍り付いた脳が思う。ジャンルはホラーかアクションか、判断に悩むところだ。

 襲撃者――この際だからもうゾンビとでも呼ぼう――の体を二本の斧でぶった斬っている青年の姿に息を呑む。その殺陣はハリウッドの舞台にも勝るとも劣らない。随分ずいぶんと手馴れているようだった。


 なぜ私と同じ怪異の犠牲者である筈の彼等が、私達に襲い掛かるのか。私には理解できない。


 しかし名無しはそうではないのか、それとも何も考えていないのか。石や建材、あるいは無手で襲い掛かってくるゾンビ達の首を遠慮なくね落とした。

 彼自身は負傷しておらず、返り血もほとんど浴びていない。


 ……しかしどんな手練れでも隙というものはあるようだ。


 ゾンビ達は、タイミングをずらした波状攻撃で名無しの隙を誘う。そして致命的な一撃を与えようと鈍器を振り被る女の姿があった。


「……ッ! この―――――!」


 すっかり棒になってしまっていた足に活を入れ、名無しを殴ろうとしていた女にタックルを食らわせる。肩口から脇腹にぶつかり、女は吹っ飛んだ。

 その後を追って、私は駆ける。

 途中で武器になりそうなものがあったので拾った。そして倒れたままの女の頭に、全力で手の中の消火器を振り下ろす。


 何度も殴打する内に女の頭は潰れ、動かなくなった。


 ―――ひとり仕留めた!


 私がそんな風に達成感に浸っている間にも、名無しはゾンビ達を殲滅せんめつする。その戦いぶりは正しく無双だ。彼はなにか武道でもやっていたのだろうかと、私は思わず首を傾げてしまう。


 やがて。


 十六人目の首が落とされた時、ようやく私達以外に動くものはなくなった。


 名無しは斧を軽く振る。刃を汚す赤黒い液体が払われ、床を跳ねた。

 斧にしろその使い手にしろ、十人以上斬ったにしては汚れが少ないように見える。そんな風に思うが、生まれてこの方殺人現場に居合わせた経験などないのだ。案外こんなものなのかもしれないと、無理やり自分を納得させる。


「うーん……どうやら、頭を大きく損傷すると死ぬようですね。それで首を断てば動けなくなる、と」


 斧を肩に担ぎ、名無しは言った。


 胴体から分離した首は、白濁に濁った眼球を回し顎を動かしている。対して、頭を唐竹割りにされた死体は、体があるにも関わらずぴくりとも動かなかった。


 興奮が冷めて、遅れて恐怖がやってくる。


「……これは、いったい、どういう」


 がちがちと体が震え、歯の根が鳴る。本能がやかましく警鐘けいしょうを鳴らしていた。割れるように頭が痛い。耳鳴りが一層ひどくなる。


 ―――ジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジッ


 虫の羽音に似た雑音が、頭蓋の中で反響した。


「……まだ確証が得られておりませんので、お話しできません。それよりも今は脱出に専念しましょう」


 露骨に話を逸らされた気がした。

 途端に、再び私の体の内から暴力的な衝動が沸き起こった。そんな言葉ではとても納得できない。はらわたが煮えくり返る。私は彼に詰め寄ろうとして――足を止めた。全身に鳥肌が立つ。私は恐る恐る、部屋の隅へと顔を向けた。


 暗がりの中――視界の端に、ピンク色の物体を捉えてしまったから。


 ソレを目にした以上、見ないふりをすることはできない。私はそちらへ懐中電灯を向ける。


 やはり、そこには雪男がいた。


 一体何時からいたのか。何をするでもなく、そいつはそこに佇んでいた。


「―――ひっ」


 恐怖と生理的な嫌悪感から、半ば反射的に私は悲鳴を漏らし胸元を掻きむしる。全身の血が音を立てて下がり、粟立った肌からどっと汗が噴き出した。


 その一方で、名無しは私とは真逆の反応を示し、即座に行動へと移す。


 彼は無表情で斧を振り被ると、雪男に向かって投擲とうてきした。


 回転する刃は雪男を貫き――そのまま擦り抜けて、背後の壁に刺さる。甲高い金属音が虚しく響いた。


「―――なんだって?」


 ここに来て初めて、名無しが愕然と目を見開く。まるで心底悪い冗談を聞かされたかのような、そんな表情だった。


 投げられた斧は雪男の体を擦り抜けた。それは驚愕に値する事実なのだろう。だが私は妙に醒めた気分でその光景を見つめていた。


 元々、雪男は壁を通り抜けることができるのだ。

 驚くようなことではない。他人事のように、そう思う。


 名無しは残った斧を構えつつ、空になった手を懐へ忍ばせようとする。きっと銃を取り出そうとしているのだろう。それでは駄目だ。通用しない。逃げた方がいいと、訴えようと口を開けた瞬間だった。


 その瞬間――私は、


 激痛が全身を蹂躙じゅうりんする。叫び声を上げたつもりだが、ちゃんと声が出たのかどうかすらよくわかなかった。視界が真っ赤に焼ける。身体の感覚が急速に遠ざかっていく。がたん。誰かが倒れる音が聞こえた。たぶん私だ。


 底なし沼に沈むように、私の意識は奈落の底へと落ちていく。


 視覚と触角は完全に途絶えていた。その中で聴覚だけが生きている。外界から聞こえる音だけが私の全てだった。

 誰かに背中を叩かれた音。

 次いで、バチバチと、稲妻が大気を焼く音がする。

 薄れゆく意識の中、私は誰かの身体が呆気なく崩れ落ちる絶望の音を聞いた。

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