第二話 依頼しますか?

「……あの。これ、本名じゃないですよね?」


 問い質す声は自然ととげを孕んでいた。目尻がぴくぴくと痙攣けいれんしているのが自分でも分かる。馬鹿げている、ふざけていると思い続けていたが、改めて目の前で演じられると一層あたまにくるものがあった。


 けれど名無しと名乗る男はこちらの苛立ちを気にした様子もなく。むしろ慣れた風に、眉を困らせる。


「はい、慧眼ですね。名無し、というのは僕の本名ではありません。実は重度の認知障害を患っている身でして。僕はんです」

「―――それは、どういう?」

「そのままの意味ですよ。……あっ、立ち話もなんですからお掛けになって下さい。それから、よろしければメニューの方もどうぞ」


 対面の席を勧められ、ついでとばかりにメニュー表を押し付けられた。


 男――名無しの前にはコーヒーカップが置かれている。飲みかけなのか、中身は減っていた。

 私は彼と同じものを店員に注文する。

 店員が厨房の方へ引っ込んだのを見計らって、私は彼に続きを話すよう促した。


 名無しは、少しだけ悩むように首を捻る。


「まあ平たく言うと、世間一般でいうところの記憶喪失の亜種みたいなものですかね。僕は自分に関する記憶が全部なくなっていて、尚且つそれに関連する事柄が認識できなくなってしまっているんです」


 一端話を区切り、名無しはコーヒーを呷った。


「たとえばですね。僕の本名が書いてある紙があるとします。他の人には普通にそれが読めるのですが、僕にはソレがよく分からない文字が書かれているようにしか見えない。それはひらがなでもカタカナでも、漢字でも同じでした。

 声で名前を呼ばれても同様で、相手がきちんと僕の名前を呼んでいたのだとしても、僕は自分の名前が呼ばれていると認識できない。なので便宜上、名無しという渾名あだなを名前代わりに使わせて貰っているんです」


 まるで他人事のような語り口で、名無しは言った。

 それは……なんというか、不便とかそういう次元を超えている気がする。だって、それって―――


「―――失礼ですが。貴方はどうやって探偵事務所に就職したんですか? 貴方が言っていることが本当なら、面接どころか履歴書すら書けないじゃないですかッ」


 語尾が強く跳ね上がる。知らず知らずの内に語気を荒げてしまっていた。

 苛々する。

 そんなこちらとは対照的に、名無しはあくまでも丁寧ながらもどこか軽薄な佇まいを崩さなかった。


「仰る通りです。僕が正規の探偵社に務めることは難しいでしょう。ですが当探偵事務所は、そもそも真っ当な探偵業ではないもので。何しろほら、霊能探偵ですから。所長の酒呑も人間ではなく鬼ですし。ははは、眉唾もいいところでしょう?」


 にやり、と。

 名無しが白い歯を剥き出しにした嫌な笑みを浮かべる。


「当事務所は、探偵として必要な届け出の一切を提出しておりません。ですので、『怪しい』と言われれば『その通りです』とお答えしなければならない。誠にお恥ずかしい限りです。……さて。当事務所にご連絡頂いた方には皆、依頼をお受けする前には必ずこのお話をしているのですが―――」


 ―――どうされますか?


 言外にそう問われる。

 ……要約するなら。この男は、あくまでも親切心として『自分は怪しい者です』と名乗っているだけに過ぎない。霊能探偵という看板と、本当かどうかも分からない認知障害を理由に身元を明かすことを拒む所員。そんな奴を相手に仕事を依頼する者などまずいないだろう。

 そしてそれは、そのことを十分に自覚しているからこそ出た言葉だ。


 私は大きく溜息を吐いた。

 眉間のしわを指先で解し、天井を仰ぐ。


 頭が痛い。


 そもそも、この霊能探偵とやらは自分で見つけてきた会社ではない。

 こちらから相談事を持ちかけた大学の知り合いから、「それならば」と紹介されたのが発端だ。ここで帰れば知り合いの顔を潰すことにはなるが、だからといってこんなふざけた手合いに付き合ってやろうとは微塵も思わない。


 そうだ、ふざけている。馬鹿げている。


 凄まじい嫌悪感が胸を焼いた。


 この男の人を食ったような態度と物言いが気に食わない。そしてそれ以上に、話した内容も気に障った。

 社会的弱者であるという自覚があるのなら、何故表に出てくるのか。わざわざ人目に付くところにのこのことやって来るだなんて、


 ……覚えのある暗い衝動が胃の奥からせり上がってくるのを自覚する。私は懸命に、胸に沸く苛立ちを噛み殺し、どうにかしてそれを飲み下した。


 こいつは明らかに怪しい。仕事を依頼するなど論外だ。

 だが、それでも――私は、目の前のわらすがり付くしかない。もうそれほどまでに追い詰められているのだから。

 項垂れ、うつむき気味の格好で私は口を開く。


「……いいですよ、お願いします。私、もう、本ッ当に耐えられなくて」


 口から弱音が零れる。その声はか細くて湿った響きを孕んでいた。

 まさか自分の喉からこんな声が出るとは、と自分で驚く。だがそんなことを気にしている場合ではなかった。いや、実際には、というのが正しいのだが。


 頭が痛い。


 アタマがイタイ。

 あたまガいたい。

 アタマがイタイ。


 だるような夏の暑さから逃れても変わらない体調不良。原因不明の頭痛と寝不足からくる疲労感によって、私の体は完全に限界を迎えていた。


 もう堪えられない。


 ぐしゃりと顔を歪めて、頭を掻きむしる。汗で湿った髪が指先に絡まり、嫌な音を立てて抜け落ちた。

 同時に、戻ってきた店員がコーヒーカップをテーブルに置く。

 私は反射的に睨むように店員を見上げた。魚みたいな顔の眼窩がんかに埋まった目玉は、それこそ死んだ魚のような無機質な光が湛えられていた。

 動じた様子もなく、店員は礼をして踵を返して去っていく。私は見開いた眼で意味もなくその後ろ姿を見続けた。


「なるほど、わかりました。お話をお聞きましょう」


 不意に、名無しが言った。


 視線を正面に戻す。

 先程までと変わらない、どこか剽軽ひょうきんな印象の黒い瞳が私を見返す。その手には白紙のページで開かれたメモ帳とボールペンがあった。

 ……恐らく、彼は彼なりに真摯しんし且つ真面目にやっているつもりなのだろうが。そのへらへらとした態度に再び反感が鎌首をもたげかける。けれど私は無理やりそれを圧し潰した。


 代わりに、私はテーブルに両手を叩き付けて訴える。


「私――に、んです……ッ!」


 それは。

 我ながら、実に馬鹿げた台詞だった。

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