第六話 私は殺していない

 私はその男が嫌いだった。


 存在自体が不快で、生理的に受け付けられない。視界に入っただけで気分は最悪になったし、体臭が鼻についた日には手酷い吐き気をもよおした。


 なんてことはない、どこにでもいるただのクラスメイトだ。


 同い年の子供が何十何百と集まれば、馬の合う奴の一人や二人はいるだろうし、その逆もまた存在し得る。そいつは私にとって後者側の人間だった。ただそれだけの存在であり、、どうしようもないほどに度し難い害虫だったのだ。


 無論、今までにもそういう人間は何人もいた。


 小学校と中学校の九年間。そして高校に上がってからの二年。いつもクラスに一人か二人は、いた。あるいは私自身がそういうものだった。


 小学生の頃、私は太っていた。


 六年もの間ずっとデブだのブタだのとはやされ揶揄からかわれ続け、精神的にも肉体的にも痛めつけられる日々。

 何故そんなことをするのかと訊けば、決まってお前が悪いのだと罵られた。


 曰く、見た目が気持ち悪い。

 曰く、両親が医者で金持ちなのがムカつく。

 曰く、勉強ができて大人に褒められているのが気に入らない。


 今思えばとても幼稚な理由だ。

 けれどそれこそが、子供にとっての全てなのだと私は知った。


 つまり――あらゆる横暴は、理不尽な理由の下に正当化される。道徳を説くだけ無駄なのだ。いつしか私はそう理解し、、逆襲を開始した。


 当たり前だ。私はサンドバックなどではない、一人の人間なのだから。


 虐げられれば復讐したくなるのが人情だ。

 幸いなことに私はそれなりに頭が回った。だから中学校への進学を機に死ぬほどの努力を重ね続け、その結果、私はいじめっ子共の人生と引き換えに平穏な学生生活を手に入れることに成功したのだ。


 それからの私は上手く生きていたと思う。


 痩せた体型を保ち、親や先生の期待に応えて高い成績を維持した。常に自分がクラスの中心に来るよう立ち回り続け、時に娯楽をも提供した。小学生の時とは一転して、私の人生は順調に好転していた。


 だが、高校三年生の時だけはそれができなかった。

 当時の私には、どうしようもなく目障りなヤツがいた。それがあの男だ。


 常に俯きがちで、ぼそぼそと喋るものだから何を考えているか分からない。太った姿は醜悪な上にかさって邪魔だ。その癖、理不尽に罵倒され暴力を振るわれても何も言わない。何もしない。小さくなっていれば全て過ぎ去るとでも思っているのだろうか。

 彼がどうして自分で事態を解決しようとしないのか、私には理解できなかった。教師に告げ口でも、警察に相談でもなんでもすればいい。なのにそいつはそうしない。本当に気味が悪かった。


 話せず、話したくないのなら引きこもっていればいい。それは当人の自由だ。視界に入らない限り私は何もしない。再三に渡って学校には来るなと言ってある。にも関わらず、他者の迷惑を顧みずに人前に出てくるだなんて――そんなのは「


 ……きっと、時期が悪かったのだと思う。


 大学への進学を目前として、受験勉強に明け暮れていた頃だ。当時の学生の心境はそれこそ戦争に赴く兵士のソレで、余裕なんてものは微塵もありはしない。それが自分の負の過去を想起させるのなら猶更だ。

 些細なストレスが爆弾になることすらありうる。そんな、荒んだ環境だった。

 そして、そんな状況で寛容に生きられる人間なんて


 だから私は、として、そいつの存在を


 とにかく環境から消えてくれればそれでよかった。視界に入らず、悪臭が届かない場所に消えて欲しかった。だから私は、率先そっせんしてそいつを攻撃した。


 幸いにも私の行動がとがめられることはなかった。むしろ皆が自主的にその男を排斥するよう動いていた。斯くして集団の意識は一つとなり、そいつだけがどうしようもなく異物として孤立し続けていた。


 ……暴力行為がストレスの発散になるかといえば、決してそんなことはない。


 そもそも相手はそのストレスの源なのだ。攻撃するためとはいえ、そんなモノと接触を持つだなんて我慢ならない。苛立ちは倍々算で増し続けた。


 崖から転げ落ちるような勢いで、日々のそいつの扱いは悪化していった。


 殴る蹴るは当たり前。嘔吐するまで腹を踏みつけ、吐瀉としゃ物を顔面に押し付けてから片付けさせたりもした。椅子で殴れば額が割れ、窓に突き飛ばせば砕けたガラス片で肌が裂けた。派手に出血していたが、やはりそれも自分で片付けさせた。

 調子に乗った他の男子がそいつを裸に剥いて晒し物にしたりしていたが、それだけはやめて欲しかった。誰が好き好んであんな奴の裸体を拝みたいと思うのか。一瞬だけ視界に入れてしまった体は脂肪に塗れていて、豚というよりも芋虫に似ていたように思う。その時は酷く不愉快で、本当に吐き気がした。というかトイレで吐いた。


 だがそんな日々も長くは続かなかった。


 その男は自殺した。


 どこぞの廃病院の屋上から飛び降りたらしい。だが死に損なったらしく、意識不明の状態でどこかの病院に入院していると聞いた。

 他人事のように言う教師の報告。

 それを聞いて――私は、勝ったのだと、そう思った。


 これで心置きなく受験勉強に専念できる。

 異物が消えたことでクラスは平穏を取り戻した。あんな男は最初からいなかったのだと、そう主張するかのように教室は静けさを取り戻し、皆が熱心に勉学に取り組んだ。

 そして私は、医者であった両親と私自身が望んでいた通りに、地元の有名大学であるミスカトニック大学医学部への進学が叶ったのである。


 あれから二年――私のキャンパスライフは順風じゅんぷう満帆まんぱんで、何一つとして不満も汚点もない日々を過ごしていた。ほんの一ヵ月前までは。


 頭痛と悪夢に苛まれる日々。


 けれどそれも、きっともうすぐ終わる。私はあの男とは違う。自らの意思で行動し、戦い、そして勝利を手にすることができる。その自負があった。


 ……彼。その男。そいつ。芋虫じみた太った男。


 散々と、そんな風に罵ってきたけれど。


 そういえば。

 彼の名前は、なんていうのだったっけ?

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