二章 走る
めっちゃ足はや
新学期には色々と測定するものが多い。担任教師の品定めに始まり、身体測定、入試代わりの学力テスト、そして――体力テスト。
花絵学園では五月にそれは行われる。生徒全員が真面目に受けているかと言えば、否だ。
体力テストは文部科学省が定めた国民の運動能力を調査するために実施するものであり、花絵学園の場合大して成績には影響しない。時期的に一学期初期にしか実施する暇がなく、指導や練習が出来ないため、運動が苦手な子のことを考慮してのことでもあった。
要は、運動部であったり少しでも内申を上げたいと思い熱心に取り組む生徒も勿論いるが、大して成績に影響しないのであれば流してしまおうと思う生徒の方が多かったのだ。
そんな中、準備運動の時点からやたら張り切っている生徒がいた。
そう――紅葉である。設立と共に設置されたという短距離走用のタータンの先端で、入念に体をほぐしている。
「ななびょうごーぜろななびょうごーぜろななびょうごーぜろ……」
「呪詛のように目標タイムを呟いてる……」
「あたしは完璧……絶対勝ァつ!!」
「これって私はどういう顔すればいいの?」
隣に並ぶ小鹿が気恥しそうな顔でおろおろしていた。合図を出すため傍で待機している体育教師が、「角崎さん、無理しないようにな」と声をかけるのに、彼女は微笑んで頷く。
中等部時、運動部を含めても上位のタイムを叩き出した二人の話はそれなりに有名で、順番待ちや他の種目を計っていた生徒が二人に視線を向けていた。足首を回す紅葉に対し、小鹿はいささか居心地が悪そうだ。
「紅葉ちゃんって、なんでそんなに順位にこだわるの?」
「一番が気持ちいいから」
「そっか……」
「あんたは?」
「私は、別に」
「へえ。どうとも思ってないのに全力疾走するんだ」
教師が、「位置について」と赤い旗を振り上げる。揃って足を後ろに下げた。
「変わってんね」
紅葉が平坦な声に、小鹿が微かに口角を引き上げた。
「そうだね。頭にツノ生えてるくらいだし」
そう返し小鹿が更に腰を落とした瞬間、旗が振り下ろされた。
ぎしりと足首が軋み、蹴り出した地面が音を立てる。
同時に放たれた二本の矢のように、二人はゴールに向かって走った。互いの息が鼓膜に、力強く漕がれる腕が視界の端に届く。青いタータンも、雲が浮かぶ空も、生徒の驚嘆も認識したそばから後ろに過ぎ去り、周囲とは異なった時間を二人きりで共有しているような時間が続く。
あと四歩でゴールラインに到達する。紅葉がそう考えたときだった。ツノが、ぐんと前に出た。引っ掻くように地面を蹴る足音。小鹿が最期の最後で並走していた紅葉を抜かした――否、おそらく少しずつ出ていた速さの違いが、可視化したのだ。
七秒と八秒の間、二人は肩一つ分の距離の差で、ゴールした。
「……角崎さん七秒五六! 友永さん七秒五九!」
ゴールのもう少し先まで使って勢いを緩め返ってきた二人に、計測していた生徒がタイムを教える。小鹿が「あ。記録更新だ」と荒い息の中で嬉しそうに言った。
「……はっや……!!!」
一方、紅葉は虫の息だ。膝に手をつくとそのまましゃがみ込んで、息を整えようともがく。一度止まるとぶわりと汗が額に滲んだ。
「紅葉ちゃんの方がタイムは縮んでるじゃん」
「よ、余裕そうなのマジむかつく……」
「えー」
紅葉は膝に顔を埋める。許されるならば大の字に寝っ転がりふて寝したいくらいには悔しかった。この一ヶ月勉強の合間を縫って走り込みをしたというのに。目標のタイムにすら届いていない。
「負けず嫌いなんだね」
「あんた、す、澄ました顔して練習したでしょ……なにやったらそんなに早くなんの」
ぜえぜえと呼吸を繰り返しながら見上げると、小鹿はにこにこと笑っていた。「ここ、邪魔になっちゃうよ」と彼女が手を差し伸べるが、ちょっとした潔癖症故に紅葉は手を取らず自力で立ち上がる。
小鹿は放置された手のことをそこまで気にしなかった。
ただ彼女は、運動着のシャツの胸元で鼻頭の汗を拭うと、
「――あと何年かで死ぬかもって気持ちで走ってみるといいよ」
くぐもった声で、先程の質問に答える。シャツを持ち上げたことによって、細いが縦に割れた滑らかな腹筋が覗けた。
「……小鹿」
「ん?」
「マジ説得力あるけど……あんたキャミごと持ってるよ」
「え? あっ! やだっ、ご、ごめん……!?」
慌てて腹を隠した小鹿が恥しそうに目を逸らした。テストはさらっと高得点を出し体力測定でも運動部が仰け反る数値を記入用紙に並べるのに、こうしたなんとなくぼんやりしているところがあるのは、小鹿の可愛げのあるところだった。
タータンの脇に戻ると、生徒たちが小鹿に群がった。
「角崎さんすげー! 足早いんだ!」
「長距離でも早いんでしょ?」
「本当になんでも出来るんだー……」
すごいすごいと囃し立てる生徒たちに、小鹿は微笑んで「ありがとう」と返す。
「運動祭のリレー、角崎さんがアンカーになりなよ!」
「あっいいじゃん!」
「え……」
小鹿が困ったように眉尻を下げた。そこまで話が進むことは予想外だったのだろう。言葉に詰まった小鹿に、一人の女子生徒が、リレーの話を出した女子生徒の脇を小突いた。
「あ……ごめん、あれだっけ、授業以外は出れないんだっけ」
「……ううん、出れると、思う」
「ほんと!? 今日先生に話しに行こうよ! 昼休み空いてる!?」
運動祭の実行委員が小鹿に興奮気味に詰め寄った。小鹿が戸惑いを残しながらも頷くと、腕を振り上げる程喜んだ。
早く次の測定に行くように教師に促され、生徒たちはしぶしぶといった様子で各々散っていく。小鹿は振り返って、紅葉に笑顔を見せた。
「よかったじゃん。運動祭、出れるんだ?」
「うん。四月に聞いたらいいって」
「部活も陸上部にしたんでしょ? 期待のルーキーってやつじゃん」
そのとき、小鹿は少し間を取ってから、「うん」と微笑んだ。
――あ。またブス笑いだ。
小鹿が控えめに笑うときのことを紅葉は心の中でそう呼んでいた。クラスメイトと教師と話しているとき頻繁に見るので、以前つい「ブスだ……」と本人の前で呟いたら三日ほど口をきいてもらえなくなって面倒だったので、今は禁句にしている。
ただ、不似合いな笑い方だな、と思うだけだ。
「次は立ち幅跳びかな。ちょっと休んでいこうよ、紅葉ちゃん」
「ん。ね、紅葉去年何メートルだった?」
「もしかしてそれ全部の種目で続く感じ……?」
「当然っしょ。少なくとも三年間続くから」
「えー」
小鹿は、困ったように返した。
昼休み、小鹿は運営委員に連れられて職員室に向かっていた。七月上旬に行われる運動祭のリレーのアンカーを紅葉にすることを相談するためだ。
通常であれば、まだ練習も始まっていない時期にする必要ではない。ただ、小鹿の場合事情が特殊であるため早い内から話しておいた方がいいと判断したのだろう。運営委員の彼女は「友永さんも早かったけど、すごい走りっぷりだったね」と未だ興奮状態だ。
「私もバスケ部で結構走ってるけどさ、やっぱりさすがだね」
彼女が無意識の内に言う『やっぱり』の中に込められている意味を、小鹿は理解している。「やっぱりツノがある人は違うね」のやっぱり、だ。
――「角崎は特別だよ」
――「あの子と張り合うの意味ないでしょ」
中等部のとき、仲良くしていたクラスメイトが、小鹿がトイレに立っている間にそう話しているのを聞いたことがあった。卒業式のときに小鹿を探し回っていた彼女達だ。
――「住んでる世界が違うじゃん。アタシらツノないし」
そこまで思い出した瞬間だった。脳裏を、紅葉が鼻息荒く血走った目で「絶対勝ァつ!!!」と叫んで横切り、ぴゅーんと去っていった。
「ぅフッ……!!?」
「え? ど、どうしたの角崎さん」
「ご、ごめんね、なんでもないの」
「そう……? 体調悪いなら言ってね?」
自分のせいで――いや、紅葉のせいで、余計な気を使わせてしまった。申し訳なく思ったが、理由を冷静に説明する自信はなかったので、不意に咳き込んだということにさせてもらった。
教員は医師から許可が出ていることを小鹿の母伝に把握していたらしく、無理はせずに練習するようにと言った。
教室に戻ると、いつもの総菜パンを食べ終えた小鹿が手を振って迎えた。
「おかえり」
「ただいま。またパン?」
「うん。駅の近くの広い公園あんじゃん」
「あ、えーと芝生公園?」
「そう。あそこにあるパン屋さんのやつ。マジ美味いよ」
「へ~」
紅葉の家庭環境は知らないが、両親とも医療関係者で仕事が忙しいということは聞いていた。毎月昼食代が出され、それを使ってやりくりしているらしい。
「芝生でさぁ、焼き立ての目玉焼きカレーパン食べるのが美味いんだよね。お腹一杯になったらゴロゴロ昼寝して。制服が芝生だらけになったけどさ。人も少ないから静かで……あ、でもそれは平日だったからか?」
「紅葉ちゃん紅葉ちゃん。不思議だね。どうして紅葉ちゃんは学校があるはずの平日のお昼から制服で公園に遊びに行ってたのかな」
「えーなんでだっけ。遅刻して間に合わなそうだったからか……三時間目の先生が山川で早帰りキメたとか……」
「紅葉ちゃ~ん?」
呆れたように眉尻を下げる小鹿に、紅葉のあはあはというふざけた笑いが届いた。
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