僕らのヒーロー
増田朋美
僕らのヒーロー
やっと寒いなと感じるようになってきた。それでやっと、冬が来てくれたと思えるようになる季節である。なんだか、こういうふうに寒くなってくれると、嬉しいなと思ってしまうようになる今日このごろである。
その日、由紀子は恒例行事である製鉄所を訪れた。仕事がないときは、必ず製鉄所を訪れるようにしている。製鉄所と言っても、工場ではなく、単に、勉強したり仕事したりする場所を貸すだけの場所であるのだが、最近になってまた利用者が増えている。秋になって、外出するようになった家族が増えて、家に居場所が無い人たちが、自分の居場所を求めて製鉄所にやってくるのだった。利用者の八割くらいが、女性であることが多い。どうやら、孤独感とか寂しさは、女性のほうが感じやすい傾向があるようだ。もちろん、男性でも利用している人はいる事には居る。男性の利用者は、こういうところに来ると、利用している女性を助けようという気持ちが湧いてくることが多いらしい。大体の人が医療とか、心理学などの資格をとって、独立していくか、開業したりするようになる。男性というのは、そういう能力に長けているものが多いようなのだ。もちろん女性だって、そういう力のあるものは居ることには居るのだが。
由紀子は、こんにちはと言って、製鉄所のインターフォンのない玄関の引き戸を開けて、四畳半に行った。製鉄所にはインターフォンというものがないのは、挨拶の習慣を身に着けさせるとか、言葉によるコミュニケーションの訓練の一部になるとか、いろんな理由があるが、とにかく、自分がここに来たことを知らせることができるようにするために、そうなっているらしい。
由紀子が、こんにちはと挨拶しても、だれも返事は返ってこなかった。なんだろうと思っていたら、いきなり激しく咳き込んでいる声が聞こえてきたものだから、由紀子は、急いで靴を脱ぎ、鉄砲玉のように四畳半へ行った。由紀子が四畳半へ飛び込むと、杉ちゃんが居て、布団に横向きになって寝ている水穂さんの背中を擦って、口元にちり紙を当ててやっているのが見えた。やがて、ちり紙が赤インクのような液体で染まってしまうと、
「本当に、お前さんという人は!」
と、杉ちゃんが言った。その言い方があまりに嫌そうな言い方だったので、由紀子は思わず、
「そんな言い方はやめて。水穂さんがかわいそうよ。」
と、言ってしまった。杉ちゃんが水穂さんに、水のみを渡して中身を飲ませると、数分で咳き込むのはとまってくれたのであるが、これがなかったら永遠に止まらないかもしれなかった。由紀子は、水穂さん大丈夫、苦しい?と声をかけたけれど、水穂さんは、
「ご迷惑おかけしてすみません。」
とだけ言って、肩で大きく息継ぎしながら、やっと静かになってくれた。
「ああ、全くだ。本当に迷惑だよ。一体、何度こういう事やったら気が済むんだよって言いたくなっちゃうよな。日が立つごとに、だんだんこれがひどくなる。僕らだって、いつでもそばに付いてやれるわけじゃないんだし。少しは、こっちの立場も考えてくれよな。」
と、杉ちゃんが言ったため、由紀子は、
「そんなこといわないで。水穂さんがかわいそうじゃない。本人は悪くないのよ。」
と、言った。
「そうなんだけどねえ。元はと言えば、水穂さんが何も食べないからそういうことになるんだ。せめてさ、カレーくらい食べてくれないかな。もう何日ご飯を食べないで平気なんだよ。」
杉ちゃんが困った顔で言う。
「滋養のつくもの、何も食べてないから。何回も咳き込んじまうんだろうな。僕らにできることは、医者に見せることだけだぜ。あとは、ちゃんと、ご飯を食べるとか、そういうことは、やっぱり自分でやってもらわないとね。」
そういわれて、由紀子は、なんだか水穂さんがそういわれてしまうことは、なんだか本当に可哀想な気がしてしまうのだった。もし、自分で何でもというのが、強化されれば、これからの時代は、他人に助けを求めることは罪という時代になってしまうのかもしれない。
「只今戻りました。」
と玄関先で声がして、製鉄所の管理をしているジョチさんが、四畳半にやってきた。背中に千鳥紋のついた、黒の紋付き羽織袴に身を包んでいるジョチさんは、やっぱり自分たちとはちがう、身分の高い人だなと思わせる雰囲気があった。ジョチさんは、四畳半の中で何があったか、すぐに分かってくれたようで、
「またやったんですか?」
と、杉ちゃんに聞いた。
「おう、これで何回やったと思ってる?四回目だよ。お昼ごはんはろくに食べないし、もう、ホント、これが続いたら、僕らだってたまったものではないぜ。」
杉ちゃんがそう答えると、
「そうですか。確かにそれは問題ですね。」
と、ジョチさんは言った。だれも、水穂さんが苦しんでいることについて言及しないので、由紀子はどうしてみんな何もいわないのだろうと思った。
「いずれにしても、そういう症状なので仕方ないですね。もしひどいようなら、影浦先生に相談してみましょうか。いずれにしても、薬をもらうしか方法はありませんから。」
「本当にそれだけでしょうか?」
と、由紀子は、言ってしまう。
「ええ。それ以外に方法はございません。もし、本人がもう少しやる気というか、気力があれば、ご飯を食べてくれるという事をしてくれると思うんですが、それも無いわけですから。周りはどうしようもありませんよ。」
ジョチさんが、いつもと変わらない口調で答えた。持っていた風呂敷包みの中に、結核予防会という文字か描かれた、リーフレットがはいっているのが見えた。
「理事長さん、一体今までどこに行っていたんですか?」
由紀子は、そのリーフレットを眺めながら言った。
「いえ、単に会食してきただけですよ。」
ジョチさんが答えると、
「だれとですか?その結核予防会という名前は、」
由紀子は思わず言い返すが、
「ああ、こういうのはただのお年寄りの集まりに過ぎません。今の医療では、ちゃんと治療法だって確立しているんですからね。そこに所属している医療法人の会長さんとお話してきただけですよ。」
と、ジョチさんはすぐに答えた。
「そういうことなら、そこで水穂さんを見てもらうわけにはいきませんか?」
由紀子が急いでそう言うと、
「ああ、それは無理無理。そういう奴らに見せたって、何もしないで放置されるか、薬の実験台にでもさせられるか、そのいずれかだよ。まあ、秩父宮さんみたいな、国民的なヒーローでも無い限り、一生懸命見てくれる医者なんて居ないでしょう。医療関係者なんて、みんなから先生と呼ばれて、思い上がってるから、水穂さんみたいな人間を連れて行っても、馬鹿にされるだけだよ。」
と、杉ちゃんが言った。
「僕もそう思いますね。日本では、階級ではっきり切り離されている社会で、いろんな階級が同じ社会で混ざっているという国家に行かないと、水穂さんを治療することは無理じゃないかな。」
ジョチさんも、そういう事を言った。
「でも、なんとかして、水穂さんに良くなってもらおうという気持ちは、無いのでしょうか?」
由紀子はもう一度そう言うと、
「そうだねえ。良くなって、幸せが保証されている身分だったらいいけれど、そうでもないことは、本人が一番良く知っているんじゃないのかな。それは、同和地区出身のやつばかりじゃないよ。今、病院に行っている、石塚彩奈さんだって、どんな扱いを受けているかわかんないよ。」
と、杉ちゃんが言った。
「ああ、彼女、まだ、戻ってないんですか?随分遅いですね。」
と、ジョチさんが言う。ここで初めて、由紀子は、石塚彩奈さんという女性の利用者が、病院に行っている事を知ったのだった。
「まあ、彼女だってさ、一応ヘルプマークは作らせてもらったけどさ、でも、きっと、精神的な問題に過ぎないから出て行けといわれるのが落ちじゃないかな。ヘルプマークにはしっかりと、統合失調症と書いてあるようだけど、それはある意味、道路に穴が空いているときの、危険信号みたいにしか扱われないよね。」
「その石塚彩奈さんは、どういう症状を出して、病院に行ったんですか?」
由紀子は、そう聞いてみた。
「うん、何でも、夜寝ているとき布団がびしょ濡れになるほど汗をかくというので、病院でみてもらいたいって言ってたんだよな。先週も病院に行って、そのときは自律神経が乱れているだけだといわれて、ものすごい落ち込んで帰ってきたんだけど、今日はまた別の病院へ、須藤有希さんの付き添いででかけてった。いくら安定剤をもらっても全く役に立たないんだってさ。まあ、どうせ僕達は、おんなじこといわれるんだろうなって、予想はできているんだけどね。」
杉ちゃんは状況を説明した。有希さんが付き添っていったのか。確かに一人で患者さんが行くよりも、複数の証人が居たほうが、より医者には印象に残ると思う。
不意に、ジョチさんのスマートフォンがなった。
「はい、曾我です。ああ、有希さん。こちらも会食は終わりました。で、石塚彩奈さんの診察はおわりましたか?あ、原因がわかったんですか。それは良かったです。そうですか。まあ、これからすごい大きな大仕事をすることになると思うけど、頑張ってやっていきましょうとお伝え下さい。」
ジョチさんは、そう話して、電話を切った。
「石塚彩奈さんの結果はどうだったの?」
と、杉ちゃんが聞くと、
「ええ。リンパ腫だそうです。でも、そんなに進行しているわけではないし、短期入院で済むようです。早期発見できて良かったね、ですって。」
と、ジョチさんはサラリと答えた。
「なるほどね、じゃあ、親御さんに知らせなければならないね。親御さんだって、彼女の訴えも信じては居ないでしょうから。診断書もちゃんと見せなくちゃ。」
と、杉ちゃんが急いでいった。
「ええ。まあ、リンパ腫も、いろんなものがありますからね。石塚彩奈さんの親御さんに知らせないほうがいいかもしれません。今はとりあえず電話をもらっただけなので、あとで有希さんに詳しく聞いてみましょう。彼女は、そういうところは詳しく聞き出してくれると思いますよ。」
「そうだねえ。彼女は、そういうところが一番の長所かもしれないな。そういう他人の事を、自分のことだと思ってさ、一生懸命関わろうとしてくれるところだ。そこをなにかに活かしてくれたら、彼女も救われるんじゃないの?」
杉ちゃんとジョチさんが、そういう事を言っているのを聞いて、由紀子は、何故か怒りが湧いてきてしまったのであった。なぜ、石塚彩奈さんは、治療を受けることができて、水穂さんはできないのだろう?
「ちょっとまってよ!さっき、石塚彩奈さんのような人も、治療を受けられないって言ったわよね。」
「ああ言ったよ。彼女は一応精神障害ということになるんだし、そういう人の訴えは聞かないほうがいいって言うのが、一般的だからね。」
と、杉ちゃんがそれに答えるが、
「それなのに、ちゃんとリンパ腫の検査も受けて、これから入院させてもらうことだって、できるのよね!それなら、杉ちゃんの言うことはおかしいのではないの?」
と、由紀子は反発した。
「まあ、一緒に行った、須藤有希さんが、うまくとりなしをしてくれたんでしょう。口がうまいということは、こういうときは得でしょうね。」
と、ジョチさんが言うと、
「有希さんが、とりなしてくれれば、石塚彩奈さんは、入院できるんだったら、水穂さんだって、同じようにやればできるのではないの!」
と、由紀子は怒りを込めていった。
「まあまあ落ち着けよ。そう思う気持ちもわからないわけではないけど、水穂さんと、石塚彩奈さんは、少々違うところがあるよなあ。それは、障害のある無し、関係ないぜ。」
杉ちゃんがそう言ってなだめるが、
「違うところって、水穂さんも、その人も、同じ人間じゃないの!身分も何も関係なく、治療は受けられるものでは無いの!」
と、由紀子は納得しなかった。杉ちゃんがそれに続いて、
「ない!」
と、でかい声で言うと、眠っていた水穂さんも目を覚ましてしまった。薬のせいで、中途半端な目の覚め方をしてしまった水穂さんは、うるさいという言葉は使わなかったが、
「ごめんなさい、眠らせて下さい。」
とだけ言った。由紀子は、その言葉を聞いて、
「水穂さんが謝る必要は無いのよ。お願い、どうかそんな事言わないで。」
と、思わず涙をこぼして言ってしまうほどであった。
「只今戻りました。」
また玄関の引き戸がガラッと開いた。
「どうしたの、由紀子さんが怒鳴っている声が聞こえてきたから、心配になったわよ。」
有希は、そう言いながら四畳半にやってきた。ジョチさんがどうして一人で帰ってきたのかと聞くと、有希は、彩奈さんはすぐに入院ということになったので、自分は着替えを取りに来たのだと説明した。さすが、有希である。そういうふうに医療従事者を動かすことには長けているのだ。有希自身も精神疾患を持っているが、それを利用して、感動的な話に仕向けてしまうのだろう。由紀子は、それこそ、有希さんが持っている、大きな武器だと思った。
「それで、石塚彩奈さんはどうしていますか?」
とジョチさんが言うと、
「多分今頃は、抗がん剤の点滴とか、そういうのをやっているんじゃないでしょうか。まあ、悪性リンパ腫としては、早期発見できたんですが、病気に重い、軽いなど無いって、私は言ってやりました。」
と、有希はにこやかに言った。
「それで、由紀子さんどうしたのよ。あれだけ怒鳴ってたから、心配になっちゃったわよ。それほど杉ちゃんと大きな喧嘩をしていたのね。水穂さんの名前が出ていたけど、水穂さんのことだったんじゃない?」
「有希さんが、水穂さんの治療のことで、うまくとりなしてくれれば、本当にいいのに。」
由紀子は、悲しそうな顔で、有希に言った。
「ああ、あたしは、こういうことでしか、石塚彩奈さんを助けることはできないからね。」
有希がサラリと言うと、
「有希さん、石塚彩奈さんを入院させてあげられるように、何を言ったんですか?」
と、由紀子は聞いた。
「大したこと言ってないわよ。私は、石塚彩奈さんは大事な友だちで、彼女には生きていてほしいって、そう伝えただけよ。それは、必要なことだと思ってね。やっぱり、どれくらいの人に必要とされているかを、話すことは、医療従事者を動かすには必要なことよね。」
有希は、にこやかに笑って答えた。
「そうなの。じゃあ私が、水穂さんの事を、これほど愛していると言ったら、医療従事者を動かすことはできるかしら?」
由紀子がまた聞くと、
「そうかしらね。でも、水穂さんが銘仙の着物を着るような身分だってわかったら、追い出すんじゃないかな。他の病院へ行ってくれとか、そういう事を言い出すと思うわ。」
有希は答えた。
「そうですね。有希さんの言うとおりだと思いますよ。それが同和問題で、人種差別というものですよね。いくら、なくそうと言ってもなくなりませんね。人権を重視する国家なら、また違うかもしれませんが、日本は、そういうことは無いですからね。」
と、ジョチさんは、有希の言うことに納得した口調でそういう事を言うのだが、由紀子はまだ、それが受け入れられなかった。なにか、水穂さんが医療を受けることができるといいのにという気持ちがまだ取れないのである。
「でも、有希さんが言った事と同じこと、つまり、水穂さんは私にとって、一番愛する人だと言ったら、また変わるのではないかしら。」
「いや、そいつは無理だな。」
と、杉ちゃんが言った。
「そんな事言うもんなら、お前さんだって馬鹿にされちまうよ。水穂さんを愛していると言ったら、そういうくらいのレベルの人間だとしか見られないで、お前さんも一緒に、水穂さんがされてきたのと同じような差別をされることになる。まあ、映画とかでは、それを超えて愛し合ったという事がよく描かれているけどさ、そんな事、ホントに著名人でなければできることじゃないからね。それをするためには、経済的に豊かであることが必要だと思う。だから篤志家という言葉もあるんだよな。」
「じゃあなんで、じゃあなんで、石塚彩奈さんは、普通に治療できて、水穂さんは、できないの?」
由紀子は、杉ちゃんにいわれて、悲しみを堪えられない表情で言った。
「愛し合ってというのは、難しいわよね。ときには自分に危害が出てくることもあるのよ。それを乗り越えられるかは、そうだなあ、経済力だけじゃないわ。ときには、他人には当たり前に与えられている事が、全く手に入らないことだって、あるし、それに一人で耐えなければならないというリスクもあるのよ、由紀子さん。」
有希は、由紀子にそっと優しく言った。こういう事を言えるのは、有希でなければできないかもしれなかった。やっぱり、体験にまさらないものはないと思う。人間強くなるには、仮想現実でやり取りするだけではなく、体験する事によって実績を積み重ねて行くことが、一番必要なことなのだ。それは、どんな人間でもそうだ。だからこそ、そういう事ができる世の中になってもらいたい。
「そうですよ。有希さんの言う通り、同和問題は、日本の歴史を塗り替えるか、そもそもそれが存在しない国家へ逃げるか、その2つしか解決法がありません。だから、由紀子さん、もうこれは仕方ないんだと諦めて下さい。」
ジョチさんは、話を締めくくるようにそういったのであるが、由紀子は、まだ納得行かないようであった。
「まだ若いな。由紀子さんは。」
杉ちゃんが小さな声でつぶやくが、有希はそういう言葉は禁忌だと言った。それよりも彼女が気がつくまで、静かに見守るのが一番です、とジョチさんも言った。
「少しでも、由紀子さんの気持ちが、水穂さんに届けば、それでいいわね。」
有希は、先輩らしく静かに言った。
僕らのヒーロー 増田朋美 @masubuchi4996
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