雨を願う


「根本君、足首捻挫してたって」


 女子トイレの鏡の前で、前髪の位置を治しながら、女子生徒が傍にいる複数の友人に話題を振った。


「根本君?」

「ツノ女とぶつかった子。隣のクラスの」

「あー。え、いたそー」

「てかさ、ぶつかったとき見た? ツノ女の周りには皆集まってたのに、根本君一人だけ放置でさ」

「あれね。なんかウワッてなった」

「まーわかるけどー……。あいつらすぐ差別差別騒ぐけど、差別されてんの根本君の方じゃん? 的な」

「ぶっちゃけめんどくさいよね。ちょっとぶつかっただけで駄目とか。気ぃ使うし」

「それー。じゃあ体育出んなってハナシじゃね」

「でもあいつ陸上部らしいよ」

「え、ツノの人って大会出れるの?」

「なんかツノの大きさとかコツミツドがどのくらいかで出れる……? みたいな話だったけど。あ、でも角崎はマネージャーらしいよ」

「はー? なんでマネージャー? 『あたし病気でマネージャーしか出来ないんですぅでも本当はこの中で一番早いんですぅ』?」


 きゃはは、と笑い声が響く。


「結局運動祭も出なくなってさー、アンカー選び直すのも大変だったじゃん。残んなくていい日に放課後集まって誰にするか決めて。あの日バイトだったのにさー遅刻して怒られたんだけど。怒るんならツノ女の方、だ、ろっ!」


 上履きが、タイルを蹴り上げた。水道管から漏れた水が微かに散る。


 同時だった。彼女たちの背後の個室が開き、その中から、紅葉が出てきた。

 場が一瞬にして鎮まる。


 紅葉は普通に洗面台で手を洗い、普通に女子トイレを出た。背後で「ずっと聞いてたの?」「きも」という声が届いたが、無視をした。


 ――髪型も制服も気にすんのに便所臭くなることは気にしないってのは、理解できないな。


 背を丸め、ポケットに手を突っ込み、紅葉は廊下を進む。運動祭を明日に控え、教員も生徒もそのための準備で忙しい。校庭に椅子を運び、テントを張り、旗を飾る。


 大きな行事の前には、健全な緊張感と、そうではない緊張感が生まれる


 どちらも必要なものだし、むしろどちらかしかない方が不自然だが――こうした状態で綻びが生じたとき、人間はどこまでも、酷いことを口に出来る。全員がストレスを抱え、全員が行事のためにある程度のものを犠牲にして、完璧な本番を目指してきた。その中で完璧が欠ける要因になるものを発生させた者へは、陰湿な批判が生じる。


 ――どうでもいい。


 明日小鹿が座る椅子は一般生徒の席ではない。教員や放送委員が使うテントに設置されているパイプ椅子だ。


 手首はやはり、骨折していたようだ。翌日から三角巾で右手を吊って登校してきた。主治医が止めたこともあって急遽見学ということになり、彼女が出る予定だった種目は全て代役を立てることになる。――クラスリレーのアンカーは、紅葉に託された。


 小鹿はあの事故の翌日、クラスメイト全員の前で謝っていた。


 皆、「いいよ」「大丈夫だよ」と言っていたが、女子トイレで話していた彼女たちと同様のことを思っている者は、少なからずいるだろう。


「……つまんな」


 さぼろうかなと思う。


 紅葉は一番になりたい。紅葉の中で今現在一番の立ち位置にいるのは小鹿なのに、その小鹿が運動祭に出ないのであれば興味はない。集団で何か一つのものを作り上げるだとか、青春の思い出を残すだとか、そういったことにはハナから興味はないし、楽しいとも思えないのだ。


 廊下を突き進み外階段に出る。三階に当たる高さまで上って、校庭を見下ろした。


 小鹿はやはりすぐに見付けられた。小柄な体躯で、生徒用の椅子を運んでいる。その後ろから教員が駆け寄って、小鹿を止めた。


 ――「角崎さん、ここの手伝いはいいから休んでて」

 ――「なにもしないわけには……。ただでさえ迷惑かけてしまってますし」

 ――「でも、片手じゃ難しいでしょう。先生がやっておくから」


 脳内でそんなアテレコをしていると、どうやらおおよそ正解だったらしい。椅子を教師に取られた小鹿は、空いた手を見下ろして、しばらくその場に佇んでいた。周りの生徒が熱い日差しの下で椅子を運ぶ中、一人、呆然と。


「かわいこぶってんじゃねーよ」


 鼻を鳴らして、紅葉は石造りの手摺を背に、座り込んだ。


 明日の運動祭が、雨天で中止になることを願いながら。




 結局紅葉に謝るどころか一言も話せなかったことを悔いながら、小鹿は帰路に着いた。


 ――明日本番なのに。

 ――紅葉ちゃんは、私の代わりに走ってくれるのに。


 小鹿の自宅は、学校最寄りの駅から三駅離れた場所にある。紅葉が上り線に乗るのに対し、小鹿は下りだ。駅のホームで別れると、途端に周囲の視線が感触として伝わってきた。


 ツノを持つ人間が困ることの一つが、公共交通機関の利用だ。


 まず第一に、ツノが周囲の人間や手摺り、吊革にぶつかる。それに先端が――角袋に覆われているため丸みはあるものの――人に刺さる危険がある。側頭部にフォークを刺した人間が乗り込んでくるようなものなので、周囲が意識して避ける必要がある。フォークであれば「なんだそのイカれたファッションは、人が密集しているところじゃ取れよ」と言えるが、疾患によって生えているツノなので、そういうわけにはいかない。


 結果生まれるのは理解による配慮――では、ない。視線だ。


 言葉を使うわけにはいかない。だから、ひくつく眉で、細められた目で、刺すような一瞥で、訴えるのだ。――「ああ、邪魔だな」と。


 勿論、そういった人だけではない。ただ黙って横にずれてくれたり、車両の端にある広いスペースまで道を開けてくれる人もいる。ツノを覆うカバーや、隠すための帽子だってある。小鹿のツノは平均より大きい方だが、ツノのサイズが小さめの者はそこまで不便に思っていないかもしれない。


 けれどこの社会は、オルティース症候群患者用には作られていない。五千人に一人の人間の者ではなく、四千九百九十九人の者に合わせられている。


 小鹿は車両後方に造られた、車椅子やベビーカー、大きな荷物を持った人など、広いスペースを必要とする人のために椅子を取り払って作られたスペースまで進んだ。


 電車通学が始まってから椅子に座ったことはなかった。思春期の開始とともにツノが急激に成長し始め、加えて横に伸びるタイプだったため、彼女の両隣に座る人は極端に首を傾けなくてはならないからだ。当然、そうまでして隣に座る人は少ない。両隣が空いた状態で席に座るのは、酷く居心地が悪かった。自分が三人分の席を使っているようで。


 ――もうちょっと小さかったら。


 三駅分でも座りたい日はある。そんなとき、半分くらいのサイズだったらと思う。


 車掌のアナウンスで、電車が発車した。


 到着した駅から更にバスで十五分。古いマンションの一階が小鹿の自宅だった。


「ただいま」


 玄関で脱いだ靴を揃え、中に入る。返事はない。通りがかった住人用の駐車場に母の車はあったから帰ってはいるはずだ。リビングに繋がる廊下の途中にある風呂場を覗き込むと、どうやら入浴中のようだった。風呂場の入り口と反対側にある台所に弁当箱を出す。そこには、既に母の弁当箱と水筒があった。


 ――お弁当と、洗い物と、……洗濯物。


 やるべきことを頭の中でリストアップしながら制服を脱ぐ。シャツはどうせ洗濯するからと着たままにし、スカートだけ動きやすいパンツに変えた。リビングでテレビをつけ、室内干しされていた洗濯物を取り込み始める。全てハサミやハンガーから外しカーペットの上に母娘二人分の洗濯物を積んでから、リモコンで番組を変えた。


 再放送の刑事ドラマにちょうど終わったバラエティ、教育番組と次々にチャンネルを変え、最後にはニュースに落ち着いた。


 畳み終えた頃、母が風呂から出た。


「小鹿、帰ってたの」

「うん。ただいま……、会社戻るの?」


 乾ききっていない髪のままの母は、部屋着ではなくスーツを着て出てきた。母は申し訳なさそうに「やり残したことがあって」と苦笑い、台所でコップに水を入れ始めた。


「ごめんね、昨日の残りが冷蔵庫にあるから」

「ううん。無理しないでね」


 小鹿は微笑んで、タンスに服を仕舞う。


「……お母さん、お父さんって、」


 蛇口から流れる水の音が、ばしゃりと流しで跳ねる音がした。


 注がれていたはずの水が、コップから外れたのだ。それからも、コップ一杯分にしては多すぎる量の水が蛇口から出ていく音が続く。


「……お父さん、陸上部だったって言ってたよね」

「……そうね」


 入学式直後、母に陸上部に入りたい旨を話した。


 そのときの彼女の表情を、小鹿はなんて呼べばいいのか未だにわからなかった。焦るような、悲しむような、惑うような。ほったらかしにしてしまった花に慌てて水をあげたけど、結局枯れていくのを見ていくしかない人と似ていただろうか。


 花が枯れる前に、小鹿は「マネージャーの方だよ」と付け加えた。母の安堵は表面には出なかったけれど痛いほど伝わった。そして母も、そのことに気付いているはずだ。


 教師に言ったときもそうだ。顧問は、難しそうな、苦々しい顔で、医師になんと言われているかと訊いた。まず許可は出ないだろうと答えると、彼は再び唸って、そうだ、と顔を上げた。


 ――「マネージャーはどうだ?」


 彼は一体、どういったつもりでそう発言したのだろう。


 小鹿は選手として入部したいと言った。走ることが好きだし、生前の父との繋がりを感じられるからだ。その代替案でマネージャーを提案するということは、マネージャーの仕事の内に、タータンの上を走り、タイムを計ることがあるというのだろうか。いいや違う。マネージャーは部員がストレスなく快適に走れるよう支援することが仕事だ。勿論それも大切なことだしやりがいがあるだろうが、小鹿のやりたいこととは決定的に異なっている。


 あの教師は、それを理解せず、軽はずみに、少し陸上部に関わらせてやれば本人の気持ちが軽くなるだろうと考えた。「全部駄目だというよりは良い」と言い訳して。


 突っ撥ねればよかったのだ。馬鹿にしているのかと憤ればよかったのだ。


 でも――小鹿はそうしなかった。


 紅葉は、それを見抜いていた。


「小鹿?」


 黙りこくった小鹿に、母が心配そうに声をかけた。


「……陸上部が、どうかしたの? マネージャー、大変?」


 母は、父ではなく陸上部の方に話を繋げた。


 小鹿の父は、小鹿が二歳のときに亡くなっている。


 引っ越してきてようやく一年が立とうとしているこのマンションのクローゼットの奥には、袋に包まれたツノが仕舞われている。父のものだ。オルティース症候群の患者は、ツノは強固だが他の骨は虫食い状態で、火葬するとツノだけが残って、あとはほとんど灰になる。母は、その最期が堪えたようだった。


 ツノ以外にも遺品は沢山ある。父の写真は、飾らないくせに綺麗な箱に入れてとってあるし、彼が使っていたコップも、食器棚の奥にある。


 でも目に触れる場所には置かない。それらが彼女の悲しみだった。


「……楽しいよ。皆、気を使ってくれるし」


 きゅっと高い音を立て、蛇口が閉められる。


 リビングにいる小鹿からは、母の顔は見えない。ただ、水を飲む気配はなかった。


 やがて母は、こちらに向かってきた。フローリングがきしりきしりと音を立てて、小鹿の傍で止まる。


「小鹿」


 タンスを閉じて、母を見上げる。


「明日、お母さん見に行くからね」


 ――出場しもしない運動祭を?


 喉まででかかったが、小鹿は強引にその言葉を飲み込んだ。微笑んで見せる。頭の中で紅葉が「ブス」と言い放った。


 母はそのときになって、ようやくコップに口をつけた。



 仕事場に戻る母を見送り、明日の弁当作りと洗い物を終える。


 リビングに戻ると、ニュースキャスターが神妙な面持ちでこちらを見ていた。


《速報です。宇宙飛行士の鳳角凰世ほうかくおうせいさんが、療養のため日本に一時帰国することを発表しました。鳳角さんは二〇二一年にオルティース症候群の患者として初めて宇宙飛行士として採用され、一昨年から昨年にかけ国際宇宙ステーションで医薬品の実験等を行っていましたが、帰還後病状が悪化し――》


 映し出された写真には、小柄な男性がいた。宇宙飛行士になったばかりの頃の彼だ。そして次に、歳を重ねた現在の彼が、杖をついて歩いている様子が流れた。左側頭部に小振りだが大小二本のツノが連なって生えている。同じ宇宙飛行士だろうか、外国人と思われる男性に見守られながら歩いているも、覚束無く、歯を見せて笑う顔には微かに苦悶が混じっている。


 ――背中かな。


 同じ疾患を持つ小鹿には、おそらく背骨のどこかにヒビが入ったか、折れたかしたのだろうと見当がついた。歩き方と表情から、神経にダメージを追っている可能性もあるだろう。


 ニュースキャスターが話し終えると、スタジオの司会者が眉根を寄せ、しおらしい態度でカメラに視線を向けた。はやくよくなってほしいですね、といった無難なコメントをして、番組は次のニュースに移った。


「……ふ」


 そのコメントに小鹿は皮肉気な笑みを浮かべる。人の前では決して見せないものだ。


 ――「はやくよくなってほしい」。

 ――治らないよ。


 骨折はあくまで合併症だ。オルティース症候群自体は不可逆的な先天性疾患で、治療法はない。治ることはない、死ぬまで。


 無論、司会者もそういうつもりでいったわけではないだろう。彼はただ、骨折の早期治癒と復帰を願っただけだ。わかっている。けれど、他者の意見を歪んだ風にしか、今は受け取れない。


 小鹿はしばらく、テレビの前から動けなかった。隣の部屋で、子供の笑い声と、父親がそれを注意する声が聞こえる。健やかな、親子の――。


 ――明日、雨でも降ればいいのに。


 そうしたら、母だって娘の出ない、他人の子供を鑑賞するだけの運動会に来なくて済む。娘が急に出れなくなって、じゃあ行かないとは言えずに消去法で来る決断をしただけの母が、虚しい思いをしなくて済む。


 宇宙飛行士のニュースはCM明けにも伝えられていた。

 杖を着く彼を見て右手首がきしきしと痛んだ。



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【百合】あんたのツノだけは 八王子某所大衆酒場~みゆき~ @miyukisake

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