第10話 パンドラの匣を開ける

 信長の弟・信行は、龍泉寺城を新たに築城しようとしていた。さらに、織田一門を糾合し、味方を募った。いずれも、兄を打倒するための挙兵準備であることは、申すまでもない。

 ところが、柴田勝家は、今度ばかりは信行方にくみしなかった。先の合戦で信長こそ織田家当主にふさわしいと痛感していたのである。

 勝家は信長の居城である清州城に出向き、信行謀叛の動きを伝えた。しかも、謀叛の策動を注進したばかりでなく、信長の謀略にも加担した。

 信長が勝家に言う。

「これ以上、一族一門同士で戦いとうない。されど、信行めはしつこい。もはや我慢の限界を越えておるわ」

「この権六ごんろく(勝家)がやんわりとお諫めいたしましたが、聞く耳もたぬご様子」

「で、あるか」

「いかがされますか」

「一族の流血を最小限にとどめるためには、この際、信行を謀殺するしかあるまい」

 信長は病気と称して清州城に引きこもった。

 すかさず配下の乱波が「信長危篤きとく」という噂を四隣に流した。

 頃合いを見て、勝家が土田御前に進言する。

「三郎さまのご容体は重篤じゅうとく、もはやいきませぬ。死ぬ前に、一度、信行さまに会って、織田家の行く末を頼みたいと、三郎さまが譫言うわごとのように……ここは、信行さまも見舞いに行かれ、直接、ご遺言をお受け取りになるべきではないかと存じまする」

 この進言を土田御前は受け入れ、信行に見舞いに行くようにすすめた。

 自分をめるように猫かわいがりしてくれた母の言葉である。信行は疑いもなく清州城を訪れ、信長の家臣にめった斬りにされ、血の海の中でたおれた。

 このとき信長二十五歳。弟を謀殺して、ようやく尾張を統一する地固め、足固めを果たしたのであった。

 しかし、その背後には、信長の幼少の頃からの根深い嫉妬と恨みがあった。母の愛とは無縁の境遇で育った兄が、母に溺愛された弟を殺す――信行の謀叛をきっかけに、宿年の怨念が一気に爆発し、骨肉相食あいはむ悲惨な事件となったのである。

 この凶々まがまがしい事件は、信長にパンドラのはこを開けさせる契機ともなった。

 後年、信長は比叡山ひえいざん延暦寺を急襲し、全山ことごとく焼き討ちした。抵抗する伊勢長島一向一揆ゆ加賀越前一向一揆などをで斬りにした。泣き叫ぶ女、子供まで一人残らず虐殺し、おびただしい血が流れた。

 こうした大量虐殺ジェノサイドは、凄惨せいさんな信行殺しからはじまっている。信長は死ぬまでパンドラの匣を閉じることなく、家臣の裏切りによって滅んだ。それは、母に愛されなかった男の欠落感が招いたさびしい末路ではなかったか。

 

 

 


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