第九話 廃病院と恐怖の夜 1
廃病院は、やはり近所にあった。
コンクリートの塀で囲まれた五階建ての建物。遠い昔に打ち捨てられた人命救助の最前線であった砦は、見事なホラースポットへと零落してしまっている。今の季節なら肝試しをしに人が集まっていそうだが、しかしそんな様子はなかった。
―――そういえば。
ここに来るまでに誰とも
隣の名無しに声を掛けようと口を開くが、それが形になるよりも早く雪男が廃病院の中へ向かって歩き出した。周囲の人々もそれに続く。
「僕達も行きましょう」
「ちょっと、正気!?」
「大丈夫ですよ、飛び降りはしません。途中でこっそり集団から抜けて、地下へ向かいます。今日のところは情報収集に徹しましょう。地下にいるという雪女の偵察を終えたら、即座に病院から脱出します。いいですね?」
場所は突き止めたのだ。探索なら明日の昼間にでもすればいい――そう言いかけて、口を
刑事ドラマとかでよく見るヤツだ。実物は初めて見たけれど――たぶん、アレは本物だと思う。
名無しは片手に、懐中電灯を逆手に持って構えて。
そして反対の手に
……思わず笑ってしまう。
「―――――」
「? どうかしましたか?」
小声で
どうやってそんなものを手に入れたのかとか、色々と疑問は尽きないけれど。今は「銃刀法違反とかありえない」なんて常識的な気持ちよりも、むしろ頼もしいという思いが勝ってしまう。私も随分とこの状況に毒されているみたいだ。
―――集団に紛れて、廃病院の内部に足を踏み込む。
自動ドアは元より、全ての窓ガラスが割れていたために侵入は容易だった。
雪男達は当然上へ。
私と名無しは、周囲に誰もいなくなったのを見計らってから下へ向かう。
廃病院の地下に月や星の明かりは届かない。私達は無言で懐中電灯のスイッチを入れた。人工の光によって暗闇が丸く切り取られる。名無しは「ついて来い」という風に指を振ってから、降り階段に足を掛けた。
物音を立てないよう、細心の注意を払って階段を降りていく。
程なくして地下一階のフロアに辿り着いた。
部屋を一つ一つ確認していく。
倉庫は空っぽ。電気室やボイラー室などには多数の機材が設置されていた
ただし、一ヵ所だけ例外があった。
ほぼ全ての部屋の扉が外されているか開け放たれている中で、唯一厳重に閉鎖された部屋があった。そしてその扉の上には、その部屋の名前を示すプレートがそのまま残っている。
―――霊安室。
―――ジジジジジジジジジジジジジジジジジジジジッ
扉の向こうから、私を呼ぶ声が聞こえてくるような気がした。
「…………」
名無しが先行して霊安室に近づく。
分厚いステンレスのスライドドアに指を掛け、数センチほどの隙間を開ける。その瞬間、冷たい空気が肌の上を流れた。どうやら扉の隙間から中の冷気が溢れ出てきたらしい――と、そこまで考えて凄まじい疑念に襲われる。
ここは廃墟だ。なのに、どうして霊安室の中が冷気で満たされているのか。
私は名無しが動くよりも先に扉にへばりつき、中を覗き込んだ。
真冬の夜のように冷たい闇。その中で、何かがチカチカと輝いている。点滅している。茫洋とした青白い人工の光の瞬きが、霊安室の中で
何かの化学薬品と、
死体を何十体も収めて置けそうなほどに広い空間。その真ん中に、怪異が蹲っている。腹を抱え、背中を丸めて床に座り込んだ姿は妊婦を思わせた。
やはり――それは、女だった。
男ではない。その事実に、私は
「タチバナさん」
不意に、肩を掴まれた。
振り返ると、名無しと視線が合う。彼は今までに見たことのない顔をしていた。普段の陽気な雰囲気はなりを潜め、深刻に表情を殺している。そんな顔もできるのかと、思わず感心してしまうほどの変化だった。
「当初の目的は達成しました。どうやら、今の僕の装備ではどうにもならない相手のようです。今の段階でこれ以上進むのは不味い。一旦戻って準備を整える必要があります。今日はもう引き上げましょう」
顔を寄せ、有無を言わせぬ語調で名無しが言う。それに対して、私は頷くことしかできなかった。
冷たい扉から顔を引き剥がす。
そして何気なく視線を上げた瞬間――私は、
「な、名無しさん!
「えっ、やだなタチバナさん。こんな時にそういう冗談はやめてくださ―――」
頬を掻いて間抜けなことを言っている名無しの首に腕を引っ掛け、私は全力でその場から飛び退いた。真横に吹っ飛ぶ形で、私と名無しの体が硬い床に投げ出される。名無しの手から懐中電灯がすっぽ抜けた。
その瞬間、さっきまで私達がいた位置に勢いよくなにかが振り下ろされた。
硬い音が床を叩く。
混乱した頭をどうにか動かして視線を向けると、鉄パイプらしき建物の端材を携えた人間の姿が確認できた。見覚えのある男だ。確か、彼は雪男に誘導されてこの廃病院にまで来てしまった、私と同じ犠牲者の一人だったはず。
「―――――」
名無しは、何も言わなかった。
彼の横顔には困惑も
その手には、拳銃が握られている。
彼は一切の
立て続けに三度、乾いた音が鳴り響く。襲撃者の体が大きく傾いだ。胸に三つの赤い穴が開いている。
明らかに致命傷だ。少なくとも、普通の人間なら死んでいると思う。
だが、彼は――いや、ソレは生きているようだった。悲鳴どころか呻き声の一つも漏らさない。その顔からは生気というものが抜け落ちていた。まるで死体が動いているかのようだ。
そしてその連想の正しさを告げるように、男は何事もなかったかのように傾いだ体勢を元に戻して、再び鈍器を持ち上げる。
名無しは再び引鉄を絞った。撃ち出された弾丸が、男の右手を貫く。鈍器が手から抜け落ちた。
「タチバナさん、起きてくださいッ!」
名無しに引き
「なっ、なにがどうなってるの!? どうして―――」
「彼は操られています。十中八九、怪異の仕事でしょう。どうやら僕達を逃がすつもりはないようだ。申し訳ありませんが、強行突破に移ります」
「つまり!?」
「逃げるんですよ―――――ッ!」
名無しは弾倉に残った二発の銃弾を男の頭蓋にくれてやると、私の手を引いて走り出した。
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