赤いきつねになった私

三角ケイ

第1話

 あれは私が第一子を産んで一ヶ月半が過ぎた辺りの冬の日のことだったと思います。子を産んだことがない人や身近に妊婦や経産婦がいない人は知らないことかもしれませんが、出産をした後の女性は、出産前の身体には直ぐには戻らないのです。


 身体が元の状態に戻るまでには大体早くて一ヶ月半から二ヶ月位はかかると言われていて、個体差や個人差はあるけれど、誰でも心身に多くの不調が出てくるそうで、その不調が出る期間のことを産褥期と言うそうです。


 産褥期にはストレスのない生活や睡眠を十分と取って心身を労り、安静に過ごすことが良いそうですが……そんなの無理に決まっていると思いませんか?子育て経験者の皆々様!


 生まれたばかりの子がいるのに、どうやってしっかり睡眠を取れというのか?しょっちゅうお腹が空いたと泣く割に、少しもお乳を吸ってくれない我が子に、君は何がしたかったんだい?と、こっちが泣きたくなる日々を過ごす中、どう安静に過ごせばいいのかと、育児書にツッコミを何度入れたくなったことか! 


 ……ゴホン。急に熱くなって取り乱してしまい、申し訳ありません。つまり私が何が言いたいかと言いますと、私が第一子を産んで一ヶ月半が過ぎた辺りの冬の日とは、私がまだ産褥期だった頃のことだったと言うことです。


 初めての出産を終え、初めての育児を始めて一ヶ月半が過ぎた頃の私は文字通りフラフラでした。低体重児で生まれた我が子は中々、体重が増えなくて、市から派遣された保健師さんが体重を測りに来ては、体重の増えが良くないと指摘され、次からは定期的に測りに来るようにと言われ、落ち込んでいました。


 直接母乳を吸う力がないのか、乳首を咥えると飲むのに疲れるのか、飲まずに直ぐに寝てしまう。それならばと思い、苦労して母乳を絞り出し、哺乳瓶で授乳をしても、それさえ疲れるのか、やはり寝てしまう。そうして寝てしまっても空腹だから、直ぐに泣き出すのは当然のことで、その繰り返しと日々の家事で、自分でも気が付かないほどに私は疲れ切っていたのかもしれませんが、その日、私はある大失敗をしてしまったのです。


 それは夕食を作ろうとしていたときでした。皆様は食事を作ろうとする時に、まず最初に何をしますか?手洗いだろうという新人芸人さんみたいなボケは無しの方向でお答え下さい。……そうです。そこのあなた、大正解です。大概の人が、あなたや私のように、まずはお米を炊飯器で炊くところから始めますよね?


 ボウルにその日に食べる分のお米、もしくは冷凍して明日以降に食べる、まとめ炊きをする分のお米を水で研ぎ、お釜に入れて炊飯器で炊き上げる。その間におかずを作る行動に移せることこそが、効率化を考えられる”出来る人間”の行動……”出来る主婦”の行動ではないだろうかと私は思っていましたから、いつものように私は手洗い後に真っ先にお米を研いで炊飯器でご飯を炊こうとして……物の見事に失敗したのです。


 それはこのような手順で起こりました。①作業台の上に、ボウルと炊飯器のお釜を取り出す。②米びつからお米を測ってボウルに入れる。②ボウルの中のお米を研ぐ。③研いだお米を水ごと炊飯器に入れる。……さて、ここで問題です。私は何を失敗したか、わかりますか?


 おや、皆様。顔が引きつってますね。そのお気持ち、よくわかります。笑えばいいのか呆れればいいのか、ツッコミどころがわからないときは笑って下さい。そんなに痛々しそうに生暖かい同情の視線で見つめられると、ありがたいことですが居たたまれなくなりますし、後で泣きたくなるほど落ち込んだ当時を思い出しますので、とんだド天然さんやったんやねとツッコんでいただければ幸いです。


 そうです。恥ずかしながら私は①のときに作業台に出した炊飯器のお釜ではなく、お釜を取り出した状態の炊飯器に直接、研いだお米を水ごと注ぎ入れるという、天然系で売り込んでいるタレントさんも真っ青の笑えない大ボケな失敗をしてしまったのです。


 私は自分のしたことなのに悲鳴を上げ、茫然となってしまいました。子どもには母乳も粉ミルクもあるけれど、夫にそれを出すわけにはいかない。何より夕食を作る時間に炊飯器を壊してしまったら、電気屋さんに炊飯器を買いに行くことも出来ない。炊飯器がなかったら、明日の朝食や夫のお弁当が作れない。私の悲鳴を聞き、台所に駆けつけてきた夫に私は自分が仕出かしたことを素直に告白し、仕事で疲れて帰ってきた夫に申し訳ない、壊してごめんなさいと謝りました。




 夫は一言も私を責めませんでした。怒りもせず、冷静にタオルを何枚かとドライヤーを持ってきて、炊飯器にぶちまかれた水を拭き取り、米を一粒一粒取り除き、ドライヤーで炊飯器を乾かし始めました。私は夫の隣で同じようにタオルを持ち、炊飯器の中を拭き、夫と二人で米を拾いました。


 幸運なことに炊飯器は壊れてはいませんでした。でも、完全に乾かすためには朝までは使用しないほうが良いし、炊飯器を直すのに時間が遅くまでかかってしまったので、その日の夕食は、”赤いきつね”にしようと夫が言いました。


 ポットでお湯を沸かし、器にお湯を注ぎ、出来上がるのを5分間待つ間、私は夫に申し訳ないともう一度謝りました。そして夫に何故、私を叱らなかったのかを尋ねました。夫は出来上がった”赤いきつね”に付属の七味を入れながら言いました。


「毎日の育児や家事で疲れているのに、真面目に頑張ろうとしている君をどうして怒れようか」


 夫はうどんをすすりながら、私に言ってくれました。


 毎日、掃除をしないからって死ぬわけじゃない。朝ごはんだってお味噌汁やおかずをきちんと作らなくても漬物とウインナーを焼いたのだけを用意してくれれば十分だし、作るのがしんどかったら惣菜パンを買ってくればいい。夜に眠れない分は昼間にいっぱい寝ればいいし、夕食を作れないときは連絡をくれれば自分が仕事帰りに買って帰る事も出来る。しんどいのを無理するのが一番良くないから、冷凍食品やレトルトやスーパーの惣菜を利用すれば良い。


「それにほら、カップ麺は直ぐに食べられて、しかも美味しいやろ?」


「うん。……うん、そうやね」


「君、目が”赤いきつね”になってるで。ほら、ティッシュ」


 私は夫の言葉の一つ、一つに頷き、泣きながら”赤いきつね”を食べていたからか、いつの間にか目が真っ赤になっていました。夫にティッシュの箱ごと渡された私は、目を拭きながら食べ進めていきました。


 いつもの食事時間よりも遅い時間となった夕食は、麺をすする度に身体中に暖かさが染み渡っていくようで、いつもよりも美味しいと思いながら食べていたら、子どもが泣き始めました。


「あっ、ミルク!」


 子どもに授乳をしなければと慌てて立ち上がろうとした私の手を夫が引き止めました。


「何も一時間二時間も待たせるわけじゃないんだから、今は自分が食べるのを優先しいや。……それ、最後に食べるのを楽しみに取っておいたんやろう?冷めたら美味しなくなるから食べてしまい」


 夫は私のカップに残っている甘い油揚げが半分と、3個のふわふわ卵を指し示し、ニンマリと笑いました。


「でも……」


 子どもが泣くと居ても立っても居られない気持ちになって、いつもは食事を中断して直ぐに子どもの世話に取り掛かっていた私に、先に食べ終わった夫は子を抱き上げながら、さらに言いました。


「それを食べるのに5分もかからんやろ?僕らも”赤いきつね”が出来るのに5分待ったんやから、この子にも少しだけ待ってもらおうや。今は子どもよりも自分の食事が大事やで」


 確かに最後の楽しみに取っておいた油揚げ半分と3個のふわふわ卵を食べきるのに5分はかからない。そう思った私は、夫の腕の中で泣き続ける子を気にしながらも、久しぶりに最後まで温かい食事を食べることが出来ました。





 結局、その後も第一子は少食で半年間、私は毎月一度は保健師さんのいる保健所に行って、子どもの体重を測っては落ち込む日々が続きましたが、その子は案外丈夫で大病を患うこともなく成人を迎え、今では家を出て社会人として立派に働いています。


 あの以来、私は夫の言葉に素直に受け入れ、手間を省ける所は徹底的に省いて、冷凍食品やレトルト食品、各種カップ麺を常備するようになりましたが、”赤いきつね”を見る度に、よくもまぁ、あれ程のことを仕出かしたのに少しも夫は怒らなかったなぁと、夫の心の広さに感心していましたが、23年が経った今、それの本当の理由が判明しました。


「だって君、元々緊張したり、疲れると、神がかった天然ボケ級の失敗をいつもしてるやん?付き合う前からそうやったから慣れてるねん。君は壊す人で僕は直す人や。似合いの二人やろ」


 ガーーーン!そうやったん!?心が広いんやなくて慣れやったんかーい!と心の中でツッコミを入れつつ、こんな私に慣れてくれてありがとうね。これからもよろしくねと、23年経った今でも、夫に壊れた家電をそっと差し出す私でした。



                      〈完〉










 


 





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