【百合】あんたのツノだけは

八王子某所大衆酒場~みゆき~

序章 残ったもの

祖母のツノ

!あらすじ欄に書いてある注意書きをよくお読みになってからお楽しみください!








 祖母の家には大きな鹿の角が飾ってあった。


 とは言っても、そのツノを初めて見たとき彼はまだ八歳だったので、壁の高い位置に飾ってあるそれは壮大で立派で輝かしいものに見えたが、高校生にもなると、幼い頃の思い出よりも小さかったのだと気付いた。二本合わせても片手で抱えられるくらいだろうか。太さもそうでもなく、子供の腕くらいだった。


「ばあちゃん、これどうしたの?」


 そんな質問を何度かした。どこで手に入れたの、というようなニュアンスで訊いたのだが、祖母は決まって「小鹿のツノー」と間延びした声で答えた。


 子鹿のツノというのだから、子供の鹿の角なのだろう。祖母はかつて医者をしていて、なんとかという難病の専門医として若い頃は随分活躍してかなり稼いでいたらしく、彼女の家には他にも興味深い調度品がいくつもあった。だから、彼はちょっとしょぼい鹿のツノよりも、世界各国のコインや、とあるツテで手に入れたという本物の月の石の方が眺めていて楽しかった。


 高校を卒業し、遠い大学に行くため一人暮らしを始める直前だった。親が仕事で忙しいとき祖母にはよく世話になっていたので、きちんと挨拶をしろと親に言われて久しぶりに祖母の家を訪れたときだった。


「ばあちゃん、あのツノどうしたんだっけ」


 大きな一軒家の至る所に飾ってある花瓶、絵画、古時計、熊の毛皮のカーペットに、巨人用かと思うくらいでかいドレッサーの前に散乱している顔がいくつあっても使いきれないような化粧品たち。懐かしい思いでそれらを眺めて、そして最後に行きついたリビングの、ソファの向かいの壁に飾られた鹿のツノ。祖母が曖昧な答えしか返さないから何度もしてしまう質問をまたしたとき、祖母はソファに行儀悪く寝っ転がりながら、答えた。


「だから、小鹿にもらったツノ」

「いや、だからどこで……、『もらった』?」


 なんとなく言い回しが気になり、訊き返す。祖母の、灰色がかった少し不思議な色合いの瞳が、ちろりとこちらを見た。


「もらい物。友達にもらった」

「……『小鹿』って人の名前!?」


 素っ頓狂な声で驚いて、あわや手に持っていた紅茶の入った――やたら綺麗な柄で高給そうな――ティーカップを落としそうになった。祖母は十代の少女がするように耳を塞いで唇を尖らせる仕草で、「だからそう言ってたでしょ」と返す。


「その文脈で人の名前ってわかるわけねえじゃん!」

「知らないわよあんたの理解力なんて。ばあちゃん嘘ついてないし」

「ついてないけど、ええと、こじ……小鹿さん? 小鹿さんは小鹿って名前の友達で、てかなんでその人鹿のツノ持って……ややこしいよこれ!」

「紅茶冷めるから飲んじゃいなさい」


 孫の戸惑いを意に介さず、祖母は寝転がったまま自分の分のカップに口をつけた。ソファの肘掛に完全に頭を預けている姿勢なので溢しそうなものであるが、不思議と中身が口元を汚すことはなく、静かに口付けそして唇が離れていく様は、いっそ優雅に見えた。


「……持っていたって、所持って意味じゃないわよ。生えてたの」


 祖母の言葉通り紅茶を啜っていた彼に、祖母が声をかける。


「……生えてた?」

「学校で習ったでしょ。私の専門分野の病気」


 祖母はカップを置いて、アンティーク調のローテーブルの下に転がっていた数冊の本の内一冊を引き摺り出して、それを彼に投げて寄越した。


『先天性頭蓋骨角状突起症―オルティース症候群の子供たち―』。

 

分厚いハードカバーの本の表紙には、そんなタイトルと共に、左前頭部から二本のツノが映えた青年の横顔が写っていた。


 やがて、孫の口が、薄く開かれる。


「……ばあちゃんの友達って、オルティース症候群の人?」

「そう」

「そっか……」


 それっきり彼はむぐりと黙って、時折気まずそうに紅茶を口にし、他にどこを見ればいいのかわからないというように貧相な鹿のツノを眺めた。かつて祖母の友人の頭にあった、一対の枝角。やがてそれも見飽きると、手元の本を指の腹で擦るようにはらはらと開くしかなくなった。


「なんで黙るの?」


 祖母が、きょとんとしたように訊いた。


「……いや……」

「皆そうなのよね。あいつの話が出ると黙るのよ。あいつがいた証は目の前にあるのに、いなくなったからって除け者にするのは寂しいよ。私はあいつの話がしたいのに」


 寝転がって、足を投げ出したまま、祖母は肘掛に後頭部を擦り付けるように天井を仰いだ。そして、灰色の瞳をゆっくりと目蓋の裏に仕舞い込む。それが、祖母が昔話をするときにする癖ということを、彼はそっと思い出した。同時に、祖母の中にある乾いた寂しさを、なんとなく感じ取った。


「……その人、どんな人だったの?」


 そっと問うと、祖母の目蓋がぱっと開かれる。今年で七十近くなる老人とは思えない腹筋で彼女は起き上がり、冬空のような眼を輝かせた。


 指の腹が偶然開いたページ。真ん中あたりの一文には、堅苦しい字体でこうあった。


『オルティース症候群患者のほとんどは、二十歳を迎える前に亡くなる』。


この、大きな家で一人で暮らし、多趣味で、変わり者で、交友関係は広いけれど特に仲の良い人間はいない祖母が、少なくとも彼の前では唯一『友人』と呼んだ小鹿という人。その角を部屋の一番目立つところに飾って、一切の埃も積もらないように手入れし続けた、五十年。


「――くそ生意気でまじに面倒臭い、サイコーの女」


 祖母の青春は、角の生えた友人で出来ていた。



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