一章 ツノ

成績優秀なあいつ

友永ともなが紅葉もみじはそれまで、『一番』以外を取ったことがなかった。


 この世は順位がつけられて成り立っている。少なくとも、中学三年生の紅葉の世界ではそうだった。テストもスポーツも芸術も趣味も、評価する者がいて、評価される者がいる。学生というのは専ら後者で、特に成績は受験に関係するため皆必死だった。紅葉の学校は中高一貫校だったが、あまりにも成績が低いと高等部の進学に問題が生じる上大学によっては中等部の成績を見るところもあり、順位を気にしないわけにはいかなかった。紅葉の両親は成績に関しては煩い人だから猶更だ。この進学校に入学したのも親の意向で、将来は医者になることになっていたし、そして父の病院を継ぐことも決定していた。勉強は嫌いではなかったし、スポーツも上達すればするほど褒められたから気分が良かったため苦ではない。成績表を見せる度に「これで男だったら完璧なのに」と父は言うが、紅葉としては、自分が男だろうが女だろうが、案外人生を楽しんでいるので、それだけで自分は完璧だった。


 だから、中学三年生の秋、夏休み明け最初のテストで廊下に張り出された順位表に自分の名前が二位の下にあったときは、茫然とした。


 手を抜いたわけでも、特別難しく感じたわけでもなかった。

ただいつも通り勉強して、そして、陥落した。

一位の生徒の名の下にある点数に視線を移す。


 ――四百八点。

 ――ってことは、英文読解のやつ解けてる……。


 紅葉の学年の英語では毎回、海外の小説の一文を抜き出した英文読解の問題が出る。これがかなり難しく、半ば教員の遊びで解けたら百点にプラスして点を入れてもらえるような問題だった。紅葉は、自分以外にその問題でマトモに点を貰えている者を見たことがなかった。


「えっ、友永二位じゃん」

「まじ?」

「一位誰?」

「ほら、あそこ」


 いつも当然のように一位の紅葉が二位になったことに興味を持った生徒たち。紅葉の視線を負うように、その名を目にした。


 角崎つのざき小鹿こじか


 『角っ子』の転校生――一人の女子生徒が、そこに静かに佇んでいた。

 鮮やかな赤いカーディガンを羽織った細身な体躯に、背の中ほどまで伸びた焦げ茶の髪。淡褐色の瞳は、窓の光を受けると縁が緑がかって見える。凛と整った目鼻立ちは男女問わず目を引くだろうが、けれど誰もが真っ先に視線をやるのは、彼女の頭部だった。


 側頭部から生える一対の枝角。


 まるで鹿のツノのようなそれは、少し後方に反りながら、悠々と頭上に伸びている。


 夏休み明けにこの花絵学園中等部に転校してきた彼女は紅葉とは別のクラスだったが、彼女の近くにいなくてもその活躍は耳に入った。裁縫が達人級だの、どんな問題でも簡単に解いて見せるだの、街中でモデルにスカウトされただの、テレビに出ていただの、話題が尽きることはなかった。


 ただ、紅葉がしっかりと角崎小鹿の姿を見たのはこれが初めてだった。廊下ですれ違ったときはツノの分背が高く見えたが、近くで見るとツノを除いた身長自体は低い方のようだ。紅葉が、身長を計るときどうしているのだろうと考えていると、背後から「友永さん」と声をかけられた。


 振り向くと、同じクラスの女子生徒がそこにいた。普段はそこまで話すことはないため向こうから声をかけることを珍しく感じていると、「気にしなくていいと思うよ」と横に立たれた。


「なにが?」

「順位。オルティースの人なんだし」


 どうやらクラスメイトは、紅葉が順位を抜かされて落ち込んでいると思ったらしい。今紅葉が晒していた神妙な表情はツノがある状態で身体特定するときはツノの分は身長や体重の数値に加えるのかということだったのだが、そう言って否定すると益々負け惜しみのように聞こえそうだと思い、一先ず黙った。それよりも、気になる言葉があったからということもある。


「……?」

「知らない? オルティース症候群の人って、遺伝的に頭の良い人なんでしょ? しょうがないよー」


 そう言う彼女の声はまるで、周囲の生徒、そして小鹿に聞かせるように張られていた。


 ここまで話して、紅葉はようやく目の前の彼女の名前を思い出した。確か、いつも五位や六位の辺りをうろうろしていた成績上位者だ。順位が発表される度に、一瞬こちらを睨んで「友永さん凄いねー」と言ってきていた。彼女はまるで親しい友人のように紅葉の腕に自分の腕を絡ませ、その陰から小鹿の方を見た。


「ねえ角崎さん、そうなんでしょ? 角のある人って、天才型なんだよね?」


 彼女がそう訊くと、周囲の生徒が一斉に小鹿に視線を向けた。

ついっと、淡褐色の瞳が、紅葉を捉えた。張り紙の張られた壁とは反対側にある窓の光が光彩を浮かび上がらせる。少しアシンメトリーな一対のツノは、正面から見ると、酷く重たげに見えた。


「……うん、そうみたい」


 小さな唇が動いた。想像よりもずっと可憐で、細い声だった。


「ずるみたいでごめんね」


 眉尻を下げ申し訳なさそうにした小鹿は、そのままぱっと踵を返し、焦げ茶の髪を扇のように広げて教室に戻った。


「へえ~やっぱりそうなんだー。オルティースの人ってやっぱすごーい」

「……つかさぁ、」


 ここでようやく、紅葉がはっきりと言葉を発した。


 小鹿とは違い、女子にしては低く地面で引き摺られたように擦れた声だ。短く切り揃えた黒髪の左の分け目から、敵対でも友好でもない無関心な眼差しで見下ろす。


あたし二位に共感してもらって自分の悔しさと不勉強を正当化したいんなら他当たってくんない? あとあたし、人に触られんのマジで無理なんだけど」


 周囲の生徒より頭一つ分高い背。冬空のような灰色の眼に、女子生徒の腕が、怯えるようにそっと離れていった。


 紅葉も自身の教室に戻ろうとしたときだった。廊下の先から、担任の教師が近付いてくる。


「友永さん、ちょっといい?」


 気弱そうな雰囲気の女性教師は、控え気味に手招きする。返事をして、順位表の生徒の群れから少し離れた階段の踊り場で教師と対面する。


「終了式の、三年生代表の言葉なんだけど……」

「ああ……はあ。原稿ってまだ先じゃなかったですっけ」


 三学期の終わりが近付き、紅葉たち三年生は高等部に進む。華絵学園では、よほど素行が悪くなければ学年の成績がトップだった生徒が中等部の修了式で答辞を読むため、それは紅葉に任されていた。あまり気は進まなかったが、死ぬほどやりたくないというわけではなかったため役目を受け入れた。


 だが修了式にはまだ期間があり、原稿を完成させるのはまだ先でいいはずだ。練習を始める日程が変更したという連絡も受けていない。なんだろう、と思いながら言葉を待つ。


「友永さん……出来れば辞退したいって、言ってたわよね……?」

「……? はい。そうですけど……」

「もし友永さんがよければ、角崎さんがやるって言ってるんだけど……」


 角崎小鹿――ここで彼女の名前が出てくる理由がよくわからず、紅葉は「はあ」と生返事をする。


「うちって、学年で一番頑張った人が答辞を読むってことになってるでしょう? 角崎さんの成績や授業態度を見てると、もし一年生の時から角崎さんが花絵の生徒だったら、角崎さんがそうだったんじゃないかって話になって……。友永さんがあまりやりたくないなら、二人で話し合ってみて、角崎さんに任せるのはどうかしら?」

「話し合うって、なにを?」

「それはだから、どっちが答辞をやりたいか――」

「角崎さんがやりたいって言ってんならいいんじゃないですか。必要ないでしょう」


 教師が戸惑ったように、手を腹の前で緩く組んだ。

 花絵学園は、卒業式の様子をホームページ等で外部に発信し、学園の宣伝の一部として扱っている。生徒の読んだ答辞の内容も、読んだ生徒の簡単な紹介もされる。

 オルティース症候群の生徒を推薦したのは、大人の事情というやつだろう。


「話し合わせて『自分たちで決めた』って納得感を持たせたいんですよね。ってより、あたしに納得してもらいたい。だったら必要ないです、どうでもいいんで」


 本心に近かった。この学校に誇りを持っているわけでもなく、何かの代表に選ばれたいわけでもない。紅葉の関心は『一位』と、自分が楽しいと思えることだけだ。


 答辞は紅葉にとっては楽しいことではなかった。


 踊り場から出た紅葉に、教師は声をかけようとして、やめた。その目が、扱い辛い生徒、と言いたげだった。


 順位表の前に戻り、紅葉は小鹿が入っていった隣のクラスに視線をやる。廊下側最後列の席で教科書を開く彼女の姿が、入り口から見えた。


――オルティース。

――天才型。


 酷く冷めた顔が、皮肉そうに歪む。


 ――馬鹿かよ。


 ポケットに手を突っ込み、紅葉は順位表を再び見上げる。

 そのとき、紅葉の中に生じたのは――両親からの期待や周囲の反応には基づかない、自分自身の研鑽を裏切ってしまった、純粋な悔しさだった。


「……捲ってやる」


 答辞は楽しくない。

 けれど、角崎小鹿は楽しいかもしれない――紅葉は、そう思った。


 

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