第七話 悪夢/現実(?) 1

 ……嫌な夢を見た。


 昔の夢。あれはあれで悪夢だ。私にとってあの頃の記憶は忘れ去りたい黒歴史みたいなものだというのに、久し振りに見た奇妙な飛び降り自殺以外の夢がこれとは。本当についてない。改めて自分の間の悪さを呪った。


 私はのそりと寝返りを打つ。

 その瞬間、頭に乗っていた何かが落ちる気配がした。


 薄っすらと目を開ける。

 寝台の上に札が横たわっていた。黒い紙色が、暗い部屋の闇に溶けている。


 ……黒い?


 確か、名無しから貰った時、札の色は白だった筈。なのにどうして黒くなっているのか。これではまるで――そう、まるで。悪臭を吸い過ぎて変色し、効果を失くしてしまった脱臭剤のようじゃないか!


 そう思うと同時に、頭の中で火花が散った。


 電流を流されたように、体がびくりと痙攣けいれんする。そして、もう慣れ親しんでしまった金縛りの感覚が私の全身を犯した。


 動けない。


 指の一本すら言うことを聞かない。唯一自由なのは眼球だけだ。そして最悪なことに、視界の端には見慣れたピンク色の毛むくじゃらが見える。どうやら私を迎えに来たようだ。


 私の体は、私の意に反して起き上がる。

 それを認めると、毛むくじゃらの化け物――雪男は、アパートの部屋の外へ向かってゆっくりと歩き出した。


 * * *


 まだ私は、夢を見ているのだろうか。

 また私は悪夢を見ているのだろうか。


 先導されるまま、雪男の後をついていく。雪男は玄関の扉を幽霊のようにすり抜けた。私はその後を追って、靴を履いてから玄関の扉を開けて後ろ手に閉める。


 扉の向こう側では雪男が待っていた。


 雪男は廊下を歩き、階段を降りてアパートの外へ向かう。意に反して、私の体はその後に続いた。抵抗はできない。このまま、夢が覚めるまで――廃病院の屋上から飛び降りるその瞬間まで、私はこの悪夢に付き合わなければならない―――


 ―――そう、諦観した瞬間だった。


 不意に背後から何かが伸びてきた。それは蛇のように私の頭と首に絡みついて、口を覆う。額に何かを張り付けられた。その瞬間、体の自由が復活した。


「―――――ッ!」


 私は両腕を振り回し、叫び声を上げようとする。しかし口が塞がれているせいか、声は不明瞭でくぐもって聞こえる。これでは助けは期待できそうにない。私はもっと大声を上げようとするが、その直前に聞き覚えのある声が耳に入り込んだ。


「シッ、静かに」


 思わぬ事態に体が硬直する。

 肌に息がかかるほど近くに、名無しの顔がった。どうやら私を捕まえたのは彼の腕であったらしい。


 意図を理解して、私は彼の手を叩き腕を退けるよう訴える。額に新しい札を貼って貰ったからか、金縛りは解けていた。


 名無しは慎重に私から離れた。


「……どうして、貴方がここに?」

「調査のためです。数時間前から、近くの路地裏で待機していました」


 互いに声を殺して話す。

 名無しは相変わらずの黒いスーツ姿だ。暑くないのかと疑問に思うが、今はそれどころじゃない。


「……どういうことですか」


 調査のために数時間前から張り込んでいた?

 探偵ならそれくらいするだろう。だが――これは、私が見ている夢ではなかったのか。夢の中に現実の人間が出てくるなんて、そんなのは


 額を押さえ当惑する。頭が痛かった。

 本当は、もう答えに気づいていた。だが、


「結論から言います。今の貴方は眠ってはいません。紛れもなく起きている状態です。恐らく、あの怪異が妖術――暗示や催眠術の類で操っていたのでしょう。大抵の怪異には人を意のままに操る力がありますから」


 慎重に、名無しは言う。その言葉からは、私を安心させようという意図がありありと読み取れた。

 


「……幸い、あの怪異や周りの人達はこちらに気付いていないようです」


 言われて初めて、私は周囲に注意を向けた。

 そこには何度も夢で見た光景が広がっていた。死んだ魚のような眼をした、生気のない顔の人間達がたむろしている。人数は二十――いや、三十人はいるだろうか。顔触れは変わっていないようだが、改めて見ると結構大人数で驚いてしまう。


「……あれ?」


 何とはなしに一人一人の顔を眺めていると、奇妙な既視感に襲われた。

 脳の奥でなにかが閃いた気がする。私は衝動に従って、その場にいる人達の顔を観察した。そして疑念は少しずつ確信へ変わっていく。もしかしたら――私は、彼等を知っているかもしれない。


 雪男が歩き出す。

 それに釣られて、彼等もまた歩き出した。


「僕は彼等を追います。タチバナさんは―――」

「私も行きます。そもそも雪男は私を迎えに来たんだから……私が行かないと、いけないんだと思います」


 きっと彼は私に部屋へ戻るよう言おうとしたのだろう。だがこの場でそんな気遣いは無用だ。いま出来得る限りの強がりを顔に張り付けて、名無しを見返す。


 これが現実だというのなら、なぜ私がこんな目に遭わなければならないのか。その原因と理由を突き止めたかった。そしてそれを見つけたなら、私は私自身の尊厳と誇りをかけて、それを叩き潰さなければならない。


 今までそうしてきたように。

 これからも私は戦ってやる。

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