第12話 義元、信長の術中に嵌る

 信長は十九歳の頃から、天下取りを夢見ていた。それは、大うつけや馬鹿者にしか見れぬ途方もない夢であった。孤独な心にしか育めぬ壮大な野望であった。

 信長は、自分のヒリヒリとうずくような寂寥感をいやすために、孤立感をまぎらわすために、とてつもない野望をあえて胸に秘めたのである。

 しかし、そのためには、なんとしても東方の脅威である今川家をつぶすしかない。重臣らがすすめる籠城ろうじょうなどもってのほかであった。天下取りの第一歩は、野戦で義元の首を刎ねること――それこそが、信長の宿願であった。

 その機会がついに来たのだ。やっと来たのだ。

 永禄三年五月十九日の早暁、物見の兵が急を報せた。

「丸根、鷲津の両砦、今川勢に攻め立てられておりまする」

 これを聞き、信長は傾奇者らしく謡曲ようきょく敦盛あつもり』を舞った。

「人間五十年、下天げてんの内をくらぶれば、夢幻ゆめまぼろしのごとくなり。一度生ひとたびしょうを得て、滅せぬ者のあるべきか」

 人生は短い。どうせあっという間に死ぬなら、やってやろうじゃないかと自分に言い聞かせるように敦盛をうたい、舞ったのである。

 信長は、清州城を出馬した。あとにつづくは、側近の岩室長門守ながとのかみら五騎のみ。

 めざすは、三里先の熱田神宮。その境内から、丸根、鷲津の砦が見渡せるのだ。

 信長が小手こてをかざし、東の方角を見やれば、すでに二つの砦は落とされたらしく、山上から煙が上がっていた。

 状況は圧倒的に不利であった。

 信長は丹下砦から善照寺砦へと進んだ。このとき、兵は親衛隊を中心に集まってきていたが、二千にも足りない兵力であった。

 しかし、信長には勝算があった。向こうは大軍とはいえ、領内の農民をかり集めた軍勢だ。一方、信長の親衛隊八百は戦闘のプロであり、ほぼ全員に鉄砲を持たせている。しかも、足軽雑兵らには三間半(約六・三メートル)の長槍を持たせ、これまで十分に訓練をほどこしてきた。

 戦略次第では勝てる、と信長は考えていた。

 当日のうまの刻――いまでいう正午の時刻を迎え、義元は桶狭間山に本陣をいた。

 信長は決死の部隊三百に、この今川本陣に向けて遮二無二しゃにむに突っかからせた。無論、三百ばかりで突撃しても、今川の大軍にかなうはずもない。

 この部隊はたちまち五十名ばかりが討ち取られて、桶狭間の狭い谷道めざして敗走した。すると、それを追って敵の大軍が我先にと追撃してきた。

 信長はしめたと思った。

 突撃部隊三百は、敵を桶狭間の谷道に誘い込むおとりだったのだ。

 今川義元は、信長の術中にはまったのである。

 この状況を見て、信長は谷道に先回りしようとした。

 と――。

 一天にわかにかき曇り、やがて豪雨となった。信長本隊はこの雨のとばりに隠れて移動した。

 そんなことも露知つゆしらず、囮部隊に引きつけられるように狭い谷道に、押し合いへし合いやって来た今川勢は驚愕した。

 忽然こつぜん、目の前に木瓜紋もっこうもんの旗指物を背にした信長本隊が現れたではないか。

 信長がえた。

「かかれいっ!」

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