第五部  轟天

「正さんの猿楽をやるんだって、ほかの仲間も力を貸したらしいわ。」

 星照院がにこやかに微笑んだ。神社に近付くと予想以上の人で賑わい、未月もお市にせがまれて、皆と一緒に、人だかりの間を歩いていた。

「なんや、今年のお祭りは、昔のように賑やかになってきましたな。」

「みなさんのおかげで、京の町もいくらか元気を取り戻してきたのとちがいますか。」

 雄山と宗助が、にこやかに笑いながら、鳥居を仰ぐ。

「なんだい、あの人だかりは? お目当ての猿楽かい。」

 陽気な久太郎が鳥居の外の人だかりに首を突っ込む。

「いいや、何でも、比叡山から来たえらい坊さんの辻説法らしい」

 そのえらい坊さんが、星照院を見かけると、丁寧にお辞儀をしてきた。

「おや、お知り合いですか。」

「はい、確か奏胤(そういん)という立派な方で。以前いろいろとお世話になって…。」

 その時、お市がめずらしく未月の袖を引っ張った。

「ねえねえ、お姉ちゃん、ほら、中の方で、飴や団子が売ってるよ、ねえねえ。」

「はいはい、今行くからね、あわてないのよ。」

 頭に京野菜をのせた大原女や、桂川の新鮮な鮎を売る桂女が目に鮮やかに飛び込んでくる。

「今日はお祭りで、場所代が安いんだってさ。市にたくさん店が出てるよ。」

 お菓子や食べ物、生活用品から南蛮渡来のあやしい品物までいろいろな出店が賑わっている。やがて、笛と太鼓の音が響き始め、どこかと探して奥に行けば、見慣れた長槍と見事な鬼の掛け軸が目を引く。

「今日のお題は、大江山の酒之童子征伐だ。さあ、いらはいいらはい。」

 正が太鼓をたたきながら、こっけいな踊りで、人集めをしている。

「あの鬼の絵、確か絵師の大門さんのだろ、見事だねえ。」

 さて出し物の方は、武将渡辺綱が、坂田金時を仲間に入れるところから始まり、恐ろしい酒之童子が現れると悲鳴が起こる。娘の衣装で変装して、酒をすすめて笑いを取り、最後は京まで追いかけてきた鬼の首を相手に、長槍で大太刀まわりを演じて拍手喝采であった。鬼の首の大きな絵が吊り下げられて動くしかけも見事であった。

「やあ、来てくれたんですね。絵師の大門と知り合えたのもみなさんのおかげだし、今日もたくさんのお力添えをいただいてありがとうございます。」

 正が飛び出してくると、さっそく雄山が肩を叩いた。

「やあ、素晴らしい。見に来てよかった。お祝いじゃ、今日は終わったら診療所に来なさい。祝いの酒を酌み交わそうぞ。」

「先生のところは、毎晩お祝いじゃのう。」

 久太郎の言葉に、皆で笑った。最後にとんちくじがあるというので、皆でおしかけた。神社の奥に立て札があり、そこにとんちが書いてある。木札を買って、その答えを書いて箱に入れる。答えの合っていた人の中から抽選で商品が当たるのだという。

「どれどれ、私、やってみようかしら。」

 星照院が、目をくりくりさせてのぞきこむ。

「なになに、衆生に光を与え、命をかけて汗水流して働くほどに童子のようになるもの……ふむふむ、なるほどねえ。ああ、そうか。」

「ええ、雄山先生は、もうわかったんですか。こっそり教えてくださいよ。」

 調子のいい久太郎が、雄山にせがむ。雄山は相手にしない。

「だめだめ、教えたら、わしに当たる率が下がるじゃないか。だめだって。」

「ちぇ、けちだなあ。そこをなんとか。」

「だめ、自分で考えなさい。そうそう、お市ちゃんはどうかな。わかるかな。」

 雄山が、やさしく聞くとお市は遠慮がちに答えた。

「でも、あたい、字が書けないから…。」

「ハハハ、平気だよ、字の書けない人は、あそこの筆を持っているおじさんにこっそり言えば、書いてくれるってさ。」

「そうなの。でも難しいなあ。」

 すると久太郎がそれを見てすかさず言った。

「ほら、お市ちゃんも困っているじゃないですか。教えてくださいよ。」

「だーめ。」

 その様子を見て、苦笑しながらお市が聞いた。

「ねえ、宗助さんは、わかる?」

「はあ、わかりませぬが、こう思いました。命がけで衆生のために光を与える。まさにこの乱世に現れて衆生をお救いになるという久世観音のようだと。」

 宗助は、やさしく話しながら、星照院をなにげなく見ていた。

「久世観音? 星照院様って…。」

 星照院はそれこそ童子のような澄み切った瞳でとんちを考えていた。

「わかったわ。お市ちゃんにだけこっそり教えてあげましょうか。」

「ううん、やっぱり、自分で考えてみるわ。」

「ええ、俺には、教えてくれないんですか。あんまりだ」

 また皆で大笑いだった。だが、その時、鳥居のほうから叫び声があがった。

「宮司はどこだ、魔物が、魔物が出たぞ。」

 人並みがどどどと引いて行く。こんな真昼間にいったいなんだ、と見れば、どこから出てきたのか、犬ほどの毛むくじゃらの子鬼が飛び跳ねている。

未月が身構えた。だが、それより早く、飛び出した者がいた。辻説法をしていた僧の奏胤である。

「グェ、グルルル。」

 跳ね回る子鬼に向かって奏胤が、真言を唱えると、子鬼はガクンと倒れて動けなくなり、その場で牙を剥いて暴れた。そこに向かって大きく印を切ると、子鬼は燃え上がり、宮司が駆けつける前には、もう、灰になっていた。

「こんな昼間、しかもこんな街の中に魔物が出るとは…。」

 奏胤は何もなかったように、さらに増した人だかりの中で辻説法を続けた。少しすると、神社は、また元通りの活気を取り戻した。それは、この怪奇な事件の小さな始まりに過ぎなかった。


「ええ、京の街の中で神隠しだって?」

 足のけがで治療にきた少女から話を聞いて、雄山が驚いた。

「はい、私はこの京の祇園のそばで店を開いている青物屋の娘でおさきといいますが、兄が神隠しにあってもう、四日になります。近くの若い衆三人で、町内の見回りに行ったきり、帰らないんです。」

「ええ? 町内の見回りで三人も…。」

「はい、ちょっと行ってくるって、飲みかけのお茶もそのままで、呼ばれて出て行ったきり、戻らなくて。街から出て行った様子はないんです。」

 それで、ここ数日街中をあちこち探し回って走っているうちに、足をくじいてしまったというのだ。不思議な事件に首を捻っているうちに、重症の患者が運び込まれた。

「ひどい傷跡だ、山の中で、熊にでも襲われたか?」

 連れて来た染物矢の久太郎は腕を組みながら答えた。

「いいえ、夜明け前に豆腐の仕込をしていた時に、店の前で何か大きな獣に襲われたそうです。」

「ばかな、街の中に熊が出たとでも言うのかい。」

「あれだけ人通りの多いところで、ほかに獣なんぞ見かけた者は一人もいないんですよ。いったい、どうなっちまったんですかねえ。」

 久太郎の言葉に、星照院も不安そうな表情を隠せなかった。

「いったい、京の町はどうなってしまったのかしら…。」

 それを脇で聞いていた未月が声をかけた。

「おさきさん、まだ足が痛そうだから、私が送って行ってもいいかしら。」

「ああ、それがいい、わしもどうしようかと思っておったのじゃ。」

 戸口に立つと、宗助がスーッと近づいて来て言った。

「おさきさん、この未月っていう人はね、人探しの名人なんですよ。帰りがてらにお兄さんがいそうなところを案内するといい。」

「あの、私は…。」

「そうなんですか。良かった。よろしくお願いします。」

「は、はい。」

 宗助の一言で、狙い通りの帰り道になった。


 人通りの絶えない表通りを、未月はおさきの荷物を持ち、ゆっくりと歩いていった。

「どんなお兄さんなんですか。」

 未月の言葉に、おさきは涙をこらえこらえ、話し出した。

「力自慢で喧嘩っ早いけど、私にはやさしくて、いつも守ってくれていた、いい兄なんです。戦や火事で空き家や瓦礫があっちこっちにあって物騒だからと、腕自慢の若い衆が三人で見回りに出たんです。あっちの商店街を歩く三人組を皆見てるんです。でも、ここいらを見回った後、あっちの方に行ったっきり、もう誰も見ていないんです。そんなことがあるはずがないと、それこそ京都の隅から隅まで走り回ったんですけれど…」

「一番最後に見かけられたのは、どこなんですか。」

「はい、この先の横丁の方で、ご隠居が見かけたって言うんですが…。」

 しばらく歩いて、華やかな扇屋や、あでやかな織物の店の前を抜け、金貸しの土蔵の角を曲がると、そこは一本道で少し先で行き止まりになっていた。

「行き止まりね。おさきさん、この焼け跡は?」

「この黒い壁ね、原因不明の火が出てね、燃える前は、大きな呉服屋だったのよ。何人も焼け死んで大騒ぎになったのよ。早いものでもう半年たつわ。あら、三河やさんじゃないの。しばらく仕入れに行ってて会えなかったのよ。ちょっと、三河やさん、聞きたいことがあるんだけど。」

 焼けた呉服屋のはす向かいで、酒屋のおやじが水をまいていた。

「おう、おさきちゃん、てつ兄が大変らしいなあ。俺は見たよ。」

「え、本当ですか。」

「ああ、あの日、若い衆三人が通りがかったものだから、二言三言話したよ。そしたら、これから行賢寺まで行ってから、焼け跡を見回るって言ってたなあ。それで別れたんだよ。。」

「本当ですか。会えて良かった。ありがとう、おじさん。」

 行賢寺というのは、この行き止まりにある公家の菩提寺で、立派な伽藍を誇る、このあたりでは一番大きな寺であった。こちらからは裏口になるが、やはり同じころに小火を起こし、、地元のものは立ち入り禁止になっていた。

「ああ、あと、このあたりは最近暗くなると見慣れない怪しいのがうろついてるから気をつけな。」

「怪しいの?」

「おう、この間も、背の高い大きな風来坊みたいのや、つづらを背負った女も歩いていたことがあったよ。夜中にだぜ。暗くなる前に帰るんだよ、あんたたちも。」

 お礼を言って二人は三河やと別れた。つづらを背負った女? 少なくとも、自分はここに来るのは初めてだと未月は思った。

「え? あの人影は?」

 行賢寺を裏口から眺めた時だった。、袈裟をかぶった三人連れの高僧が本堂に入っていくのが見えた。

「未月さん、どうかしたの。」

「いいえ。じゃあ、暗くなると困るから、今日はこれで帰りましょう。」

「ええ、どうも重いものをありがとうございました。」

 やがて日は傾き、あやかしのうごめく夜が訪れた。


 三人の高僧は、本道の北斗の間という小部屋に座すと、静かにしゃべりだした。

「月の法師よ。甲斐の信玄の呪殺は成功したのかのう。」

「ああ海の法師よ、うまく行った。やつら、影武者なぞ立ててごまかしておるが、信玄の死が、この京まで知れ渡るのも時間の問題であろう。嶺の法師よ、そちらの守備はどうじゃ。」

 するともう一人の僧が、悔しそうに口を開いた。

「越後の謙信は毘沙門天の法力を用いて、わが呪殺をかえしてきおった。今回はしくじったが、まだいくらでも隙はある。近いうちに、謙信の急死の知らせが、皆のところにも届くであろう。問題なのは、上洛した織田信長じゃな。」

 最初の僧が大きくうなずく。

「天子様の密使を無礼にも追い返し、足利将軍を影から操り、好き勝手のし放題じゃ。それだけでも手に負えないのに、信長の背後に冥道衆らしいあやしい影がちらついているという。」

 聞いていた二人が顔をゆがめた。

「何、冥道衆だと? やつらがいては、呪殺はおろか、式神も、返される。天子様に最も近づけたくないやからじゃ。織田信長討つべし。明智天輪は何をやっておる。」

「配下の者を、信長のもとに潜入させ、動きを封じようとしているらしいのだが…。」

「手ぬるい。」

「やはり天輪のやり方では生ぬるいわ。もう一つ、手を打っておくかのう、、嶺の法師よ。」

「ふむ、決断の時がきたようじゃな。寂翠(じゃくすい)よ、ちこう参れ。」

 みねの法師は、大きく二回手を叩いた。すると襖がするすると開き、公家の才気あふれる若者が進み出た。

「陰陽師の寂翠と申します。お見知りおきを。」

 月の法師が、早速問いただした

「寂翠か。静かなまなざしの中に危険な光を宿しておる。さておぬし、何ができるのか。敵に冥道衆がいては、陰陽道の技のほとんどは返されてしまうのだぞ。」

 すると、寂翠は静かに、しかし自信たっぷりに答えた。

「はい、それでは、かねてより用意しました鬼人おろしの技をお見せいたします。」

「鬼人おろしだと?!」

 皆驚きの色を隠せなかった。寂翠は謎めいた笑みを浮かべたのだった。


「線香おばば、どうなの、このあたりの妖気は?」

 夜だった。未月は、呉服屋の焼け跡の物陰で線香おばばを呼び出していた。

「ふむふむ、ここには何もないねえ、やはりアンタがいうように、向こうから、プンプン匂ってくるよ。」

「やっぱりね。で、敵の種類は?」

「お化けや妖怪の類じゃないねえ。もっと危険だ。魔界、魔界の入り口のようなものが開いておる。これは一筋縄ではいかんぞ。」

「魔界の入り口?」

「この間の子鬼というのは、そこからにげてきたものじゃろう。強い魔神を呼び出せばなんとかなるじゃろうが、百獣王や樹王などを呼び出したら、京の町がめちゃくちゃになってしまうからのう。よくよく考えて行動するのじゃぞ。うむ、強い妖気が近づいておる。心せよ。」

 見れば、道の行き止まりの方から、突然、二人の男が歩いてくる。頬かむりをしていて顔はわからないが、二人とも人間離れした巨体で、風を切って進んでくる。

 未月は、焼け跡の廃材であらかじめ組んでおいた人型にすばやく面をかぶせた。

「魔具、でくの面、力冠者!」

 二人の風来坊は、あたりを伺いながら足早に、通り過ぎようとした。着物の袖が妙な膨らみ方をしている。

「待ちな、そこのお二人さん。なんか袖の中に隠してないかい。その腕、見せておくれよ。」

 二人は立ち止まり顔を見合わせたが、そのうちの一人が突然、たけり狂ったように殴りかかってきた。

「ほら、見せてやるよ。」

 危なかった。トンボを切って飛びのいた未月だったが、息が止まるような戦慄を覚えた。なんと着物の袖から突き出た右腕が、人間の倍ほどもある熊の腕だったのだ。

「よく、かわしたな。だが次が最後だ。」

頬かむりの中の瞳がギラリと光った。

「人目につかないように言われているだろう。深追いはするな。」

 一人が呼びかけたが、もう熊の腕の男は止まらないようであった。

「グルルルルル。」

 男は猛然と突っ込んできた。

「あんたの相手はこっちだよ。行け、力冠者!」

 焼け跡の物陰から、のそりと黒い人影が立ち上がった。物静かな面の下に、廃材で組まれた体が、力強く動き回る。

「グワォオオオオオオウ。」

 鋭い熊の爪が二度、三度と突き刺さる。飛び散る木片。だが、力冠者も負けてはいない。頭突きをくらわして男の勢いを止めると、ズシりと重い廃材の腕を思いっきり振り下ろした。鈍い音がして、男がひざをついた。

「ウォーン。」

 さらに、もう片方の腕が、大降りで下から上へと突き上げた、ものすごい音がして、着物が引きちぎれ、男は後ろに仰け反った。もう一人の男が、出てこようと進み出たが、熊の腕の男がそれを止めた。

「まだだ、下がっていろ。」

 男の傷はみるみる治っていき、今度は、助走をつけ飛び掛ってきた。ぶつかりあう二つの巨体。大きな木片が飛び散った。

「ばかな、数十人の人間と同じ力を持つ力冠者の腕をちぎるとは!」

 未月が目を丸くした。だが、力冠者もちぎれた腕を棍棒がわりにして殴りかかる。戦いはヒートアップした。

「だれだ、こんな夜中に。」

 その時、すぐ近くから声がかかった。三河やだった。ガタガタと戸を開けようとしている。

「騒がれるとまずい、引き上げるぞ。」

 もう一人の男が、無理やりに熊の腕の男を引っ張り、行き止まりの方へと俊敏に走り出した。その時、ぱらりと小さな札入れのようなものが道に落ちた。

「これは?」

 戸がガラッとあき、三河やが目をこすりこすり出てきた。

「だれだ、うるさいぞ。あれ?」

 戸を開いた三河やが見たのは道にばらばらに転がっている黒く焦げた廃材だけだった


「え? 私に見せたい物があるんですって。」

 未月は、次の日、青物やのおさきをこっそり訪れた。

「うん、実は、昨日あれから少し心当たりをあたって手に入れたんだけど…。」

 未月は、店の裏でそう言うと、小さな布の札いれを見せたのだった。

「こ、これは…。」

「どう、どこかで見覚えはある?」

 それは男物の札入れで、中に難しい漢字の書かれた紙が入っていた。

「この模様どこかで見たことがあると思ったけど、そう、兄と一緒に神隠しにあった権造さんの持っていた札入れに似ているような…。中の紙は読めないわ…。これをどこで!」

「うん、あの呉服屋の焼け跡のそばで拾ったのよ。」

「やっぱり!私ももう一度行ってみようかしら。実は、京も三河やさんが通りがかりに教えてくれたんだけど、行賢寺のほうから今朝も妙なお経や大きな音が聞こえてくるっていっていたわ。」

「妙なお経や大きな音? 危険だからこの後は人探しの名人にまかせて。それより、おさきさんには、こっちを頼みたいの。ほかの神隠しに遭った人のご家族にもね…。」

「何でも力を貸すわ。いったい、それは?」

 未月は、呪文のかいてある小さな紙を取り出したのだった。


 その日の夜、月が中天に差し掛かろうというころだった。将軍足利義昭が銀閣で、月見の宴を催すということになり、二人の武士が見張りについていた。月が明るくあたりを照らし出し、銀閣の白土の壁をあでやかに浮かび上がらせる。虫の音がやさしく響き渡っていた。

「おい、何だ、こんな夜遅く、ありゃ若い女だぞ。」

 宵闇の中から色白ですらっと立ち姿の美しい女が、こちらに歩いてくるではないか。女の妖しい美しさに見とれていると、女は軽くお辞儀をして、銀閣とは反対の方向へと曲がっていった。

「おい、今の見たかい。いい女だな。いったいこんな遅くになんだろう。。」

 一人の武士が、名残惜しそうに、二歩三歩と後姿を追いかけた。

「こらこら、何を鼻の下を伸ばしておる。」

 もう一人の年配の武士が声をかけて驚いた。追いかけた武士はその場で声も出さず、突然倒れたのだ。

「おい、何があったんだ。」

も うすでに絶命していた。

「おい、お前、何をした。」

 年配の武士は、妖しい女を追いかけた。

「待て、待つんだ。へ?」

 女は一瞬立ち止まり振り向いた。だが、なんと首だけがくるりと真後ろを向き、かすかに微笑んだのだった。その瞬間、口元で何かが光った。

「へ?」

 年配の武士も、声もなく倒れた。その喉と胸には、数本の鋭い毒針が突き刺さっていた。女はやさしく微笑み、何もなかったかのように去って行った。


 朧な雲がゆっくりとたなびき、月を一瞬隠した。ここは銀閣、満月が池にちょうど差し掛かり、月の宴は、今まさに最高の見せ場を迎えようとしていた。

「なんじゃ、いよいよこれからというときに、月に雲がかかるとは。それに外が騒がしくなってきた。なにかあったのか。誰かある。」

「ははー、ここに。」

「外の様子を見てまいれ。」

 将軍の言葉に、お付きの侍が、外に出て驚いた。護衛の武士たちが皆出てきて、上の方を見て叫んでいる。

「いったいなんじゃ。う、これは、ば、ばかな!」

 それはありえないことだった。銀閣の二階の屋根の上に、二本足ですっくと立った人影が見えるではないか。将軍義昭はすぐにその場を引き上げ、護衛の武士がぞくぞくと集まってきた。一人の剛の者が弓を引いた。確かに手ごたえはあったが、男はピクリとも動かなかった。そのうち雲が流れ、満月が、あたりを照らし出した。

「なんじゃ、あれは。蛾じゃ、蛾の魔物じゃ。」

 それは二本足でたつ、蛾の化け物だった。そいつは満月の光の中に大きな羽を伸ばすと、その美しい羽を小さく震わせた。

「な、なんだ、これは。」

 青い月の光の中に、きらめく鱗粉が舞い踊った。顔や手についただけで皮膚が、軽く吸い込んだだけで体がしびれてくる。あっという間に風下にいた十数人の武士が動けなくなった。

「ぬぬう、鉄砲隊を呼べ。」

 残りの武士たちがあわてふためいたところに、巨体の風来坊が二人、歩いてきた。

「なんじゃ、お前らは。今それどころではないわ。とっとと帰れ。」

「ほう、俺たちを追い返せるのかな。」

「なに。」

 男が頬かむりを取り、帯をゆるめると、上半身はもうすべて、毛むくじゃらの化け物だった。

「くたばれ、魔物め。」

 護衛の武士が次々とかかっていく、熊男はまるで殺戮を楽しむように、殴り殺していく。どこを切っても、突き刺しても、分厚い毛皮にはばまれ、傷口もみるみる見ている間に治ってしまうのである。

「俺は雑魚はいらねえ、大将は誰だ、出てこい。」

 もう一人の男は、右手に一本、左手に一本大刀をもち、軽々と振り回し、大将を名指しした。すると、奥から一人の背の高い武将が進み出た。

「魔物め、息の根を止めてくれるわ。」

 魔物は人間離れしたスピードで、両手の太刀をめちゃくちゃに振り回す。武将はそれをすべて受けきり、跳ね返す。

「ちくしょう、これでどうだ。」

 魔物が思いっきり切りかかると、武将はぎりぎりでかわし、太刀を突き刺した。が、刺さるどころか刀の先がポキリと折れた。

「なんだ、これは?」

「へへ、今度は、こっちの番だ。」

 魔物は大きく飛び上がり、真上から切りかかる。それをしのぎ、二人はつばぜり合いの形となる。

「なんという太刀筋だ。だが、そうやすやすはやられはせぬ。」

「ばかめ、おまえの負けだ。」

 次の瞬間、つばぜり合いのままの体制で、武将の首は飛んでいた。なんと、魔物の男の両肩から、二本の巨大なカマキリの腕が生えていたのだ。

 青い月の光の中に、武将の首が転がった。数人の生き残りが、それを見て逃げ出した。だが、突然空中から鋭い毒針が降り注ぎ、ばたばたと倒れた。そこに夜空からゆっくり蛾の魔物が舞い降りる。魔物たちはさんざん暴れまわると、その場から姿を消したという。


 事件は硬く伏せられたが、どこから漏れたのか巷では将軍の護衛が魔物にやられた、将軍の威光はまたも地に落ちたと噂になった。京の町は重い空気に包まれ、ここ星照院妙法寺でも、皆集まって、事件の謎解きが始まっていた。

「というわけで、あやしい輩が行き来する裏通りで未月が拾った札入れに入っていたというこの紙、わけのわからない漢字が書いてあるんだが、こりゃあ、いったいなんなのかということなんだ。これは、重大な問題だぞ。」

「ですから、ちょっとお聞きしただけで。」

 未月は、また大騒ぎになりそうで困ったという顔をした。雄山は、少し酒が入り、もう止まらない勢いであった。久太郎がもっともらしく相槌をうった。

「そうですとも。きっとその紙、夕べの事件に関係した手紙かなにかに違いないですよ。」

「しかし、最初に隠秋と地天と書いてあるのは、なんとか読めるんじゃが、本文の方は達筆過ぎて、読むのにちと時間がかかりそうじゃのう。」

 するとそれまでそばでそわそわと聞き耳を立てていた星照院が、進み出た。

「ちょっと見せてもらえますか。あら、なんてお上品で素敵な文字、かなり崩してありますが、これなら問題なく読めますわ。」

 そして、まったく滞ることなく、一気にすらすらと読み上げたのだ。

「まったく意味不明ですけれど、中に、桔梗とか芙蓉とか萩とか、花の名前が読んでとれますねえ。これを書いたのは、とても風流な方かと…。」

 そう言うと、宗助に紙と墨を用意させ、皆にも読みやすいようにあっという間に書き移してしまった、

「ふうむ。これならわしにも読めることは読めるが、意味はまったくちんぷんかんぷんじゃ。これは暗号だな。位の高い公家か何かの間で使われた、暗号の手紙に違いない。」

「すげえや。なんとか解読できないんですかね。いやあ、おれなんか一文字もわからないや。その、隠秋とかいう人が、地天という人に花のことを書いたんですか? それが、事件とどういう関係があるんですかね。」

 すると、宗助が口をはさんだ。

「人の名前ではないでしょう。もし手紙だとすると、そんな位置に名前は書かないと思います。」

 宗助の言葉に、雄山がなにかひらめいたようだった。

「そうだな、名前ではないなあ。じゃあなんだろう。うむ、ひらめいたぞ。おい、大門はいるか、おまえ朱墨を持っていたよな。ちょっと、貸しておくれ」

 そう言うと、雄山は、絵師の大門とともに、書き写した文書に、朱墨を入れはじめた。

「ええっと、芙蓉、これに印をつけておくれ。萩もそうだ。」

「ちょっと、先生、何をおっぱじめたんですか。教えてくださいよ。」

 久太郎がもどかしそうに聞いた。

「隠秋だよ、隠秋。その風流な手紙の書き手が、考えそうなことだよ。秋の季語をすべて取り除いたら。なんか意味のある言葉になるんじゃないか。」

「なあるほど、さすが先生。」

 だが果たして、まだ意味のわかる言葉にはならなかった。

「間違っちゃいないはずなんだが。まだ、何かが足りないようだ。」

 星照院が慎重に口を開いた。

「隠秋はこれでいいとして、地天ってどういう…。」

 皆も黙って考え出してしまった。久太郎がぼそっと言った。

「地天か…? 天地なら俺もわかるんだけど…。それだ!」

 雄山が、逆さに写しなおすように言うと、星照院が指示通りにさっと書き直した。天地を逆にすると、そこに現れたものは…。

「では、意味をかいつまんでつなげると次のようになります。次の十五夜に銀閣を襲う。成功すれば、次の新月に坂上義久をねらう…。」

「これは!」

「事件の予告じゃないですか。」

 雄山は、険しい顔になった。

「文の最初は、昨日の事件のことじゃろう。後半は、近いうち起こる事件じゃ。誰だこの、坂上というのは。」

 すると、宗助が当たり前のようにしゃべりだした。

「はい、幕府の武将の一人で、この京の護衛の中心人物、二条城の守備隊長ですよ。」

なんでそんなことを知っているのだろう、この人は!

「なんとか手を打たなければまずいぞ。また大事件になる。」

 星照院がまだ納得のいかない顔をしているので聞くと、

「途中に、意味のわからない漢字が二つ紛れ込んでいるのですけれど…。」

 そう言って、紙に大きく二つの文字を書いて見せた。

 寂翠とあった。

「寂翠か。雅号かなんかだな、これは。」

 皆さらに、ああでもない、こうでもないと酒も入って、どんどん盛り上がっていった。結局、読み書きさえも難しいというのに、こんな暗号をさっさと解いてしまった。どういう人たちなのだろう。とんでもない人たちと仲間になってしまったと未月は思った。


 それから数日後、一行はそろってあの神社に出かけた。例のとんちくじの抽選の日なのだ。神社の入り口には、また、あの奏胤という僧がいて辻説法をしていた、今日も星照院が通りかかると丁寧にお辞儀をしてきた。こころなしか、星照院を見て、微笑んだように見えた。

「あの坊さん、まさか星照院様に気があるんじゃ…。あぶない、あぶない、そういえば、堺の時、天外さんもあやしかったし、雄山先生、うっかりしているととられちゃうかもしれないですよ。」

「ばかもの、星照院様は誰のものでもありゃあせん。」

 久太郎の言葉に雄山が声を荒げると、星照院が、真面目に言い放った。

「おほん、私が帰依するのは仏様だけですから。」

 さて、奥に歩いていくと、猿楽師の正が走ってきた。

「待ってましたよ。もう皆さんぞくぞくと詰めかけていますよ。」

 本殿の前に人だかりができ、皆、神妙な顔をしてその瞬間を待っていた。男が裏返しに立て札を持ち、前に進み出た。

「それでは、まず、とんちの答えを発表いたします。」

 皆ごくりとつばをのんだ。男が立て看板を地面に突き刺した。どよめきが起こった。

「衆生に光を与え、命をかけて汗水流して働くほどに童子のようになるもの……。その答えは蝋燭なりー。」

 歓声とため息が同時に起こった。もう、くるりと背を向けて帰り出す者もいた。

「正解は二十七枚あります。それでは、これから札を引きます。」

 男が、二十七枚の木札を箱に入れ、神社の巫女が進み出た。

「なあんだ、衆生に光を与えって、蝋燭のことかよく考えれば簡単じゃねえか。」

 悔しがる久太郎を、雄山は鼻で笑っていた。

「童子のようになるとは、背が縮むということじゃよ。わしは正解じゃ。さあ、いつ呼ばれるかのう。」

 だが、十等どころか、五等、四等と呼ばれていっても、雄山はいっこうに呼ばれなかった。ついに三等となり、今度こそはと手に汗を握り期待したが、なんとあたったのはお市だった。

「やったあ、衆生とかわからないけど、光を出すものを書いたら当たっちゃった。」

 そして、星照院が二等だった。一等は逃したが、お市には栗が、星照院は上等の蝋燭が当たった。

「ちょうど蝋燭が切れ掛かっていたから、助かったわ。」

 星照院は、上機嫌で帰路に着いた。


「おねえちゃん、この栗、みんなに食べてもらって。」

「気を使わなくてもいいのよ。みんなで一緒に食べましょうね。」

 帰り道、お市はどっさりの栗を持ってうれしそうだった。だが、小さな四つ角にさしかかった時、それは起こった。萩の生垣があまりに見事なので、星照院が歩み寄るとその後ろから、突然、人影が近づいた。

「これはこれは星照院様でいらっしゃいますね。かねがねお噂は聞いていましたが、なんとみめ麗しいお方か…。」

 花陰から現れたのは、凛とした貴公子であった。

「公家さんが、なんでこんなところに…。」

 皆口をあんぐりした。

「どなたです、あなたは。」

 するとその男はひざまずき、一言言った。

「寂翠にございます。」

 皆一瞬言葉を失った。なんと大胆不敵な。しばらくの間、沈黙が辺りを包んだ。誰も、何を言っていいのかわからなかった。寂翠、この公家の貴公子が、噂の凄惨な事件の首謀者なのか? いったいなんのためにここに現れたのか? 沈黙を破ったのは、星照院だった。

「あなた、あんな手紙を書いて! 馬鹿なことはおやめなさい。」

 星照院が声を荒げた。だが、男は静かにひざまずき何も語らなかった。星照院が今度はやさしく語りかけるように言った。

「お願いです。あなたのような方が、道を踏み外してしまうのが残念なのです。見ていられないのです。」

 すると、男は立ち上がり静かに言った。

「ありがたきお言葉、心に深くしみました。では、またお会いいたしましょう。」

 寂翠はそう言って、さっと花陰に消えていった。

「こらあ、逃げる気か。」

 血の気の多い猿楽師の正が、飛び出した。未月が叫んだ。

「正さん、あぶない、追いかけちゃだめ。」

 未月が走り出した。正が角を曲がると、もう寂翠は消えていた。が、そこにふらっとあでやかな着物姿の女が現れた。未月は、底知れぬ不安を直感した。その女には、生きた人間の生気がまったく感じられないのだ。女はやさしく微笑んだ。

「あぶない、正さん伏せて。」

 間に合わなかった、正の喉に毒針が突き刺さった。

「正さん!」

 だが正は倒れなかった。

「ゲホ、な、なんだこりゃ。」

 正は、喉に突き立ったものを、手ではずして、駆けつけた皆に見せた。

「なんだ、こりゃ。松葉だな。ばかにしやがって。」

女 は、かき消すようにいなくなっていた。


「一晩であの手紙を解読するとは…。計画をすべて白紙に戻すか。」

 夜、行賢寺にもどってきた寂翠は、のぼりはじめた月を見ながら物思いに耽っていた。

「これから欠けていく下弦の月は、あとからひっそりとのぼってくる。なんとも奥ゆかしいことよ。」

 襖がすっと開き、全身黒ずくめの黒子の衣装をつけた者が、お茶を持って入ってきた。

「うむ、美味じゃ。おお、欅よ,今日の人形使いは見事であったぞ。」

 欅と呼ばれた黒子は、深々とお辞儀をした。

「ありがたき幸せにございます。」

 月に照らされた枯山水の庭を眺めながら、寂翠はふと言った。

「わしの気のせいかのう、庭の置き石が少し動いたような気がするのだが。」

 そういわれて、黒子もじいっと庭を見つめたが、わからないという素振りをした。

「勘違いだとよいのだが。ところで例の三人はどうしておる。」

「はい、本道で、静かに眠っております。」

「なら良いが、やつら、ちと暴れすぎたかのう。」

 なぜか、星照院の顔が浮かんでくる。その時、表門の方で大きな音がした。

「なんだ、やつら眠っているはずでは。」

 寂翠は、黒子とともに表門にかけつけた。中から鍵をかけていたはずの表門の戸がぶち抜かれ、そこにつづらを背負った女が立っていた。

「雷の呪符で吹き飛ばしたか。こんな寺など、こっそり忍び込めば誰にも気づかれずにすむものを。おや、君は確か、星照院様と一緒にいたね。」

「私は、鬼流門未月、なんであんな事件を起こす。」

「おやおや、あの鬼流門の者か。私は君とは戦うつもりはないよ。私は、明智天輪や坂本天外と志を同じにするものだ。」

「天輪はどうか知らない。天外は、おまえとはまるで違う。もう一度聞く、なぜあんな事件を起こした。」

 すると寂翠は不敵に答えた。

「武士は何をした。天子様が賜れたこの美しい京の町を土足で踏みにじり、火を放ち、破壊した。人々を苦しめ、多くの命を奪った。さらに火薬の原料欲しさに南蛮人に魂を売り渡し、このままでは美しい寺社の文化や民の信仰や心根まで危うい。だから、罰を与えてやっただけなのだよ。」

 未月は、まっすぐに寂翠を睨むと言った。

「百歩譲って、おまえの言い分を認めよう。だが、魔界の力を使うということはそんな生易しいものじゃない。人の命をもてあそぶようなその行いは決して許せない。」

 寂翠は驚いたような顔で続けた。

「おまえはどこまで知っている。いいや、おまえの望みはいったいなんだ。」

 未月は、月明かりの中に進み出た。

「あの三人を返してもらおう。そして…」

「そして…。」

「魔界の入り口を閉じる。」

 未月が大きな声で言い切ると、寂翠はかっと目を開いた。。

「そこまでご存知か。ならばいた仕方あるまい。お相手いたそう。どうぞ奥へ。早速魔物をご挨拶にうかがわせよう。」

 戦いは幕を開けた。


 血判の押された紙が翻った。

「高貴なる天王の魂よ。人々の怒りに悲しみに血と涙に答えよ。行け、魔神 轟天!」

 未月の言葉につづらの蓋が吹っ飛び、中から光とともに、大男が立ち上がった。筋骨隆々たる裸の上半身に、身軽な防具が光る。重そうな鉄の棒を一本、まるでオモチャのように自在に振り回すと、寂翠の方を見てゆっくりと身構えた。足元の枯山水の砂がギュッと鳴った。すごい威圧感である。

「ほう、これが魔神か。なんとも神々しいものよ。ならばこちらも取って置きをお見せしよう。五界の陣!」

 その言葉を聞くと、今までそばで控えていた黒子が深く頭を下げ、そしてどこかへささっと走り去っていった。するとススーッと戸が開き、本堂から現れたのは蛾の魔物であった。

「私は寂翠様に風を自在に操る魔力を授かってね…。ほら、こんなふうにね。」

そして、大きく羽を広げると、呪文を唱えながら羽ばたいた。すごい風が噴出し、つむじ風が舞い起こり、轟天のすぐそばの大木にぶつかった。すると、大木の幹がぱっくりと割れた。かまいたちだ。

「どうだ。逃げ切れるかな。」

 そう言って、もう一度羽ばたいた。つむじ風は今度は一直線に轟天に向かってきた。だが、轟天は、まるで気にもとめないように、少しも動かなかった。

「ばかめ。」

 直撃だ。だが、次の瞬間、傷一つない轟天がそこにいた。

「なんだと? では、これではどうだ。」

 いつの間にか、黒子が小さな台に三枚の呪符をのせ、すぐ横に控えていた。

「嵐の呪符だ。」

 そういって羽ばたくと、突風とともに土砂降りの雨と稲妻が起こり、轟天を直撃した。しかし轟天はまだ少しも動かない。体が濡れただけ、という感じだった。

「えええい、これならどうだ。この間試した時はこの辺りが火事を起こしてな。今度はお前を焼き尽くし、氷付けにしてやる。」

 激怒した蛾の魔物は右手に炎、左手に冷気の呪符を持ち、思いっきり羽ばたいた。すると、炎のつむじ風と、冷機のつむじ風が同時に起こり、左右からはさみこむように、轟天を襲った。だが、轟天は目を閉じ大きく息を吸うと、そのまま動かず、二つのつむじ風をあえて受けたのだ。

「なに!」

 肉が焼けただれ、あるいは凍りつくはずだった。だが、今度も轟天は、無傷で平然と立っていたのだ。

「魔界の毒で、地獄に送ってやる。」

 すると、本堂の闇の中から座布団ほどもある蛾の大群が飛び出し、轟天の周りをぐるぐると回り始めた。強力な毒の鱗粉が舞い踊る。だが、轟天はまだ動かない。さらに空中から強力な毒針が飛んできたが、鉄の棒がくるりと宙を舞い、すべて打ち落とされる。

「なぜだ、なぜ、俺の攻撃が通じない。」

ついに轟天が動き出した。胸の前で大きく腕を合わせ息を整える。その瞬間、轟天の体を包む、オーラのような輝きが見えた。そうなのだ、轟天は、凄まじい「気」の鎧をまとっているのだ。

「オオーン。」

 叫び声があがった。ついに轟天が動き出す。重い鉄の棒をぶんぶんと振り回すと、流れるような動きで、空中を飛び回る巨大な蛾を次々と打ち落とし、最後に槍を投げるように、大きなモーションで鉄の棒を投げたのだった。棒はドリルのように回転しながら、残りの蛾を撃ち落とし、そのまま蛾の魔物の羽を突き破った。片羽がもげ、蛾の魔物はふらふらと、轟天のそばまで飛んできたが、そこでみぞおちに一発正拳突きを食らい、力尽き倒れた。未月が駆けつけ、魔神召還の逆呪文をかけた。

「やはり、人間に魔物を乗り移らせ、操っていたか。」

 逆呪文で魔気が抜けるに従って、だんだんと元の若者に戻ってきた。罪のない若者である。気を失っている。

「これで一人。」

 未月は鋭い目で寂翠を見据えた。寂翠は首をかしげ何かを考えるような素振りをしながら、小さく拍手した。

「ううむ、見事じゃ。だが、次はそう簡単にいくかな。」

 その落ち着いた様子を見て、未月は、不安を隠しきれなかった。

(ま、まずい。最初は風、それから嵐で水、さらに冷気と炎で、この魔神の弱点を推し量っている。用意を周到に行っておいたから、万が一、ばれることはないと思うが…。)


 その時、本堂の戸がガタンと開き、のそりとあの熊男が姿を現した。そして、蛾の魔物を打ち落とした鉄の棒を拾うと、飴のようにぐにゃぐにゃに曲げ、投げ捨てた。

「こい、本堂で待っている。」

 そして、再び本堂の暗がりの中へと姿を消した。轟天は、警戒することもなく、本堂の中へと入っていった。

「鬼流門の未月と申したな。では、われわれも中へ参ろうぞ。」

 未月も寂翠にうながされ、慎重に歩を進めた。


 本堂の奥の暗がりには鈍い妖しい光がきらめいていた。祭壇の上で蝋燭に照らされているのは小さな魔鏡だった。

「こ、これが、魔界の入り口?」

 熊の魔物が不敵に笑い、床に何か小さなものをばらばらと投げた。

「俺が山で取ってきた狼の牙だよ。」

 そして呪文を唱えると、魔鏡が妖しく輝きだし、中から黒い邪気のようなものが噴出した。そして、いくつかに分かれて、狼の牙に吸い込まれていくと、牙がガタガタと動き出した。ふいに、牙の一つから黒い塊が飛び出し、轟天のわき腹に襲い掛かった。轟天は横に飛んでその攻撃をかわしたように見えたが、今度は大きな切り傷ができていた。黒い塊は、床に転がると立ち上がった。人狼だ。いつの間にか何匹もの人狼が、うなり声をあげて、轟天を睨んでいた。

「魔界の邪気を持てば、魔神の気の鎧も突き破れるということだね。さあどうする、魔神よ。」

 熊の男が短く言った。

「行け。」

 人狼がいっせいに飛び上がった。からみつくようなうなり声、醜く歪んだ深い横しわの下に見え隠れする歯茎と牙、宙を切る鋭い爪、大きな尻尾が右左に揺れ、変幻自在に襲い掛かってくる。

「滅!」

「キャイン。」

 正拳一発で、一匹が吹っ飛び、消滅していった。太い腕が横に大きく動いて、もう一匹、振り返りざまに、さらに一匹、足払いで、バランスを崩し一発、後ろから襲い掛かってくるやつを回し蹴りで撃墜し、助走をつけて正面の人狼に強烈な蹴りを入れた。最後の人狼は、壁まで吹っ飛び、黒いしみのように消滅していった。すべて一発だった。床に狼の牙が転がっているだけだった。熊の男はそれを踏み潰して進み出た。

「参る。」

 毛むくじゃらの巨体が突進してきた。強大な爪が上からものすごい勢いで、右、左と打ち下ろされる。それを素手で跳ね返し、隙を見て、拳を打ち込んで行く轟天。受ける、跳ね返す、よける、、かわす、同時に打つ。白熱の撃ち合いだ。鋭い爪が邪気とともに何度も轟天をかすり、一箇所、二箇所と傷ができる。轟天の正拳も何度も命中するが、すぐに肉が盛り上がり、回復してしまう。驚いたのは、轟天の正拳が顔面を直撃し、太い牙が折れて飛び散った後だった。熊の男は、にやりと笑い、口を開けてうなりをあげた。なんと、うなりとともに、今折れた牙が新しくみるみる生えてきたのだった。

 熊の男が先に攻勢に転じた。

「グオオオオ!」

 もろ手突きでを両手で押さえしのいだ轟天だったが、熊の魔物はその巨体を活かして、のしかかっていった。そして、両手を使えない轟天の喉笛に、鋭い牙を突き立ててきたのだった。

「グルルルルル」

 轟天の顔のすぐそばで邪悪な牙が空を切る。巨大な爪がじわじわと食い込んで行く。危ないと思った時、轟天が足を跳ね上げた。熊の魔物は大きく弧を描き、巴投げの形で大きく吹っ飛ばされた。だが、熊の男は平然と立ち上がり、一言言った。

「次で最後だ。」

 いつの間にかそばにいた黒子が、何かとても重そうなものを箱から取り出した。それは重厚でまがまがしい武具だった。右手には、一撃で人間のはらわたをえぐり出せるほどの巨大なかぎ鉄甲、左手には鋭いとげのある鉄の球のついた長い鎖。熊の男は武具を手に取ると鉄の球をぶんぶんと振り回した。蝋燭の光が灯るだけのほの暗い本堂の中を鉄の球がうなりをあげる。かわす轟天。その度に床板がぶち抜け、壁に穴があく。だんだんと間合いがつまり、追い詰められて行く。

「ムン。」

 ついに鉄の球が直撃だが、轟天は左腕で鎖をからめ捕り、思いっきり引っ張った。二人の間にピーンと鎖がつながり、静かな緊張が走った。熊男はうなりながら鎖をたぐりよせ始めた。徐々に短くなっていく鎖…。ついに間合いがつまった。

「グォオオオオオ!

 熊男の目がギラギラ光った。

「轟天、金剛拳!」

 邪気とともにふりろされる鉄甲、だが轟天は、よけるどころか右手の正拳を打ち出し、かぎ鉄甲に合わせた。

「何っ?!」

 高い金属音が鳴り響き、まさかの巨大かぎ鉄甲が砕け散った。恐ろしい爪が折れて、天井に何本も突き通った。大きく伸びきった轟天の右腕は金属のような光沢を放っていた。本当に金属の剛拳となったのだ。轟天は左手の鉄の球をそのまま熊の男にぶつけ返した。骨の砕ける音がして、熊の男は方ひざをついた。すぐに肉が盛り上がり、傷が治っていく。轟天はすかさずひるんだ熊の男の胸に渾身の前蹴りを放った。さすがの熊男も後ろに吹っ飛び、フラリと立ち上がった。そこをすかさず間合いに入り込むと、轟天は両手を、毛むくじゃらの大きな胸に当て気合を放った。

「轟天、天帝雷掌!」

 その瞬間、強力な稲妻が両手から発射され、熊の男の全身が震えた。熊の男は気を失って、がくんと倒れこんだ。未月が駆け寄り、逆呪文をかけ、手当てをした。大丈夫、息はしっかりしている。

「これで二人。」

 未月が睨むと、寂翠は平然と答えた。

「よろしい、次が最後だ。もし、この戦いで私が負けたら、君の望みどおりにしよう。だが、私が勝ったらどうするかね」

「負けたら、おまえの好きにするがよい。だが、魔神の本当の恐ろしさをお前はこれから知るだろう。」

 すると寂翠は不敵にこたえた。

「わが陰陽師の一族は、異界への扉を開ける特別な術を持っている。とくと味わうがよい。」

 戦いはついに最終局面を迎えた。


 奥でぎらぎらと輝く魔鏡を背に現れたのは、カマキリの魔物だった。もう、二本の太刀を持ち、肩からは恐ろしいカマキリの腕が刃を構えていた。はだけた胸元からは、鎧のような体が見え隠れしていた。

「ヒャハハハ、俺はなあ、寂翠様より、鋼の魔力を与えられたのさ。この大鎌も鉄の刀のように、よく切れるし…。この体も、鋼のように硬いのさ。ヒャハハハ、おまえの拳など屁でもねえ。」

 そして、四刀流の刃を、めちゃくちゃに振り回してみせた。

 すると轟天は余裕たっぷりに体中の防具に手を伸ばした。

「そっちが四刀流なら、こちらは十刀流だ。」

 すると両肩、両ひじ、両ひざ、つま先の防具から小刀が飛び出した。これに、鉄のような両拳を入れれば、十箇所である。

 そうしているうちにも、魔界の邪気がどんどんカマキリの男に注がれ、渦巻き始める。

「切り刻んでやる。ヒャハハハハ」

 四刀流をめちゃくちゃに振り回しながら、突進してくる魔物。だが轟天はあわてなかった。

「轟天、十天刃の舞。」

 そう言って、流れるように、踊るように、一分の隙もなく、動き出した。大きく蹴りが伸び、思わずカマキリ男がそれを太刀で受けると、間をおかず次の蹴りが伸びてくる。それをぎりぎりでかわし、四本の刀を童子に振り下ろすと、轟天は後ろにかわしながら後ろ回し蹴りがなぎ払う。

「ちっ!」

 その蹴りを鎌で受け止め、残りの刃で轟天の首を狙えば、肩の小刀ではじかれ、ひじの小刀で跳ね返される。その間にも、素早い正拳突きが、右、左と襲ってくる。低く、足元を払えば、ひざの小刀に止められ、間合いを近づけさせれば、喉元に小刀が突き立てられる。

 だが、カマキリ男の鋼のよろいは本当のようで、小刀がかすっても、正拳が決まっても、ほとんど傷も何ものこらないのだ。流れるような攻撃の前に、手も足も出ないカマキリ男は、力任せに、おもいっきり太刀を振り下ろした。

「な、なに?!」

 右の太刀は、肘と膝にはさまれて折れ、左の太刀は跳ね上げられ、天井に突き刺さった。

「ウォー、こうなったら、死神の大鎌だ。」

 その時、祭壇の魔鏡がまがまがしく光り、黒い邪気が噴出した。それは、不気味な死霊の塊となり、振り上げられたカマキリの大鎌にまとわりついていく。すると肩から伸びる大鎌が、邪気をはらんで、数倍に伸びていった。

「ヒャハハハ、真っ二つにしてやる。」

 死神の大鎌がうなりをあげる。さすがの轟天も大きくよけてかわす。無数の死霊の叫びとともに、柱が真っ二つになり、壁が切り刻まれる。しかもすさまじい邪気が渦巻き、近づいただけで気を失いそうになる。だが、轟天はひるまない。

「轟天、真言砕波!」

 轟天が真言を唱えると、金属化した両方の正拳が波動によって振動し、うなりをあげ始めた。轟天が身構え、大きく息を吸った。すると今までにない巨大なオーラが全身にみなぎった。あまりの威圧感に、魔物もたじろいだ。轟天は、そのまま大鎌をよけようともせず、正面から突進していった。

「ばかめ。死ぬがよい。」

 カマキリ男は、死神の鎌を両方とも振り上げ、向かっていった。

「なにっ!」

 最初の一撃で金属音とともに、右の大鎌が、粉々に折れ、次の一撃で、左肩ごと鎌が吹っ飛んだ。真言の波動が、魔界の大鎌を、硬い鎧を破壊したのだ。さらに轟天は力をためると、とどめの正拳を打ち出した。

「昇天!!」

 巨大なオーラとともに、正拳が、胸のよろいを打ち抜き、魔物は空中を大きく吹っ飛んでいった。

「ダァー!」

 そして魔物は、後ろの祭壇の魔鏡を粉々にして倒れた。未月がかけより、逆呪文と手当てを施す。目的は達した。あとは、この無敵の魔神の弱点に気づかれないうちに早く…。

 寂翠が拍手をした。

「見事じゃ。さすが魔神、強すぎる。弱点をつきながら戦ったつもりであったが、まったく通じなかった。今日は驚くことばかりじゃっ多のう。星照院様の美しさに、魔神の強さに…。だが、最後に聞きたいことがある。なぜか、自慢の枯山水の庭が、いつもと違って見えてのう? それになぜか、おぬしはわざわざ、表門を破って入ってきた。それが、どうしても腑に落ちないのじゃ。おぬし、なにか、知っておろう。」

 その言葉を聞いた途端、未月は顔をこわばらせ、轟天に命令した。

「寂翠を討て。」

 轟天は、のそりと歩き出した。寂翠は、何かひらめいたようだった。

「そうか…、もしかして…。ま、まずい、欅、後を頼む。」

 寂翠は、パタンと隣の部屋に消えていった。あわてて未月が戸を開くと、つづらを持った黒子がそこにいた。轟天が殴りかかる。黒子は、身軽にトンボを切ってそれをよける。そのとたん、つづらのふたが開いて、あの毒針を吹く女が立ち上がった。女の口元がかすかに微笑む。だが毒針が発射するより早く、轟天は片手を前に差し出した。

「はっー!」

 すさまじい気合がかかると、まるで糸の切れた人形のように、女は倒れた。だがその時、外で足音が聞こえた。

「轟天、寂翠は外よ。」

 轟天が向きを変え、外に歩き出す。すると黒子が顔の布を上げ、叫んだ。

「お願い。行かないで。」

 黒子の中身は若い娘だった。轟天は一瞬立ち止まったが、ゆっくりと外に出て行った。

「寂水様は、本当はそんな人じゃないんです。すばらしい人なんです。見逃してください。」

 なぜだろう、未月は、それ以上攻め立てる気にはなれなかった。

「あの人が、また道を踏みはずさないように見守ってほしい。さあ、あなたも早く、行きなさい。」

 楓はお辞儀をすると、からくりの女をつづらに戻し、つづらを担いで走り去って行った。

 外に出ると門のところで轟天が立っていた。寂翠は遠く走りながら考えていた。

「やはり、やつは追ってこない。そういうことだったのか。不覚じゃった。あの娘め、わざとらしいあんな真似を…。わしの完敗だったのう。」

 そこにつづらを背負った欅が追いついてきた。

「おう、欅か。無事でなにより。心配しておったぞ。」

 欅はじーっと、寂翠を見つめていた。二人は夜の闇の中に消えていった。


 未月は轟天をつづらに戻すと、事前に忍び込み敷地の四方に仕掛けておいた結界をはずしにかかった。そう、無敵の轟天は、この狭い結界の中でしか動けず、結界を少しでも損なうと力を失うのだった。

「結界が見えないように、置き石を動かしたのがばれるとは…。あぶなかった。」

門を爆破したのも、初めてここにやってきたように見せる芝居だった。下弦の月がだんだん高くなり、夜は更けていった。


「いやあ、気がついたときは星照院様のところの診療所で、治療をされててね。いててて、いったい何をしていたのか、体中が痛いよ。」

「ハハハ、大変だったが、ま、若いから三人とも直りは早いじゃろう。お大事にな。」

 寝ずに治療にあたっていた雄山が明るく言った。診療所にかけつけたおさきは、兄の手をとって泣いて喜んだ。彼らは、何も覚えていなかった。もぬけのからとなった行賢寺で、気を失っているところを発見されたことになっていた。


「本当に、良かったわね。でも、未月さんに人探しの才能があったとはねえ。戦乱でそういう人がいっぱいいるのよ。そういえば、この間、山の中の村人全員が神隠しにあったって聞いたわ。今度頼もうかしら。」

「いいえ、たまたまうまくいっただけで、宗助さん、なんとか言って下さいよ。」

「本当に見事でございました。、」

 宗助はそう言って、深く頭を下げた。未月は何も言えなくなって、恐縮していた。

 が、この一件が次の事件のきっかけになるとは、誰も予想していなかった。

「さあさあ、今日の炊き出しの雑炊は栗のたっぷり入った特別製よ。」

 そういって星照院は、笑った。あの時もらった蝋燭が、仏壇に灯り、西妙寺に来た民たちをやさしく照らしていた。

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