誰だよ
週明けから、部活動の仮入部や見学が行われるようになった。
とはいえ紅葉は勉強第一のため帰宅部を選択した。一通りの部活を体験して楽しんだ後、先輩方の熱い勧誘にうんうんと頷いておきながら入部届はきっちり「所属しない」に丸をつける。バスケ部を見学したときは、優しい先輩が去年の大会のことを教えてくれ、その熱量に入りたいと少し思ったが、大会等で忙しくなることを考えると親からの許しは出ないだろう。勉強が疎かになる理由に部活動を理由にすることはナンセンスだと思っているが、もし点数が下がったときに「だから入らなければよかったのに」と言われるのは、楽しいことではない。
「小鹿なににすんの?」
昼休み、教室で弁当を食べながら訊くと、小鹿は口の中のものを慌てて咀嚼する。コンビニで買った総菜パンである紅葉に反し、栄養バランスの整った弁当箱に箸を置いて、小鹿は答える。
「美術部にしようかなって」
「え?」
「美術部」
「……え!?」
裏返った声を、紅葉は上げた。
小鹿はそれに驚き少し仰け反って、それから紅葉の声にこちらを見るクラスメイトの視線におろおろとしながら、「え、だ、駄目かな」と返す。
「や、駄目じゃないけど、え、小鹿中等部のとき短距離走めっちゃ早かったじゃん。文系なの? 運動部は?」
「おや……? 紅葉ちゃんは私が入学式でした話は右から左だったのかな……?」
「五十メートル七秒六〇でしょ。あたし七一」
「びょ、秒数まで……!?」
口元に手を当てて若干引いている小鹿は、何故か申し訳なさそうに眉尻を下げる。
「運動部系は色々危ないから。バレー部でスパイクなんて受けたら両腕ぽっきりだよ」
「体育は出てるじゃん」
「う~ん、全く運動しないのも不健康だから、先生の……医者と教師どっちもね、了承と管理の元やってるわけで。健康を維持するための運動と楽しむための運動は、ちょっと別腹っていうか」
「ふーん。病気のせいで運動部に入れないんだ。嫌だね」
がたんと、二人の背後で大きな音が鳴った。
大柄な男子生徒が席を立ち、信じられないものを見るような眼で紅葉を見詰めていた。その奥に驚愕以外にも確かな軽蔑を見付け、紅葉は「ああ」と小鹿に向き直る。
「今の言い方よくなかったかな」
「……い、いや」
「そ。あ、ねえ、小鹿ん家の卵焼きって味付け何?」
「だし巻きだけど……」
「そっか」
紅葉はパンを齧り、以降、振り返ることはなかった。
一日の授業の後ロング・ホームルームを終えると、小鹿は「ちょっと先生と話したいことがあるから待ってて」と教室を出ていった。なにやら急いでいたらしく、ツノを扉にぶつけて痛がりながら去っていった。
他の生徒も部活や帰宅のために続々と席を立つ中、紅葉も図書室で時間を潰そうと鞄を持って出入口に向かった歩き出す。その腕を、背後から何者かが強く掴んだ。
「……なに?」
そこに、昼休み中に立ち上がって紅葉に物言いたげにしていた男子生徒がいた。
かなり体格が良く、近付かれると仰ぐようにしなければ顔を見れなかった。一番大きいサイズであろうブレザーは胸回りが随分窮屈そうで、腕も紅葉より二回りは大きい。柔道部主将のような雰囲気に加え、眉毛がなく凶悪な人相をしている。
「――あのよ、」
「つか触んな。キメェ。誰だよあんた」
紅葉が腕を振り払うと、彼は呆気に取られたように言葉を続けられなくなり、それから顔を赤くして「きっ……」と仰け反った。何か反論したかったようだがそれを飲み込んで、彼は再び開口する。
「……
「新多君。あたしは人にいきなり腕掴まれたり仲良くもないのにべたべたされんのがマジで嫌いなんだよね。だから次からは声をかけて呼び止めてほしい。で、なに」
不遜な態度でポケットに手を突っ込んだ紅葉。藤生は振り払われた腕の置き場に困ったようで宙に彷徨わせていたが、やがて決心したように、拳を握った。
「……角崎のこと! ああいう言い方、よくねーと、思う」
「『ああいう言い方』?」
「だから……病気のこととか、体育のこととか、気安く話すことだよ。気にしてることなんだから、デリカシーっつうか……配慮した方がいい話題は、あるじゃん」
「小鹿はいいって言ったけど」
「それが本心とは限らないだろ!」
藤生が、その体格に見合った声で叫んだ。
帰ろうとしていたクラスメイトたちが、二人に視線を送り、動きを止める。やがて、潜められているようでそうではない声が、教室の中で、ふわふわと漂った。
「……声が大きい」
「あ、わ、悪い」
藤生は握った拳を解く。彼が言葉を迷っている内に、窓際で談笑していた男子グループが「新多どうした?」「角崎の……」「あー」「あいつ中等部んとき角崎にさ……」と囁き始めた。藤生の、ちょっとしたニキビがいくつかある頬が、さっと赤みを増す。
話が長くなりそうだと悟ると、紅葉は教室の前方の方に寄って、黒板に寄りかかった。藤生もまた、紅葉に合わせて黒板の傍に近付く。男子たちの話し声が聞こえなくなると、先程よりもずっと小さな声で、話を続けた。
「……角崎は……角崎は、今まで、色々あって、言いたくても言えないこととか、あるから……本人がいいって言っても、そうじゃないことが……」
「言うか言わないかは小鹿がする選択でしょ」
「だから、」
「あたしが小鹿に求められてんのは、保護者でも教師でも親切なクラスメイトでもない」
藤生の言葉を遮り、紅葉はポケットの中で拳を緩く握った。
「『友達』だ。あたしは友達とフツウのスタンスで話してる。それで紅葉が嫌だって思ったらそれを指摘するのは紅葉がすべきことだし、他人がどうこう言うことじゃない。……あんた誰の話してんの?」
藤生の頬が、増々赤くなった。感情が顔に現れやすいのだろう。
「……お前、すげえ性格悪い」
苦虫を嚙み潰したような面持ちで言った藤生に「知ってる」と返し、紅葉は教室を出た。
――……元カレ?
――にも見えたけど……ちょっと違う気がしなくも、ない。
小鹿のことを気にかけ好意を持っていることは間違いないだろう。本心から優しくしたいという印象があった。
――悪い人間じゃない。
――つーかあたしの方がアレか。
橙の光が窓から差し込んで、紅葉の顔の左半分に濃い影を作った。
図書室に着くと、紅葉は周囲を見回し、微かに感嘆の声を漏らした。
「おー……すご」
高等部の図書室は中等部よりずっと広かった。授業の補正になるものだけではなく、マニアックそうな歴史書や授業には全く関係ない宇宙工学の雑誌、パソコンのプログラム入門編など、様々な種類の本が豊富に並べられていた。図書室というよりも図書館という印象を抱くものだ。壁際に並ぶ本棚に手を添えながら歩き、気になったタイトルを手に取る。
「『魅せる! ストリート生け花―あらゆる場所に花を―』……誰が読むんだこれ」
内容は、道路や車、公衆トイレ、果てには人間の頭蓋骨を使って生け花をするアート作品の写真集のようなものだった。誰かがリクエストしたのだろうか。あるいは元からあったものか。どちらにしろ選んだ人間のちょっとした狂気を感じる。
壁際の本棚を一通り見ると、カウンター前に『ピックアップ!』のポップとともに図書委員が推薦する図書を飾るコーナーがあった。独立したテーブルの上にいくつかの本が置かれている。これにもまた興味を惹かれ、どんなものだろうと近付く。
と――
「――……」
『夜と霧』が、そこにあった。
ハードカバーの、シンプルなイラストの装丁。横に紹介文まで書いてあった。
――「ヴィクトール・E・フランクルの『夜と霧』にあるエピソードで、収容所で亡くなった女性の話があります」
中等部のあの卒業式で小鹿が引用した物語――『夜と霧』は、第二次世界大戦中ドイツの強制収容所に拘留された作者が綴った、彼の体験に基づく作品だ。発売後世界的なベストセラーとなり、紅葉は、中学一年生のときに父にその内容を教えられた。
――「その女性は、数日中に自身が死ぬことを悟っていたにも関わらず、『運命に感謝している』と言ったそうです」
俯瞰的な視点から見る収容所での生活。過酷な環境の中、理不尽に尊厳を奪われた被収容者たちの絶望と、希望と、死を、記したもの。
――「何不自由なく暮らしてきたときには得られなかったものを得ることが出来た、と」
そのコーナーには、『社会問題特集』と銘打たれていた。『夜と霧』の他にも、ジェンダー、貧困、少年犯罪、法の矛盾、性的少数者、スティグマ、人種差別、戦争……。
物語というのは、多くの人が楽しめるように作られている。だから、楽しみながらも若者に社会で生じている問題について考えてほしい意図があったのだろう。丁寧な字で書かれた紹介文は確かに購読意欲をそそられるが、紅葉は決して手に取らなかった。
そして――数年前宇宙飛行士になったオルティース症候群の男性の自叙伝が置かれていることに気付いて、ポケットの中で、手を固く握った。
「……ふざけんな」
――「私たちは」
小鹿の、あの淡々としたスピーチ。
――「一人一人、辛い世界を抱えています。でもそれにはきっと意味がある。私にツノがあることにも、理由がありました。この一対のツノは、私に友人の存在を可視化させてくれました」
友人。
あの日、外階段まで逃げた小鹿を追ってきていた生徒を、彼女はそう呼ぶのか。
「――紅葉ちゃん?」
食い入るように特集された本たちを見詰めていると、いつの間にか図書室に来ていた小鹿が、後ろから声をかけた。
「探したよ。教室にいなかったから」
「あー……ごめん」
「ううん。それって、『夜と霧』でしょ。ドクトール……違った、ヴィクトールだった」
「……引用したくせに」
「読んだことないもん」
紅葉は本を手に取って、ぱらぱらとページを捲って、ぱたりと閉じた。教科書を流し見して、結局興味を惹かれるページがなく放り投げる動作と同じだった。
「『この本を読めば貴方の伝えたいことに深みが出ると思うの』って言われたんだけど、私が言いたいことは書いてなかったな」
小鹿の答辞は――小鹿の言いたかったことは。
どのくらい、あの文章の中に残っていたのだろうか。
「……最初はなんて書いたの?」
そう訊くと、小鹿は「ないしょ」と柔らかく微笑んだ。
紅葉は「ふうん」と鼻を鳴らす。
「……あ。そういや小鹿さぁ、新多君て知ってる?」
「新多君? 三年生の時同じクラスだったよ」
「それだけ?」
「うん」
なんでそんな質問をするのだろうと言いたげにきょとんとしている小鹿に、紅葉は生温かい笑みを浮かべて「そっかー」と返した。
二人揃って図書室を出て、帰路に着いた。
駅で別れ、紅葉は自宅に帰る。
集合住宅に建つ一軒家。両親はまだ帰っていないだろう。どちらも帰宅は夜遅くだ。
食事と風呂と明日の準備を終えリビングで勉強していると、九時近くに父が帰ってきた。銀縁の眼鏡はずれて、髪はワックスが取れかけて顔にかかっている。極めつけに、名札が首から吊り下げっぱなしだった。『心臓血管外科 友永
「……夕飯は」
「食べた」
「そうか……」
ダイニングテーブルに広がる参考書をちらりと見てから、雁和は紅葉の向かいの椅子に重々しく腰を下ろす。
「勉強しているか」
「見てわかんない?」
「去年、抜かされていただろう」
「二位も一位も変わんないよ、成績は。どっちも内申点じゃ五だし」
「そんな意識では一位には戻れない。いいか、成績が落ちたとき、元の位置に戻れるかは直後の頑張りが直結する。落ち込んで諦めてしまえば成績は下がる一方だ。お前は集中力にムラがあるし、気を引き締めて――」
「つか邪魔しないでくんない。あたしの成績が気になるなら早くご飯食べて洗い物でもしてよ。今日、ママ帰ってくんの遅いんだからさ」
沈黙が流れた。リビングの花を模した形の電気は、四つの電球の内一つが切れてしまって先週からついていない。いつもより四分の一薄暗い部屋で、雁和はやはり溜め息を吐いて、椅子を立った。
「……一位の子は、オルティース症候群の子だと聞いた」
参考書を捲る手が止まる。
「気を使ってやりなさい。誰もが恵まれているわけではないのだから」
雁和はそう言い残し、風呂場に行った。
「うるせークソジジイ……」
手を動かす。ページを捲る。ペンを走らせる。
シャワーの音がしてくる頃、紅葉はちっと舌を打った。ペンを放り投げ、そして、携帯端末を手に取った。
《体力テスト勝つから。風邪とかひくなよ》
そう打つと、すぐに返信が返ってきた。《笑》の一文字。
――笑ってんじゃねー。
そう思いつつも、紅葉もふんと鼻を鳴らして笑った。
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