期待


 六月になると、運動祭の準備が進められるようになってきた。

 六時間目の時間を使って練習が行われるようになるが、梅雨を終えた頃になるといい加減熱さを感じるようになり、気温が高い日は西日も相まって怠さすら感じた。


「運動祭始まる前に熱中症で倒れるかも」

「紅葉ちゃん、足早いけどスタミナあんまりないよね」

「あんたもね」


 体育館に設けられた更衣室で着替える。スタミナがないと言っているが、二人ともタイムは早い方だ。ただ、短距離の様子を見ていたクラスメイトが「あ、長距離はそうでもないんだ」と拍子抜けしていただけで。


 短パンの上からスカートを履いたところで、紅葉は小鹿が一向に制服に着替えず、ただロッカー内の荷物を整理しているだけということに気付いた。


「着替えないの?」

「この後ちょっとだけ打ち合わせ」

「ああ、今日だっけ」


 小鹿はクラスリレーのアンカーとして選ばれた。一度自分の順番で走ってその後最後にまた走るので、段取りを確認することになったようだ。


「走んの?」

「うーん、どうだろ。確認だけって言ってたし走らないかも」

「ふうん。ま、図書室いるから」


 運動祭の練習の後はホームルームなしで帰宅していいことになっている。紅葉は小鹿に手を振って別れた。


 体育の後は制服の下がべたついて非常に不愉快だ。特に、六月は湿気が多く涼しい季節でもない。紅葉は胸元をぱたぱたとさせることでどうにか爽快感を手にしようと足掻いたが、それはほとんど意味のないことだった。


 熱いし疲れているしで、早く座って一息つきたかった。足早に、図書室に向かう。

 ようやく到着し、図書室後方の扉を開いたときだった。


 ――え、エアコンがついてない……。


 てっきり涼しい風が出迎えてくれると思ったがそんなことはなく。むしろむっと熱い空気が廊下に流れ出た。当然と言えば当然で、季節はまだ六月だ。紅葉は運動した直後で汗もかいて制服の下は酷い熱が籠っているが、そうではない生徒にとってはちょっと蒸し暑い程度だ。


 世の中は、大多数の人間に合わせて作られているのである。


 せめてもと思いブレザーを脱いで腕にかけるようにして抱えると、中に入った。


 汗をかいたまま勉強すると、ノートに手や肘がついたときに汗で紙が湿気る。紅葉はそれが嫌だった。自分のものではあるものの、次に開いたときに滲んだ字や少し歪んだページに汗が染み込んでいると思うと汚いと思ってしまう。


「……やばい、やる気なくなってきた」


 机のある図書室前方には向かわず、そのまま本棚をなぞるように歩く。宇宙や天文関係の本が並んでいるのを眺めていると、女子生徒の甲高い笑い声が聞こえてきた。


 図書室はどこも静かにすべき場所だ。眉間の一本シワを寄せ、本棚の陰から声がした方向に視線を向ける。本を読んだり勉強するための机に、四人の女子生徒が座っていた。


 ――……なんか……見覚えがある気がする……?


 紅葉は興味を持っていない人間以外の顔と名前が覚えられないタチだったため、最終的にクラスにいた気がする程度にしか思い出せなかったが、それは正しかった。付け加えるのであれば彼女達は中等部時代の小鹿の友人であり、卒業式の日に彼女を探していた生徒たちだった。


 彼女たちは基本的に声を潜めていたが、何か面白い話があると大声で笑い、それを仲間内の一人がポーズだけ注意して、また声を小さくして、を繰り返していた。


 紅葉のやる気ゲージが半分まで下がった。いやいや、と首を横に振り、どこか開いている教室を探して勉強しようと踵を返した。


 そのとき。


「角崎、リレーのアンカーだってね」


 小鹿の名前が聞こえてきて、紅葉は足を止めた。


「あーね」

「中等部のとき長距離休んでたの、やっぱずる休みだったんだね」

「バスケの授業のときも休んでたよね。医者から止められてるとか言って」

「前の学校もそんな感じだったらしいよ」

「えー、じゃあやっぱ出たい授業だけ出れるんだ」

「いいなーわたしもツノほしーい」

「フキンシンだよそれー」


 あははは、とまた笑い声。隣の椅子で本を読んでいた男子生徒がそちらを睨んだのが、彼の後姿だけでわかった。リーダー格の女子はそれに気付いたが、気付かなかったフリをして話を続けた。


「友永が聞いたら怒るんじゃない?」

「てかあいつ角崎いねーとボッチじゃん。昼休み見た? 一人で食ってんの」

「あれじゃん、腰巾着」

「あはは」

「こわー」

「でも確かに、いつも一緒だよねー……。なんか……」

「ぶっちゃけキモいよね」

「そうそれー」

「ていうか中等部のときとキャラ違くない?」

「調子乗ってるよね。角崎が優しいからってずっとべったりで」


 やる気ゲージが瀕死になってきた。今度こそ出ようとして――勢いよく椅子を引く音が響いた。


「――?」


 紅葉は反射的に再びそちらを見て、


「――お前ら人の悪口言うしかやることねーのかよ!」


 ずっこけた。


 先程後姿しか見えていなかった男子生徒――新多藤生が、固く握った拳を胸に真っ向から女子生徒たちに立ち向かっていたのだ。


「角崎も友永もキモくねーよ! つーか図書室で煩くすんな!!」


 正直、女子生徒よりも藤生の方が圧倒的に声が大きく煩かった。司書が何事かとカウンター裏の部屋から出てきた始末だ。女子生徒たちも呆けた顔で藤生を見上げている。


 ――なにやってんだあいつ……。


 ずっこけついでに本棚に打ち付けた額を擦りながら様子を伺う。呆然としていたリーダー格が復活し、嘲笑を浮かべた。


「はあ? お前関係なくね?」

「関係なくねえ、同じクラスメイトだ!」

「はいはいそーですか」

「真面目に聞けよ! お前ら恥ずかしくないのかよ、本人がいねーとこであれこれ言って、キモいとか調子乗ってるとか、よくそんな酷いこと……」

「『よくそんな酷いこと』!? あははっ」

「えー熱血~」

「新多はあれでしょ。角崎さんが好きだから庇ってんでしょ」

「……な、」


 藤生の言葉が詰まった。音がしそうな勢いで、耳まで顔を赤くする。


「えーっまじ?」

「中等部で告ったって話知らない?」

「そっそれは関係ねーだろ!」

「関係なくないよー、同じクラスメイトなんだから」


 先程と同じ言葉で返されて、藤生は口を噤んだ。


 紅葉はその様子に顔を覆った。こっちにまで藤生の羞恥が伝わってくるようだった。


「……とにかく、本人がいないとこで嫌なこと言うなよ……!」

「こんなの悪口に入んないでしょ。フツーに話してただけだし」

「だから、陰口が……」

「いや、逆に本人にキモいとか調子乗ってるとか言った方が傷付けない? わたし言った方が良い? 角崎と友永に。『お前らいつもべったりでキモいし調子乗ってて目障りなんだけど』って。直接言うべき? なんて答えられるだろうね、泣いちゃうんじゃない? 新多はそうした方がいいと思うんだ?」


 リーダー格の女子は、案外口が上手かったらしい。新多は「そんなこと」と言ったきり、否定の言葉が続かなかった。


 ――……聞いてらんな。


 新多は正しいことしか言っていない。「陰口を言うな」と言っただけなのに、いつの間話がすげ替わって「本人がいるところで真っ向から悪口を言え」と言ったことになっている。しかし本人はそれに気付けていないし、否定する方法もわかっていない。屈強で凶悪な見た目に反し、素直な性格なようだった。


 出口は目の前にある。このまま気付かれないで立ち去ることは可能だ。


 紅葉は、最近少し伸びた髪に手を潜らせて、後頭部を掻いた。そして――振り返り、言い合いをしている彼らに近付いた。


「おいブス」


 本棚の陰から出て開口一番にそう言った。

 五人がこちらを向く。女子生徒たちが顔色を変えた。


「友永……」

「全部聞こえてんだよ。ピーチクパーチクペラペラペラッペラうるさいなぁ。なんだっけ、『お前らいつもべったりでキモいし調子乗ってて目障り』? あたしに直接言うべきかって、さっき新多君に訊いてたよね。なんて答えるか教えてやるよ」


 紅葉はポケットに手を突っ込んだ姿勢で、ぐっと腰を折り曲げ、リーダー格に顔を近付けた。灰色の目を細め、童話に出てくるおそろしい魔女のように笑う。


「『あんたの顔、覚えたから』」


 紅葉はゆっくりと顔を放し、相手が委縮しているのを確認すると小馬鹿にするように鼻を鳴らす。それから他の女子にもゆっくり時間をかけて視線を巡らせてから、図書室から出た。



 高等部には外階段が二つある。中等部と同じ避難用の鉄製のものと、一・二・三階を繋ぐ普段使い用の石造りのものだ。図書室の近くにあるのは普段使いの方のもので、階段を上がると、校庭の様子がよく見えた。


 一日くらい気晴らしする日があったっていいだろう――紅葉が外階段を上がっていくと、西日の中に小鹿の姿を見付けた。校庭に円を描いて引かれた白線を踏んで、実行委員と何か話しているようだった。位置は遠かったが、長く伸びる影が一人だけ途中で枝分かれするため、よく目立った。


 外の風は清涼で、夜が近付いていていることを示す冷たさが籠った熱を払ってくれた。白い煉瓦調の手摺りに突っ伏すように腕を乗せる。


「友永……」


 楽しそうな小鹿の様子を眺めていると、背後から声がかかった。


 紅葉がぱっと振り返ると、そこにいた男子生徒――藤生は、肉食動物に察知されてしまったと言いたげに、上り途中だった階段でびたりと足を止めた。


「こ、声かけて呼んだろ……!」

「んなびびんなくても」

「お前、顔こえーし……」

「新多君に言われちゃおしまいだ」


 紅葉の顔立ちは美人と称されるが、同時にキツイとも言われる。目が三白眼気味で、口角が元々下がっている形をしているからだろう。ただ、紅葉を怖いと言った藤生は眉を全部剃っている上に身長が一九〇近い。凶悪さで言えば藤生の方に軍配が上がる。


「……さっきありがとうな」

「お礼言われるようなことしてないと思うけど」

「お前は……自分の悪口言われていちいち出ていくガラだとは思えない。俺が困ってたから、来てくれたんだろ」

「都合の良い解釈すんね」


 藤生は紅葉の隣に並びながらむうと黙った。


 数秒はそうして黙って校庭を眺めていたが、不意に藤生は目を凝らし、「あれって角崎?」と訊いた。


「うん」

「陸上?」

「や、リレーのアンカー」

「ああ……」


 小鹿は笑っていた。ブスではない笑い方だ。


 ――運動、好きなんだろうな。

 ――好きじゃなきゃ、あんな生き生きと走らない。


 そのとき、実行委員がバトンを持って来て、小鹿に何事か説明し出した。スタートラインを指差し、小鹿と共にそちらへ近付いていく。


「ん?」

「走るんじゃない?」

「おー……」


 バトンの引継ぎ練習だろうか。話している内に一度やってみようという流れになったのかもしれない。実行委員の子が最初に走り出し、半周先の小鹿は、背に手を回した状態で、走者が自身の元に来るのを待っている。


 やがてバトンが渡され――スニーカーを履いた足が、強く地面を蹴った。

 小鹿の走りは、軽やかで、力強い。岩肌を駆けていく鹿のようだった。きっとここに画家がいたら、キャンパスに彼女が走る様を収めたい欲求に抗うことは出来なかっただろう。足裏が地面を叩き付ける度に砂埃が立ち、半周回った先で、小鹿はゴールした。歓声が上がる。運動祭ではライバルになるクラスの子まで、小鹿を拍手で迎えた。


「はっや」

「マジで早いよ、小鹿」

「そうだったんだ。すげーな。ボルトみてぇ」


 さすがにそこまでは早くないだろうと紅葉は思ったが、藤生は目を輝かせ、食い入るように見詰めていた。それからふと、彼は眉根を寄せる。


「前、俺に『誰の話してんだ』って言ったろ」

「……言……ったね。うん」

「覚えてなかったろお前」

「いやまあ。続けて」


 藤生は少し間を取って、再び口を開く。


「角崎は、体弱くて……同じクラスだったの半年の間だったけど、ちょくちょく休んでる日あったし。部活も家庭科部で……たまに保健室行ってて……」

「よく見てんね」

「……体育嫌いだと思ってた。でも、あんな足早いのなんて知らなかった、俺……」


 風がざらりと二人を撫でた。リレーのアンカーたちは一ヶ所に集まって、実行委員の話を聞いている。そろそろ解散する雰囲気だ。


「俺は――誰の話をしてたんだろう」


 小鹿の走りを一目見れば、誰だって彼女が体育を嫌いじゃないだろうことはわかる。


 でも誰も、彼女の前で運動に関わる話をしない。親の話も。それに進学や、将来の話も。だから彼女の内面について知っていることに、ぽっかりと穴が開く。


「……新多君、小鹿の目の色知ってる?」

「目?」


 小鹿の目を見て話す人間は、きっと少ない。


 ほとんどの人間は、真っ先に彼女のツノに目がいって、そしてツノを見詰めてしまった自分を恥じ、あるいは後ろめたく思い、視線を合わせない。


「見てみたらいんじゃね。そしたらまあ、なんかわかるよ」

「わかった。見てくる」

「ん。……ん?」


 ――見てくる?


 返答の不自然さに気付いて横を向いたとき、既に藤生はそこにいなかった。彼は階段をダッシュで駆け下りると、その勢いのまま校庭に入った。そのとき、身体能力的には男子の方が足が速いはずの彼が小鹿に感心する理由に納得がいった。藤生の足は随分遅かった。なんとも不器用な走りだ。手を振っているせいもあって、身体がダバダバと凄まじく左右に揺れている。「角崎~! ちょっといいか~!!」と叫ぶ彼に、小鹿の肩が跳ねていた。


 紅葉は口元に手を当て、軽く仰け反る。


「……おもしろすぎでしょ……!」


 藤生は小鹿に至近距離で近付くと、目を覗き込み、色を確認して「ありがとう!」と手を挙げて再び走ってこちらに戻ってきた。戸惑う小鹿が藤生を視線で追い、その先にいた紅葉に気が付く。紅葉が軽く手を振ると、怪訝そうに首を傾げたのがわかった。


 階段を上がってきた藤生は呼吸を荒げたまま、ぐっと唾を飲み込む。


「はあ、はあ、なんか……綺麗な色だった! 薄茶!?」

「ヘーゼルな」

「おおー、ヘーゼル……、友永も目の色ちょっと違くね!? 火山灰!?」

「グレーな」

「おおー、グレー……。……凄い、角崎のことをもう一つ知れた。ありがとう友永。お前は良い奴だ」

「ダハッ……そ、そういう意味じゃ……!」

「あ、二人のことばかりじゃ悪いよな。俺は普通の茶色……いや、ブラウンだ」

「頼むから、あたしをこれ以上笑かさないで……! マジで!」

「え?」


 腹を抱えて体を折り曲げた紅葉を、藤生は不思議そうにして見ていた。



 藤生と別れ、打ち合わせを終えた小鹿とともに駅までの道のりを歩く。


「急に走ってきて『角崎! 目を見せてくれ!』って、すごい剣幕で。私なにかしちゃったのかと思った。それでじいって見詰めて、『ありがとう~! がんばれよじゃあな~!』、それでさよなら。皆、ポカーン、みたいな」

「だひゃひゃ」

「笑い事じゃないよ。あと紅葉ちゃん、笑い方が親戚のおじさんと同じなんだけど」

「ヒ、ヒ、ヒ……ッ、息がッ……マ、ジ、あいつや、やばいでしょ」

「中等部からあんな感じだったよ。真面目……実直? 顔は怖いのにねぇ」


 涙目になってひいひいと脇腹を抑える紅葉に、小鹿は「目を見せてくれ」とキリッとした顔で藤生の真似をして追い打ちをかける。いい加減紅葉が呼吸困難になってきたところで、小鹿が追撃を止めてくれた。


「はー、笑った」

「新多君、良い人だよね。真っ直ぐで、なんか一生懸命で」

「ふうん。そんな新多君のこと、なんでフったの?」


 小鹿が目を丸くして顔を上げた。


「……、なんで知ってるの?」

「クラスの、えー……あの、ピアスしてる……」

「森本さん?」

「それかな? 話してるの聞いた」

「『それ』」と小鹿が笑った。森本に対する扱いの雑さが面白かったのだろう。彼女は悩むような素振りをして、それから答えた。

「新多君は良い人だからね。それが駄目」

「駄目?」

「うん、駄目。真っ直ぐな人は素直だからね。私は私に無関心な人が好きなの」

「ふうん……」

「だから付き合うなら紅葉ちゃんみたいな人がいいなー」

「妙だな。褒められている気がしない上に嬉しくない」

「あはは」


 小鹿と共に笑うが、紅葉は無関心、という言葉の選び方が気になった。ツノのことを気にしない人、あるいは差別意識のない人、という意味とは少し違うように感じた。


 ――『無関心』。


 卒業式の日、友達になることを提案される直前にも、同じ言葉を彼女は使った。


「じゃあ、あたしと友達んなったのもそれが理由?」


 小鹿は、柔らかく微笑んだ。


「そうだね。それが一番だよ」

「ふうん?」

「うん。だから、紅葉ちゃんには期待してる」

「何を」――そう訊こうとして、舌が縺れた。


 あまり、良い予感がしなかった。


 ――……無関心。

 ――どうでもいい。


「……あっそ。何をか知らないけど、りょーかい」

「ふふ」


 紅葉は満足そうに笑った。


 穏やかで可愛らしい笑顔で。


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