第四部  鱗怒羅(りんどら)

 戦乱の世にあって、自ら独立を守り、反映を続ける街があった。平戸や博多と並び、海運業や貿易で栄えた港町、堺である。波止場には南蛮船や大きな船がひっきりなしに出入りし、浜通りには、たくさんの商店が軒を並べ、人通りが絶えなかった。

 その商店の一角にカザルス神父の教会がある。午前中は近所の信者がささやかな祈りを捧げたり、ミサを行ったりしているが、午後になると扉を閉ざし、信者はぱったりと姿を消す。ただし、 その裏側では何かを忙しそうに始めるのである。怪しい来客がこっそり訪れたり、大量の荷物が運び込まれることもある。いったい何が行われているのか、今日も一人の人影が、あたりを気にしながらそっと門を叩いた。


「失礼つかまつる。、坂本天外でござる。」

 カザルス神父は両手を上げて、天外を迎え入れた。

「明智天輪の命を受け、京都より参りました。」

「おお、天外殿、お久しぶりです。」

「京のときは本当にお世話になりました…。」

「お元気そうですね。肉食を禁じる日本式の食事には慣れましたか。」

「はは、穀物や野菜ばかりの食事には慣れましたよ。最近、信者の女性からおいしいこの国の料理をいろいろおそわりましてね。はは、この国の女性は解放的でとっても積極的で助かりますね。」

しばらくは懐かしい話に花が咲いたが、そのうちカザルスが切り出した。

「それで、京の様子はどうなのですか。」

「はい、ご存知の通り、わが一族の光秀の、朝廷や将軍への裏工作が成功しました。織田信長は、足利義昭を将軍につかせ、大義名分を持って上洛を果たしました。信長は六角氏や三好三兄弟を力ずくで倒し、六万の大群で京都に押しかけたので、朝廷も庶民も略奪や新たな戦火を恐れ、戦々恐々としていました。しかし、将軍義昭に気を遣う信長は、警備を強化し、粗野な行いを禁じたので、大きな騒ぎは一切起こりませんでした。一時はどうなることかと思われましたが、。京の町も、やっと元通りの落ち着きを取り戻したところです。」

「それはよかった。私も、近々また行くことになっていてね。安心しました。」

「ところで、例の件はどうなっているでしょうか。」

「ええっと、ではまず、火薬の原料の硝石のことからいきますか。ちょっとお待ちください。」

 隣の部屋からセゴビアという名の若い男が呼び出された。

「彼がセゴビア・バンデラス、われわれの教団のメンバーですが、日本に持ち込まれる硝石の権利のほとんどを握っています。」

「最近、大量に買い付けた大名ですか? 尾張の織田信長ですね。甲斐の武田信玄や越後の上杉謙信もかなり買い付けていますが、信長が断然多いですね。この国にはまだ統一の貨幣がなく、各大名が勝手に通貨を造っているのですが、やはり強い武将は良質の金貨・銀貨をたくさん持っていますよ。彼の軍隊が強いのも、うなづけますね。」

「なるほどやはり信長か。ふむ、そのほかに怪しい動きはありますか。」

「あと、最近ですとこの堺の豪商桔梗屋が、硝石をはじめ、南蛮経由の染料などを買い集めています。目的がよくわからないのが不気味ですね。」

「ふむ桔梗屋ねえ。、では、それは私の方で探っておきましょう。さらに知りたいのは…。」

 話は深夜にまで及んだ。


 夜の海が黒い怪物のようにうねっていた。人影の耐えた断崖の上に邪悪な影が一つ、また一つと集まってきた。

「おお、鋼猿か。早かったな。さすが、魔界きっての忍、近付くまでまったく気配に気づかなんだ。」

「銀狼様こそ、お早いお着きで。」

 銀色に輝く魔界武将のところに、全身を鋼でおおった大猿の魔物が近づいてきた。

「あのえらそうな黒武者が、鬼流門にやられたってほんとうですか。」

「ああ、まちがいない。彩姫の双子の妹の紅姫も、鬼流門の手にかかったという…。」

断崖を渡る海風が悲しい歌を歌う。空と海は、深い闇の中に溶け込んでいる。

「俺はまだ信じちゃいない。鬼流門は俺が倒す。」

 闇の中から現れたのは、黒武者の最後の生き残り、魔剣をつかう武の黒武者だった。ひび割れた鎧、折れたカブト、執念の鬼となって、さらに凄みを増している。

「おう、黒武者も来たか。ぜひ、鬼流門のことを聞かせてもらおうぞ。」

 その時、ガラガラと音がして遠くの黒雲の中から、空中を滑るように走って妖しい牛車が近づいてきた。中から鬼をお供に連れた美しい姫が降りてきた。だが、皆を見ても不機嫌そうに挨拶のひとつもしない。

「彩姫は、今日も気分がすぐれないようだ。」

「あとは、今日俺たちを呼び出した幽鬼丸だけだな。おーいどこだ、幽鬼丸!」

 銀狼が大きく叫ぶと、海鳴りのこだまする岩場の中に、淡い光がともった。光は大きくなり、やがて人の形になり、皆の前に痩せた男が現れた。

「へへ、懐かしい顔がそろったねえ。鋼猿なんか何十年ぶりだ。」

 幽鬼丸が、親しげに近づくと黒武者が遮った。

「挨拶はいい。今日はどんな用件で俺たちを呼び出した。」

「魔界の占い師、蝉空(せんくう)が来て俺に告げた。、近いうちに鬼流門と戦うことになるだろう、気をつけろとな。へへ、俺、ついに鬼流門と勝負に出ることにした。そこで皆に力と知恵を貸してもらおうというわけさ。」

「言ったろう、やつをやるのは俺だ。何でお前に力を貸さねばならぬのだ。」

 黒武者がいきり立つ。それを銀色の魔界武将がなだめる。

「まあ、待て黒武者よ。魔神はあまりに強すぎる。それはおぬしも身をもってわかったはずだ。ばらばらになっていたらいくら冥道衆といえども勝ち目はない。」

「うぐ。」

 仕方なく、黒武者は、血判のことや鬼流門の娘のこと、そして自分の戦った百獣王のことなどを語りだした。

「百獣王の弱点は水だった。わかっていれば城に近づく前に堀に沈めてやったものを…。」

 黒武者がそこまで話すと、今まで黙っていた彩姫が突然話し出した。

「魔神の月影は、わらわの調べたところでは、月の出ている間しか動けないそうじゃ。わかっていれば、闇夜の術で息を止めてやったものを。」

 さらにいろいろな情報が、思わぬものの口から出るわ、出るわ…。

「ハハハ、やはりどの魔神にも調べれば弱点はある。どうじゃ、幽鬼丸、勝負に出るか。」

 やせた男は、かすかに笑うと崖の上に立った。

「ふふふ、ありがとよ。今の話を聞いて、自信が沸いてきたぜ。俺の狙いはどうやら間違っちゃいねえようだ。おれのやり方を聞いてくれ。来い、魔界の水軍よ!」

幽鬼丸が、暗い海に向かって手を振ると、砕ける波の間から巨大な何かが浮かび上がってきた。

「うぉう、こ、これは?」

 それは真っ黒な船体を持つ、幽霊船だった。

「ほほう、これは面白い。それでは私と鋼猿からは、これを贈ることにしよう。」

 銀狼が差し出した手のひらの中でうごめくものがいた。それは黒い甲羅の不吉なカニだった。


 坂本天外は、次の朝こっそり桔梗屋を訪れて驚いた。この堺の大店の中でも指折りの桔梗屋に、見たような顔が何人もいるではないか。

「あれは、確か星照院、まさか、あの娘は鬼流門の…。」

 それは、京都にいるはずのいつものメンバー、だが、今日は皆で桔梗屋の店を手伝い、荷物の積み下ろしや、客の接待まで行っている。

 あの陽気な久太郎などは、番頭として、きびきび動き回っているではないか。

「失礼つかまつる。もしやあなたは鬼流門の…」

 天外が、こっそり未月に近付き話しかけた。だが、未月は口に指を当てて言葉を遮った。

「シー、裏の話は、どこか別の場所で…。」

「お、こ、これは、失礼つかまつった。人違いでござったか。」

 天外は、言葉をごまかしてその場を離れようとした。だが、そんな天外に声をかける者がいた。 誰でもない、桔梗屋の主人、桔梗屋佐平である。

「おやおや、これは、確か明智様のところの坂本天外殿ではござらんか。どうぞ、どうぞ奥へ。ささ、皆も天外殿をお迎えしないか。」

「いや、いや、拙者は、その…。」

「さあさあ、天外様、こちらへ、こちらへどうぞ。」

こ ろっと顔色を変えて未月が、まさかの美貌の比丘尼星照院が、幼いお市が、天外の袖を引く。気がつけば、天外は桔梗屋の奥の間で、桔梗屋と向き合って座っていた。


 天外は、どうしたものやらと困り顔で座っていた。そこにお茶を運んできたのは、ほかでもない、星照院であった。

「こ、これは京の西妙寺の星照院様とお見受けしますが、なぜ、ここにいらっしゃるのですか。拙者、まことに恐縮でござる。」

「桔梗屋さんがとてもよい方で、私のやりたいように、なんでもやらせてくれますの。くわしい話は桔梗屋さんに聞いてくださいよ。」

 そう言うと星照院は、楽しそうに微笑みながら去っていった。桔梗屋がポツリポツリと話し始めた。

「星照院様は、ご存知かと思いますが、大名の勢力争いに巻き込まれた尊い公家の娘で、幼くして政略結婚に家を出され、わずか数年で夫が戦死し、尼寺に入った方でございます。たいそう教養があり、まだまだとても若く、そして京のそばに、かなり大きな所領をお持ちでございます。」

「はあ、その星照院様が、なぜ堺に?」

「はい。星照院様は、戦乱によって京の町が荒れ果て、人々がたいそう苦しんでいるのをひどく残念に思われて、なんとか昔の賑わいを取り戻せないかと、私の兄に相談したそうです。」

「桔梗屋さんのお兄さん?」

「はい、宗助と申しまして、以前は大名の家老職まで務めた粋人でございます。今は、わけあって星照院で寺男をやっております。私より何倍も仕事のできる男ですが、その兄が京の町を復活させようと星照院様が頑張っておられる、お前も力を貸して欲しいと言いましてね。」

「それでご協力を…。」

「今、日本海では、上杉が特産の布を越後の港から日本国中に出荷して大儲けしています。きっと近い内に上杉は最強の軍隊を持つようになるでしょう。今、いい品物を作ればいくらでも売れるのです。それで、私たちも何年も前から計画し、星照院様の所領で汗水流して育て上げた作物や織物がやっと出荷するところまでこぎつけたのです。それで、みなさん堺まで出向いてくれたわけですよ。これが高く売れれば、農民も職人も潤い、きっと京の町が賑わうきっかけになるでしょう。」

「桔梗屋が南蛮経由の染料などを買い集めているというのは?」

「お耳が早いですなあ、さすが。もちろん、これから出荷する織物のためですよ。」

 裏表のない素直な天外の気質を見抜き、桔梗屋はよくしゃべった。

 話が続くころ、商店の裏では、未月が、お市に小さなお札を渡していた。隣には見慣れぬ若い男がいて、やさしく微笑んでいる。

「まさかとは思っていたけど、坂本天外がくるとはね。やっぱり何が起こるか心配だから、これを持っているのよ。いざというときは、必ず役に立つからね。」

「うん、わかったわ。」

「あと、このお兄ちゃんは私の弟で波流貴っていうの。けっこう強いから、いざという時は助けてもらいなさいね。」

「はい、お市です。よろしくお願いします。」

「おお、いい子だ。あんちゃんにまかしときな。」

 お市は、お札を懐にしまうと、店へと出て行った。未月は向き直って波流貴に話しかけた。

「突然、フラッと現れるから驚いたわ。」

「姉さんが、急に堺に行くというものだから、隠れ里のおばばが、俺につなぎをつけろってさ。何かあったら、俺が連絡を取る。なあに、まかしときなよ。」

「アンタだって、忙しいでしょうに。ありがとう、安心だわ。」

 未月は微笑んだ。


 天外と桔梗屋の、話が盛り上がってきたとき、急に外で半鐘の音がした。

「なんだ、火事か?」

 店の番頭が息せき切って駆け込んできた。

「港に妖しい黒雲が広がったと思ったら、魔物が出たそうです。」

「魔物!」

 突然あたりは騒然となった。


 未月は戸口から外に出て、思わず息を呑んだ。まがまがしい黒い入道雲が生き物のようにみるみる膨れ上がって、港の辺りを包んで行く。その下で邪悪な気配が押し寄せてくる。これは、行かねばなるまい。そこに天外がやってきた。

「お隣にいるのはどなたですか。」

「弟です。鬼流門波流貴です。いまから一緒に行きます。」

「坂本天外と申します。私も同行してよろしいでしょうか。」

「どうぞ、命の保障はできませんが。」

「委細承知。では、行きましょう。」

 三人は、港に向かって、走り出した。


「波流貴さんは、やはり魔神を使うのか。」

「いいえ、鬼流門のもう一つの術の正式伝承者なの。」

「もう一つの術?」

 二人がそこまで話したとき、波流貴が叫んだ。

「いたぞ、化けカニだ。すごい数だ。」

 波止場を埋め尽くすような、真っ黒な化けカニが、軍団で押し寄せていた。一匹一匹が人間ほどの大きさで、巨大なハサミをガシガシ鳴らし、不気味な黒いシャボン玉を撒き散らしながら停泊中の船を襲っている。だが、未月が近づくと、妖しい光がゆらゆらと揺れ、朧な人影がすぐ目の前に現れた。

「お前は、鬼竜門の娘だな。」

「だったらどうした。」

「お前のことはすべて調べた。お前の力は、やがてすべて失われ、私の前にひれ伏すこととなるだろう。」

「なんだと。名を名乗れ。」

「ふふふふふ…。」

 不気味な光は遠ざかっていった。

「神刀朱雀、兜割り!」

 大砲でも跳ね返しそうな黒い甲羅を、天外の神刀が真っ二つにしていく。さしもの化けカニも、予期せぬ強敵に出会い、浮き足立っている。だが、いかんせん数が多すぎる。波流貴は、何の変哲もない長い棒を一本持っていたが、

「魔導暗器蒼竜!」

 と叫ぶと、長い棒が青白く輝き、まるで化けカニの甲羅の弱いところを見通したかのように、一突きで貫いた。化けカニも黒いあぶくを吹きかけ、巨大なハサミで襲い掛かったが、天外の剛が、波流貴の柔が、それを上回った。意外な大苦戦を強いられたのは実に未月であった。

「数が多すぎる。よし、桜花、火炎陣!」

 桜吹雪のように、小さな呪符が宙に舞う。本当ならこの技が決まれば一度に十体以上の敵が燃え上がるはずであった。だが、ほとんどすべての呪符は、黒いシャボン玉にあたって効力を失い、黒く汚れて海に落ち、波に飲まれてしまったのだ。

「うう、あの化けカニ、、波打ち際を離れないで、船ばかりを襲っている。これでは…。」

 そうだった。魔具の狛犬や、牛頭・馬頭は火の特性の魔物なのでここでは呼び出せない。手裏剣や小刀では、まったく歯が立たない。

「護法童子、こまの舞!」

 仕方なく、風の特性を持つ護法童子を呼び出せば、化けカニどもを蹴散らせはするが、厚い甲羅にはばまれて、致命傷を与えることはできない。攻め倦んでいるうちに、巨大なハサミが、左右から同時に襲い掛かる。

「危ない、姉貴。」

 近くにいた波流貴が、輝く棒で二匹のカニを、吹き飛ばした。

「あぶなかった、やられるところだった。」

 ぐっと唇をかみ締める未月の耳に、またあの不気味な声が響いてくる。

「…ハハハ、どうじゃ、わしの言う通りになってきただろう。お前は無力だ。お前にわしを倒すことはできぬ。」

「うぬ。」

 だが、波流貴が、突然長い棒をふりまわしながら飛び出した。

「姉貴、俺が旋風人で突っ込む、もう一度桜花、火炎の陣だ。」

「承知。」

 波流貴の長い棒が巻き起こすすさまじい風が周囲の黒いシャボン玉を一瞬にして叩き割った。

「いまだ。」

「桜花、火炎の陣。」

 呪符が、再び鮮やかに宙に待った。

「おお!」

 シャボンの壁を取り払われ、油断した十数匹の化けカニが一瞬で炎に包まれ、苦しみながら波間へと逃げ出したのだ。

「逃げ出したのは、そっちのほうではないか。」

 未月が波間に向かってささやくと、あの声が妙なことを口走る。

「しょせん、化けカニはおとりに過ぎない。おまえの力を奪い去るためのおとりさ…。」

「なんだと…。」

 生き残りの、化けカニたちも、いっせいに海へと引き上げだした。未月は、いやな予感がして、足早に桔梗屋へと帰路を急いだ。


「よかった。私の取り越し苦労みたいね。」

 桔梗屋では何事もなかったように皆が心配顔で待っていた。

「いやあすごかったぞ。わしは、偶然、港の辺りを歩いていたんじゃが…。天外殿が、化けカニをちぎってはなげ、ちぎっては投げ…。」

 いつの間に現れたのか、雄山が見てきたような大げさな話をして、場を盛り上げた。

「へえ、天外さんってそんなにお強いの。見たかったわ。」

 星照院が、まっすぐに天外を見ながらやってきた。

「いえ、その、拙者は…。」

 恐縮して下を向く天外に、久太郎がちゃちゃを入れる。

「あれえ、天外さん、もしや星照院様のことを…。あやしいなあ。」


「そういえば、お市はどうしたのかしら。」

「あら、裏庭でお花を摘んでいたわよ。私も行くわ。」

 星照院が笑いながら先にたって、歩き出した。。

「お市!」

 未月が呼びながら、裏庭に歩いて行くと、とことことお市が出てきた。

「お姉ちゃん、見て、見て!ほらきれいなお花が咲いていたの。」

 その手には、ささやかな野の花があった。が、次の瞬間だった。お市の足元で、朧な光が瞬いたように見えた。

「お市、さがって、さがるのよ。」

「え…何か…。」

 遅かった。朧な光は立ち上がり、不気味な幽鬼丸となり、お市を抱きかかえると、そのまま、奈落の底に落ちるように、影の中に消えていく。

「きゃー、お姉ちゃあーん。」

 星照院が、あわてて駆けつけたが幽鬼丸に睨まれると、その場に倒れた。幼い顔が恐怖にゆがみ、闇の中に飲み込まれて行く。

「ハーハッハハハ、おまえの弱点、また一つもらった。」

「お市、おいち―。」

 わざとなのだ。わざと未月の見ている前で、さらったのだ。未月は、目の前が真っ暗になったようで、その場に倒れこんだのだった。あとには、ささやかな野の花が散っていた。


 それからしばらくして、天外を探して、カザルス神父が、桔梗屋を訪れた。

「なんですって、海賊船? 積荷が危ないですって。」

「とにかく、すぐに来てくださいよ。」

 天外は、別れの言葉もそこそこに、急いでどこかへ出かけていった。波流貴も知らぬ間に姿を消していた。未月は、誰とも話そうとはせず、一人黙り込んでいた。そして、皆が寝静まった頃、一人で起き上がって部屋を出て行こうとした。

「待ちなさい。未月。こんな夜中にどこへ行くんだい。」

 見れば、雄山が起きて戸口に立っている。星照院や、宗助たちもそこにいた。

「私がいると皆に迷惑がかかるから。お願いです、行かせてください。」

「誰も君の事を迷惑なんて思ってはいないよ。」

「でも、お市は、お市は魔物にさらわれてしまったんです。」

 すると、星照院が進み出た。

「私だって、魔物に狙われたことは一度や二度じゃないのよ。あなたのせいだけじゃないわ。」

「でも…、私はあなた方とは、住む世界が違うんです。ご迷惑をかけました。」

 未月がそういって歩き出そうとすると、雄山が、真剣な顔で話し出した。

「いいかい、未月。ここにいる連中は皆人に言えない過去やつらい運命を背負って生きている。皆それぞれに違うが、皆同じだ、わしだって、星照院様だって、人に言えない重いものを背負っているが、ここにいれば、誰もそれを気にしたり、迷惑がったりはしない。そこがいいところじゃないか。」

「雄山先生…。」

 すると、そこまで黙っていた宗助が口を開いた。

「あなたの作戦を見抜き、あなたの見ている前で人質をとり、さらにあなたを仲間と反目させ、孤立化、無力化するのが、やつらの兵法ですぞ。このままでは、やつらの思う壺ですぞ。」

「兵法…。でも、皆、死ぬかもしれない…。」

 すると星照院が、静かに話し出した。

「わたしの夫もね、最初の戦で華々しい武勲を挙げてね、そりゃあ強くて勢いがあったわ。でも、二度目の戦に行ったきり、二度と帰ってこなかった。生きて帰ると固い約束をしたのに。私の周りは、こんな話ばかりよ。人間の生き死になんて誰にも決められない。だからせめて…」

 雄山が続けた。

「せめて、助け合おう。こんな戦乱の世の中だからこそ、みんなで力を合わせなければ…。なあ、みんなで生き抜いて行こう。一緒に…。」

 未月の目から暖かいものがあふれ出た。星照院が、肩をやさしく抱き締めてくれた。皆再び、眠りについた。


 その頃、夜明け前の海では、大騒ぎになっていた。

 これから堺に積荷を運ぶ船の前に、不気味な渦が現れたのだ。

「船が引き込まれるぞ。気をつけろ、舵をしっかりとるんだ。」

 船は、だんだんと渦の中心へと巻き込まれて行く。戦場は右往左往の大混乱となった。そして、そのうち一人の船員が、ありえないものを見つけ、腰を抜かして叫ぶのだ。

「皆、渦を、渦の中心を見ろおおお!」

「なんだあれは。幽霊船か。」

 最近、この海域に黒い海賊船が現れるという噂があった。近づくと、海草のからみついた白骨がおいでおいでするというのだ。これが、その噂の幽霊船か!大きな渦のその中、改定の深い闇の中から、黒い船体が浮かび上がる。

「魔物だ、魔物がいるぞ。」

 見れば、濡れた黒い船体に、化けカニやら、白骨の海賊やら、白く光る亡霊のようなものがひしめいている。

「逃げろ!どんな手を使ってもここを離れるんだ。」

 だが、その時、不気味な呪文とともに、船のへりを何かが次々と登ってくる。

「な、何者だ!」

 数え切れない白い濡れた手が、呪文に合わせ、ひしゃくや桶を次々と振り回す.それだけで波が生き物のように押し寄せ、船の中にどんどん海水が流れ込む。

「うわあ、船幽霊だあ。」

 もう、どうにもならない、船が大きく傾きだした。やがて黒い船体の下から、吸盤の付いた長い触手が何本も伸びて、あわれな船を引き込み、悲鳴の渦巻く夜の海の中に、すべてを飲み込んで行くのであった。


 船上では黒武者が、波間に漂う船の残骸をみていた。やがて、朧な光が揺れて、幽鬼丸が隣に姿を現す。

「ハハハ、笑いがとまらねえ、今の船の積荷はたいしたお宝だったぜ。」

「海賊まがいのことをやって、そんなにおもしろいか。」

 黒武者が冷ややかに答えると、幽鬼丸も負けてはいない。

「お前だって、城の殿様を狙ったじゃねえか。銀狼と鋼猿なんか、織田信長に取り憑いたって話だ。城をとればその国は思いのままだ。この幽鬼丸様は考えた、同じことをやっていたらつまらない。ここ堺は今、このすべての国とつながって、武器や物資をやりくりしている。それなら、ここを抑えちまえば、全部の国を思い道理にできるってことさ。」。

「なるほど、でも、そううまくいくかな。」

 黒武者が、横目でにらむと、幽鬼丸は、帆柱を指差して言った。

「鬼流門の娘だろう、やつはもうガタガタさ。昨日は運よく男が二人加勢にきていたから、討ち漏らしちまったが、見ただろう、海の中では魔物も魔神も使えずに、うろうろしていたじゃねえか。だが、男は二人ともどこかへ消えたらしいし、いざという時のために人質もとってあるしな。それに、例のしかけもばっちり仕込んであるからな。」

 帆柱には、お市が、ぐったりとしたまま、縛り付けられていた。

「例のしかけだと? 抜け目のないことだ。」

 黒武者は、遠い海原をみつめていた。うっすらと、雲が紫に染まり、世が明けてきたのだった。


 夜明けとともに、堺の町は、動き出した。今日も朝から、港で何か事件があったらしい。昼近くに桔梗屋が会合から帰ってきて皆を集めた。

「なぞの幽霊船が、この港の入り口に停泊し、堺への船の出入りが止まっている。このままでは堺の商人は皆破産だ。」

「そんな船、どてっぱらに穴開けて沈めちまえばいいんですよ。」

 染物職人の久太郎が顔を真っ赤にしてまくしたてた。

「なんなら、俺たちで突っ込みましょうか。」

 血気盛んな、猿楽師の正が叫んだ。桔梗屋が静かに続けた。

「カザルス神父が、天外殿を船に乗せて討伐に向かったそうだが、敵は渦潮を自由に操り、近づくことさえままならぬという。」

 雄山が、険しい顔で質問した。

「…それで、彼らの要求は何なのだ?」

「それが…。」

 桔梗屋が、言いにくそうに顔をゆがめた。

「ただ一つ、桔梗屋にいる未月という娘を差し出せ…ということだ。」

 皆が、憤然とした。

「そんなとこに未月を渡せだあ?」

「引き渡すなんてできない。とんでもない。」

「未月はおれたちの仲間だ。」

 雄山が、皆の意見をまとめた。

「やつらの要求が、それだけで終わるはずがない。やつらは、邪魔者を消してから、きっとこの豊かな港町をしゃぶりつくすぞ。やつらのいうことを聞いちゃいけない。」

 それを聞いて、未月は、皆の方を振り返った。

「皆、ありがとう。でも私を行かせてください。考えがあるのです。」

「考えがあるとは?」

「それは言えません。ただ一時だけ、あと一時だけ待ってください。それと、しばらく港への船の出入りを一切禁止にして、積荷もすべて引き上げてください。逆転のしかけがあるんです。」

「わかりました、船と積荷のことはこの桔梗屋におまかせください。」

 なぜか、自信たっぷりの未月の言葉に誰も逆らえなかった。

「あれ、そういえば、いつも真っ先に来ているはずの星照院様はどうしたのかな。」

 絵師の大門が首を捻った。星照院は、遅れて皆のところにやってきた。顔色が冴えない。

「どうしたのですか。」

 皆が尋ねると、

「昨日転んだところが、痣になってしまったの…。」

 星照院は苦笑いしながら皆に手の甲を見せた。青黒いアザが浮き出ていた。


 それから、一時が過ぎた。とくに何も起こらず時間だけが過ぎたように思えた。逆転のしかけはどうなっているのだろう。皆心の中でそう思っていても、言い出せなかった。

「時間だわ。皆、悪いけど心細いから、一緒に港まで来てくれるかしら。」

 皆黙って、未月の後についていった。港はまるで嵐の前のように、船も積荷もすっかり引き上げられ、人影もなかった。波止場に着くと、邪悪な黒雲とともに濡れた不気味な船体が、ゆっくりと近付いてきた。幽霊船だ。近付くに従って空は暗くなり、海風は悲鳴を上げ、波があちこちで渦巻きだす。

「よくぞ来た、鬼流門の娘よ。それでは、これから小船を出す。すべての武器や呪符を持たずに、一人で小船に乗り込むのだ。」

「そんなに私が怖いのか。」

「お前さんが、どんな厄介なことをしだすかわからないのでな。」

やがて小船が出され、黒武者がこちらの波止場にやってきた。幽鬼丸は、帆柱のお市を幽霊船の舳先までつれてくると、刃物を突き付けた。

「妙なまねをしたら、この子どもの命はないぞ。」

 黒武者は、未月の袖に隠してあった小さな呪符をさっと見つけ、破り捨てた。

「これで、魔神を呼び出すことは、完全に不可能だ。」

 小船はゆっくり波止場を離れ、すべては敵の術中にはまったかのようであった。その時だった。波止場に集まった人だかりの中から呼ぶ声がした。

「姉貴、ちょうど時間だ。約束のものを持ってきた。」

 それは、ほおかむりをしていて誰も気づかなかったが、いなくなっていた波流貴に間違いなかった。波流貴は人知れず魔神のつづらを取りに行き、人だかりにまぎれて、波止場まで運んだのだ。すべては作戦通りだった。波流貴は、背負っていたつづらを下ろすと、未月に手を振った。

「くそ、やはりあんな手を! だが、血判がなければ呼び出せぬだろうに?」

 皆の視線が波流貴に移った瞬間、未月は一言叫んで小船から海に飛び込んだ。

「護法童子、ねずみ花火!」

 すると空中を子供の笑い声が響き渡り、小さな火花が幽鬼丸の下に飛んでいった。

「あちちちちち、なんだこれは。」

「今よ、お市、お姉ちゃんのところに、海の中に飛び込むのよ。」

 波間から顔を出した未月が叫ぶ。どんなに怖かったろう、心細かったろう、でも歯をくいしばって、小さなお市は、暗い海の中へと飛び込んだ。

「くく、さすがだな。だが、そこまでだ。」

 幽鬼丸は、なぜか自信に満ちて少しもあわてなかった。そして波間を漂う未月とお市に向かって最後の言葉を投げかけた。

「こんなこともあろうかと、おまえの仲間に呪印をうっておいたのだよ。さあ、わが僕よ、その魔神を始末するのだ。」

 その瞬間、星照院の痣の浮き出た手が勝手に動き出し、つづらを、海に突き落とした。同時に、波止場のすぐ下から、二匹の化けカニが浮かび上がり、つづらを運び去った。そしてつづらが近づくと、幽霊船の下から、長い怪物の触手が伸び、あっという間に引き寄せ、ぐるぐる巻きにすると、つづらはばらばらになり、海の藻屑と消えたのだった。

「さあ、お前たち、あの娘たちを生け捕りにするのだ。」

 幽鬼丸の言葉に、未月たちを追いかけ、化けカニなど海の魔物がぞくぞくと、波間に押し寄せた。星照院は、自分のしてしまったとりかえしのつかないことにただ驚き、両手を見つめて、ひざをついた。


「しまった。やつらの方が一枚上手だったか。」

 物陰から成り行きを見守っていた天外が、飛び出してきた。

「機を失ったか。いいや、まだだ!」

 だが、波止場へ走る天外の前に立ちふさがったのは、黒武者だった。

「邪魔はさせぬ。」

 天外が大刀を構えると、黒武者が答えた。

「ほう、あの化けカニの厚い甲羅を一撃で真っ二つにしたあの刀か。ならば、わしも、とっておきの魔剣でお相手いたそう。」

 黒武者がそういって、呪文を唱えながら、大刀を抜くと、刀は邪悪な気を発しながら、巨大化した。

「暗黒嵐皇剣!」

 巨大な剣が、一振り、二振りするだけで、ものすごい風と、衝撃波が走る。それを、見事に受け切る神刀、朱雀。とんでもない戦いになってきた。


 その頃、暗い波間を泳いで逃げていたお市と未月のそばに、大きな魚のような影がゆらりと近づいてきた。ついに魔物たちが追いついてきたか。息が止まるほど驚くお市。だが未月は言った。

「今よ、お市、あの時渡したお守りを、あの黒い影に投げるのよ。」

 お市は肌身離さず持っていた小さなお守りをはずして、その不気味な影に投げつけた。その途端であった。

「な、なんだ、いったい何が、起きたのだ。」

 幽霊船の上野、幽鬼丸が叫んだ。

「つづらを海に落としてもらって、手間が一つ省けたわ。行くわよ、お市。」

 突然、未月とお市の体がぐぐっと持ち上がり、波間を高速で進み始めたのだ、波止場に向かって!

「ほら、星照院様がなさったことは、とても良いことだったのですよ。魔神を呼び出すには、血判のほか魔神が宿る神像が必要になります。あのつづらに入っていたのは、海賊をやっつけるための水の魔神の神像だったのです。水の中に入って初めて動き出すのです」

 波流貴の言葉に、星照院の顔にやっと生気が戻ってきた。

「本当なの、もう取り返しがつかないかと…。」

「ほら、姉貴たちをのせて、こっちへやってきますよ。水の魔神、鱗怒羅(りんどら)です。」

 それは、竜の鱗を持つ、大きな魚だった。未月はお市を抱きかかえたまま、波止場に飛び上がると、大急ぎで、皆を走らせた。

「ほら、皆、天外さんも、海から離れて、とにかく海からはなれるのよ。急いで!」

 未月の言葉に、天外はとっさに小刀を投げた。

「爆雷結界刀!」

 黒武者の足元に小刀が刺さる。稲妻が走り、爆発を起こした。黒武者は、目を押さえて後ろにとびのいた。

「おのれ、こざかしい真似を。」

 波止場の皆も天外もあわてて未月に従って走り出した。わけもわからず、無我夢中で…。果たして、海はとんでもないことになっていた。


「グォ、な、なんだ、これは! うおおおおおおおおおお。」

 突然巻き起こる大波に、黒武者が飲み込まれて行く。

 いったい、何が起きているのか? どよめきが起こった。鱗怒羅が光りながら波間に跳ね上がっている。二度、三度、鱗怒羅が、大きく跳ね上がるたびに巨大化し、奇怪な姿になっていく。その度に、大きな波がうねり、波止場に押し寄せ、幽霊船が大きく傾く。やがて波だけではなく、暴風が吹き荒れ、雷までがとどろき始め、大粒の雨まで降り始めた。

「深淵なる海王の魂よ。人々の怒りに、悲しみに、血と涙に答えよ。行け、魔神、鱗怒羅!」

 未月が嵐の中、振り返って叫んだ。一番の大波に、幽霊船は水浸しになる。その瞬間、鱗怒羅は大きく跳ねて、幽霊船に体当たりしていった。

「そうはさせるか、行け、化けカニたちよ」

波 間から漆黒の化けカニの軍団が浮かび上がる。ガシガシと奇怪な音を立てながら押し寄せていく。だが、鱗怒羅は大きく頭を振り上げ、のこぎりのような巨大な角を叩き付けた。

「ガボッ。」

 下から、上から二度三度と叩き付ける。分厚い甲羅が砕け、ハサミや足が飛び散る。化けカニたちは、魔神の強さの前にあっというまに波しぶきとなって砕け散っていった。

「ええい、船に近づけるな!」

 幽鬼丸の言葉に、続々と海になだれ込んで行ったのは、船幽霊たちだった。数え切れない白い手が波間から伸び、不気味な呪文とともに海のそこに引き込もうとする。跳ね飛ばしても、振り切っても、どんどん船幽霊たちは、数を増し、鱗怒羅にまとわりつき引きずり込む。鱗怒羅は、向きをめちゃくちゃに変え、大波を立てながら、一度大きく沈み、一度大きく飛び跳ねた。だが、ものすごい数の船幽霊が食らいついている。そして重苦しい呪文を口々に唱え、魔神の力を奪っていく。

「鱗怒羅、神竜鱗よ。」

 未月が叫んだ。すると魔神は輝きながら、体中の竜の鱗を逆立てて体を震わせたのだった。

「ギャアー!」

 重苦しい呪文が悲鳴に変わった。船幽霊たちは、波しぶきのように砕け散り、長く尾を引く悲鳴とともに海の底に沈んでいったのだった。

「ウオオオオーン。」

 鱗怒羅は大きく方向を変え、再び幽霊船の方へと波を切った。

「おのれー、こうなったら最後の手段だ。」

 走り出す幽鬼丸、だが、魔神の襲来とともに吹き荒ぶ嵐の中、大波が押し寄せる。ザザー、ドッパーン。ノコギリエイのような、ギザギザの角が、船体を突き破った。海が大きく逆巻く、船は、真っ二つになって、渦の中に沈み始めた。だが、その時、船底から、巨大な化けイカが本体を現したのだ。

 大きく口を開け、牙を剥いて飛びかかる巨大魚、鱗怒羅、だが化けイカはそんな魔神の顔面に、毒の墨をふきかけた。ザッバーン、大きく波がうねる。苦しがり、暴れる鱗怒羅。化けイカはそこへ、長い触手を伸ばした。巨大な吸盤が魔神の体を捉える。さらにもう一本の触手が伸び、ぐるぐる巻きにして、締め上げる。そこで、化けイカは魔神の巨体を引き寄せにかかる。起きて、暴れまくる魔神。稲光の中に浮かび上がる。そこで化けイカは上体を起こし、逆に襲い掛かってきたのだった。たくさんのうごめく触手の真ん中に巨大な黒い嘴が開き、ガチガチと不気味な音を立てる。だが、鱗怒羅は危ないと見るや、体中の竜の鱗を逆立て、水の中でぐるぐると回り始めた。

「ぐぉおおおおおおん。」

 触手はちぎれ、化けイカはのけぞり、大波を立てて、海の底へと潜り始めた。そこをすかさず追いかけ、しぶきを上げる鱗怒羅。海面は、大渦をつくり、船の残骸を飲み込んでいった。


 港から少し離れた荒磯に黒い影が揺れ、黒武者が姿を現した。近くの岩に拳をたたきつけ、悔しがった。

「くう、ふ、不覚。」

 その近くで朧な光が揺れ、幽鬼丸が姿を現した。

「おう、黒武者、よく生きておったのう。」

「おぬしこそ、よくもまあ、抜け出してきたものだ。」

 幽鬼丸は頭を抱えた。

「まさか、海賊船と化けイカがああも簡単にやられるとは思わなんだ。あれを手に入れるにはかなり苦労したんだぜ。まあ、いい、まだやられたわけじゃない、次の手は打ってあるしな。」

「次の手だと?」

「ああ、今度はちょいと山の方だ。一緒に来るかい。」

「いや、俺は今度こそ、一人でやつをやってやる。」

「そうかい、それじゃあ、また気が向いたらなあ。」

 朧な光は遠ざかっていった。黒武者は、拳を握り締め、波しぶきの荒磯を後にした。やがて、小さくなってきた渦の中に、鱗怒羅の巨影が浮かび上がった。鱗怒羅は、光りながら小さくなり、やがて元の神体にもどると、静かに波止場に泳ぎ着いた。


 すべてが終わり、黒雲は去り、いつもの穏やかな波が帰ってきた。波止場には、日本全国から、南蛮から、次々と船が着き、多くの積荷が動き出した。カザルス神父も、波止場と教会の間を、汗を拭き吹き、駆け回っていた。星照院の痣もいつの間にか消え、皆積荷運びに一所懸命だった。先頭に立って働いた染物屋の久太郎が誇らしげに言った。

「星照院様、私たちの織物や作物が、いよいよ海に出ますね。」

 皆で汗を流してみる海原は最高だった。

「これで困っている京の農民や職人も、少しだけ楽になるのね。うまくいくといいわ。」

 皆の笑顔に囲まれて、今、一艘の船が出港していった。沖にもう黒雲はなく、穏やかに晴れ渡っていた。

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