酒呑あとらの怪異事件簿

瑞雨ねるね

第一話 はじめまして名無しさん

「―――では、僕達はこれで失礼します。さようなら」


 それだけ告げて、二人はいなくなった。


 後には私一人が残される。


 暗闇の中。閉鎖された廃病院の地下に、私は独りきりでたたずんでいた。


 ここから出ないといけない。


 そう思うのに、足が全く動かない。もう一歩たりとも進めそうになかった。何故なら私は、当の昔に限界を迎えているからだ。これ以上は、もう耐えられない。それこそ死んだほうがマシだった。


 頭が痛いのだ。

 怖い夢を見るのだ。


 原因不明の頭痛と悪夢。ずっとずっと、毎日毎晩それに悩まされてきた。それを治すために奔走した。そして――その、原因は。今、


 私は無言で目の前にあるものを見下ろす。

 両手で持って抱えたガラス製の缶。その中には、私の■が入っていた。


 私は■を見下ろす。

 ■が私を見上げる。


 私はくしゃりと顔を歪めて、ソレを抱きかかえた。額を擦りつけて嗚咽おえつらす。目から零れ落ちた涙が頬をらした。


 ソレをどうにかすれば、私は苦痛と悪夢から解放される。

 だが、そんなことをすれば。私、は―――――――――


 * * *


 路面電車の外は地獄だった。

 湿気た暑さに体がだる。喉は一瞬にしてからからに渇き、引きつった音を立てた。その癖、肌からはじっとりと脂汗が溢れ出るものだから気持ちが悪い。

 今すぐにきびすを返して空調の利いた車内に戻りたくなるが、しかし容赦なく扉は閉ざされてしまう。そしてゆっくりとした速度で、道路に埋め込まれた線路の上を走り去っていった。


 一九九九年、八月九日。


 真夏の太陽は白く沸騰ふっとうしていて、じりじりと街を焼いている。地面を舗装するアスファルトは火の着いた炭火みたいで、今ならばほんのちょっと外出するだけで、七輪の上であぶられる秋刀魚の心地を味わえること請け合いだ。


 いつまでもこんな所にはいられない。

 さっさと待ち合わせ場所に行くべきだ。


 屋根付きの簡素な駅を後にして、眩暈めまいで傾ぐ頭を押さえながら歩く。


 千葉県赤牟アーカム市の都心からバスと路面電車を乗り継ぐこと一時間。

 街を南北に二分する大河を越えて、私は市の北部にある田舎町・旧都ダウンタウン側へとやって来ていた。

 市民広場に市役所や警察署など、行政施設がひとまとまりになっているこの辺りは閑散かんさんとしていて人気がない。夏ということもあってか、私のように徒歩で移動する者は皆無だった。


 額ににじむ汗を手で拭いながら、ふらつく足を懸命けんめいに動かして歩く。


 この辺りにあるのは行政施設だけではない。レストランなどの飲食店を始めとした娯楽施設も豊富に存在する。もっとも、大抵は居酒屋やクラブの類なので昼間は開いていない。なので避暑地として利用することは不可能だった。


 私はスカートのポケットから折り畳んだメモ用紙を取り出す。


 汗で湿ったメモ用紙には、とある喫茶店の住所と店名、そして待ち合わせ時間とその相手の名前が殴り書きされている。私が書いたものだ。


 歩きながら。私は改めて、待ち合わせ相手の名前を見やる。


 ―――――酒呑シュテン霊能探偵事務所 


「バッカじゃないの」


 思わず呟きが口から突いて出る。眉間にしわが寄っているのを自覚するが、どうにも表情を正せそうにない。それだけ、そこに書かれている名前は馬鹿げていた。

 霊能探偵で、その上所員の名前は名無しだという。どう考えても悪戯か詐欺の類だろう。今時、痴呆の高齢者ですらこんなものには引っ掛かるまい。本当に馬鹿げている。ふざけているにも程があった。


 だが――最も馬鹿げているのは。

 そんな相手に、これから仕事の依頼をしようとしている私自身だろう。


 私は改めて自分の不幸を呪った。本当に頭が痛い。酷い頭痛に眩暈がした。


 やがて、待ち合わせ場所に指定された店に辿り着く。


 喫茶ギルマン。


 レンガ風の青白い壁と、そこに所々絡みつくツタ植物が目を引く。店先には日替わりランチのメニューが書かれたスタンド看板が設けられていた。


 窓や玄関から店内の様子が窺えるが、客はおらず、明かりも点いていないように見える。本当に営業しているのかと悩むが、暑さと体調不良が私をこの場に留まらせることを許さなかった。


 木製の玄関を開ける。

 金管のドアベルが、涼し気な音を立てた。


「いらっしゃいませ。お一人様ですか?」


 エアコンの冷気と共に、魚みたいな顔をした店員に出迎えられる。一瞬にして体温が下がったような気がしたが、別にそんなことはなかったので、私は促されるままに店内へと足を踏み入れた。


「すみません、人と待ち合わせの約束をしているのですが……」

「ああ。それでしたら、どうぞこちらへ」


 魚面の店員に案内され、店内を歩く。


 文明の利器がもたらす恩恵を存分に甘受しつつ、私は額を押さえながら視線を動かして周囲を観察する。

 深海をイメージしているのだろうか。モダンながらどこか仄暗い内装と、端々に配置された海産物を思わせる小物類。そして休日の昼間でありながら閑古鳥が鳴き喚く静かな様は、それなりに居心地がいい。避暑地としては最適そうな店だ。


 ただ、レジ横に安置された巨大な水槽。その中に潜む碧い蛸だけは心底目障りというか、気味が悪いけれど。


 どんどん店の奥へと進んでいく。

 やがて、最奥のテーブル席で店員は足を止めた。


「こちらです」

「―――ああ、どうも。お待ちしておりました。立花タチバナ雪緒ユキオさん」


 テーブル席に座っていた先客が立ち上がる。その声には聞き覚えがあった。

 電話で待ち合わせの約束をした相手だ。性別は男。服装はフォーマルな背広姿だが、年の頃は私とそう変わらないか、あるいは年下であるように見える。


「はじめまして。僕は酒呑霊能探偵事務所の名無しと申します」


 完璧な営業スマイルを顔に張り付けて、男は名刺を差し出した。

 無言で差し出された名刺を受け取る。そこに印刷された文字は、さっき聞いた言葉とそっくり同じだった。

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