第三部 百獣王
桜の盛りであった。京都を囲む有力な大名の一人、六角定家は、夕暮れに花見としゃれこんでいた。今宵は、病弱な正室のおさよも、美貌の側室のよしのも、皆一緒に花を愛でていた。だが、満月が杯に移ったとき、どこからか声がした。
「あなたは京のすぐそばに領地をお持ちだ。これがどんな意味かわかりますか。」
「誰じゃ?」
「京に近いということは、天下に一番近いのですよ。足利将軍は今やもう名ばかりだ。男と生まれたからには目指すのです。天下を。」
「天下を? わしに天下が取れると申すか。」
「はい、もちろんとれますとも。さあ、その杯に移った満月を飲み干すのです。」
「満月?」
定家の杯には、大きな赤い満月が映り、そこに桜の花びらがいくつも散っていた。定家はそれを一気に飲み干した。
「うっ!」
いままで、近くで楽しそうにしていた正室のおさよや、側室のよしのが異変に気づいた。
「殿、どうなさいました? 何かありましたか。」
その時、宵闇の向こうから、不気味な影が近づいていた。
源太がどうしても行くと言い出すと、病弱な母も、幼い妹も、強く止めることはできなかった。源太の父親は、突然城のお殿様に連れて行かれたっきり、もう十日も帰って来ないのだ。思えば今年になってから、突然年貢が上げられ、理不尽なほどの強制的な労働などが課せられ、暮らしは苦しくなるばかりだった。
「この上、父ちゃんが帰って来なかったら、一家全員飢え死にだ。おら、父ちゃんを探しに行ってくる。」
源太は、ものものしい見張りの武士たちの目をかいくぐり、お止め山に、決死の覚悟で乗り込んだ。だが、もう少しで山を越せるというところで、見張りに見つかった。
「この百姓のくそがきが。ここはお前なんかの来るところじゃない。」
土砂降りの雨の中、逃げる途中でぬかるみに足を取られて、見つかった武士に追いつかれ、ボロボロになるまで殴られた。そして、ゴミのように崖から突き落とされ、捨てられた。でも、源太の目は死んでいなかった。
源太はゆっくり立ち上がると、今度はしばらく作戦を考え、物資を運び入れる大八車に目をつけた。源太は、見張りの隙をつき、自分の体を盗んだわらで包んで大八車の中に滑り込んだ。
そして、そのままピクリとも動かず、山の奥へと進んで行った。まわりが静かになったので、そうっと大八車から降り、あたりを伺った。
「な、なんだ、ありゃあ。」
そこで源太が見たものは、建築中の山城だった。だが、なぜかまがまがしく邪悪な黒雲におおわれていた。どこから連れてこられたのか、数百人の農民たちが城の周りの堀を掘って汗を流していた。みんな疲れきり、弱弱しくうめき声を上げながら、重労働に追い立てられていた。
「ひ、ひどい。父ちゃん…。」
皆、希望を失い、死んだような目をしている。
『殿のおなーりー。』
掛け声がかかると、全身黒で固めた不気味な黒武者に囲まれ、領主の六角定家が現れた。その目は血走り、蒼白い顔色はこの世のものとも思われなかった。
「ひいいいいい。」
黒武者と領主の列が近付くと、一人の農民が狂ったように悲鳴を上げ、その場を逃げ出した。まわりの農民が驚いて止めようとしたが間に合わず、男は転がるように崖を下り、駆け出していた。だが、見張りの武士たちも、誰もそれを追いかけようとしなかった。
『戻れー、戻るんだ、太助!』
一人の農民が絶叫したが遅かった。黒武者の一人がなにか呪文を唱えながら、右手を振り下ろした。次の瞬間、男は喉から血を噴出し、ゴミのように地面に転がり、そのまま動かなくなった。農民たちは一言もしゃべらず、また仕事を始めた。源太は、恐怖に言葉を失った。やがて、日が暮れると、農民たちは城の横の粗末な小屋に押し込まれた。
源太は父親を探し、小屋に近付いて行った。そして源太はついに父親を見つけた。父親の平助は仲間の農民とともに小屋の隅に死体のように横たわっていた。
「父ちゃん、父ちゃん。」
源太が窓の外から小声で呼ぶと、平助がゆっくり近付いてきた。最初は何だと思ったようだが、それが本当に自分の息子だと分かると息が止まるほどに驚き、次に涙をあふれさせ、そして最後に大きく首を振った。
「父ちゃん、どうしたの、おらが今、戸を開けるから逃げよう。逃げようよ。」
しかし平助は、目をうるませながら大きく首を振るばかりであった。
「なぜだよ、なぜ一緒に来てくれない。」
すると平助は、首を上げ、喉を源太に見せた。なんと平助の喉には不気味な黒い呪印が押されていた。
「これをここに押されたら、もう終わりだ。ここから離れただけで命はない。」
「父ちゃん!」
「おれはもう終わりだ。それより、お前こそ、ここからすぐに離れるんだ。いいな、ここの殿様には魔物がついている。もう…。」
その時、小屋の反対側から光が近付いてきた。黒光りする武者の面が浮かび上がる。松明をもった黒武者が炎の中近付いてくる。
「逃げろ、すぐにここを離れろ。」
「そんな、父ちゃん、一緒に、おらと一緒に逃げようよ。」
黒武者がこっちに気づいたようだった、まっすぐに足音が近付いてくる。
「父ちゃん!」
「何をしている!早く逃げ出せ。奴らは人間じゃないんだ。そうだ、これを頼む。ここにいるわしらの、最後の願いじゃ。」
そう言って、小さなお守り袋を源太に託した。その時の睨みつけるような父親の顔が忘れられない。源太は泣きながらそこを逃げ出した。
その後、父親がどうなったのかわからない。だが源太はどこを道走ったかも分からず、山の中を走り続け、どこまでも、どこまでも逃げて行った。村に戻ってきた時にはもう夜が明けていた。
お守り袋の中を開けると、お守りのほかに、汚れた白い紙がはいっている。広げると何人もの血判が押してあった。
「こ、これは…!」
源太はそのまま家に帰らず、村の閻魔堂に向かった。そして、自分の血を血判の最後に加えると、閻魔堂にそっと差し入れた。
『お止め山の奥のお殿様の新しい城に、魔物が憑きました。魔物を祓ってください、つかまっている父ちゃんを助けてください。』
源太が一心に手を合わせると、どこかで声が聞こえた。
『その願い、確かに聞き届けた。』
やがて源太が帰って行くと、閻魔堂の裏から人影が出てきた。未月である。
「城を落とすか。だが血判がこれだけあれば、強力な魔神が呼び出せる。あとは周りの地図を手に入れさえすれば…。」
未月は誰にも気づかれぬうちに風とともに消えていた。
その頃、天輪と天外が、京の四条河原を歩いていた。今日の天外は大きな荷物を背負い、あたりの様子を伺いながら歩を進めていた。
「天輪様、このあたりも山側から邪気が…。」
「戦乱が街を焼き、重要な建物や宝物が失われるのと同時に、都全体の風水の力が弱まり、霊的防衛力が危機的な状態にあると言わざるを得ない。」
「噂では、冥道衆が七匹の鬼を復活させたと聞きましたが…。」
「まず間違いあるまい。問題は奴らの狙いだ。これから会う、光秀にも十分気をつけるように言わなくては。」
やがて二人は待ち合わせ場所の古い神社へとこっそり消えて行った。中では数名の武士を引き連れた武将が二人を待っていた。
「明智天輪殿、坂本天外殿、お待ち申しておりました。」
知的な鋭さを秘めた、凛々しい武将が頭を下げる。
「ご苦労であった。光秀殿。そして行き先はどこに決まった、甲斐か、尾張か?」
「尾張の織田信長のところに決まりました。明日の朝、発ちます。」
「そうか、やはり考えることは同じか。どうやら冥道衆は野望を持った大名に目をつけたらしい。よし、天外、例のものを。」
「はい、かしこまりました。」
連れの天外が、慎重に荷を解き、中から長大な火縄銃と木箱を取り出した。
「破邪の銃、飛龍と風水茶碗の曙だ。光秀はわが一族でも指折りの銃の名手であったな。きっとそちの行く先々で、邪をはらい、光で導いてくれるであろう。」
「はは、ありがたき幸せ。噂は聞き及んでいましたが、ついに完成しましたか。明智一族の至宝、十二分に使いこなして見せまする。」
光秀は宝物をうやうやしく受け取ると、決意を新たに大きくうなずいた。
これから、魔物たちとの凄まじい戦いが始まる。その前の、ほんの短い静かなひと時だった。
その頃、星照院では思いがけないことになっていた。
「ううむ、これでは片手落ちじゃ、おい、皆、ちょっと集まってくれ。」
「いいえ、そんなに詳しく調べていただかなくても、あの、その…。」
うろうろする未月、その様子を見て、お市がくすくすと笑っていた。
「困ったなあ、こんな大騒ぎになるなんて…。」
実は今回呼び出す魔神は強力なのだが、そのためには周りの地形や掘割などを調べておく必要がある。だが、問題のお止め山は最近立ち入り禁止で潜入調査するのも難しい。そこでいろいろな人が集まる星照院で、あのあたりに詳しい人を知らないかと雄山に尋ねたのだった。
「おう、あのあたりなら、わしも去年ずいぶん歩いた場所だ、よく効く薬草があるところでのう。星照院様も詳しいはずじゃ。修行の滝のそばじゃからのう。ちょっと、星照院様、こっちに来てくれませんか。」
すると、今までそばで聞き耳を立てていた星照院が、そわそわしながらやって来た。
「ああ、そのあたりなら、わらわにまかせて。確か関係の絵地図も所蔵してあったような…。」
いつの間にか、何巻もの巻物を手にしている。噂には聞いていたが、仕事が早い。そこに、寺男の宗助が酒を持って加わり、雄山も、さらに調子がでてきたようだ。
「ふむふむ、領主の六角定家が、新しい城を建てているというのか。たくさんの農民がかわいそうにのう。ちょっと待ってろ、おい、誰か、絵師の大門はいるか。ちと、絵を描いておくれ。そうそう、西側に深い沢があって、この中腹に城を建てるのにちょうどよい草原があって…。」
こんな感じで、一人また一人、話の輪に入り、そのうち、お止め山の周囲のかなり正確な地図がそこに描きあがっていった。そして、途中で宗助がいなくなったと思ったら、いつのまにか金回りのよさそうな子男を連れて帰ってきた。
その男は、堺で商いをしている実の弟で、ちょうど近くに来ていたのだという。そしてこの弟は、驚くようなことをしゃべり始めた。
「その新しい城の設計図を、ちらっとだけですけど見ましたわ。」
なんでも、六角定家に、城の建築材を多量に売った時に目にする機会があったのだと言う。
「城の細かいところまではわかりませぬが、大体の見取り図なら…」
その話を聞いていたお調子者の染物やの久太郎が思い出したようにしゃべりだした。
「ほら、おれたちの職人仲間に確か、宮大工もいたよな、え、何でもいいからすぐ呼んできなよ。ええまどろっこしいな、おれが呼んでくるよ。」
宗助の弟の記憶力は実に見事なもので、宮大工の助言も入れて、まわりの堀や通路、門、天守閣の様子まで、詳しい見取り図が書きあがった。
「どうじゃ、方位、縮尺ともかなり正確な地図ができたわい。」
酒の勢いがあったとはいえ、わずか一晩で、正確な地形図と見取り図が完成していた。
この情報力、へたな軍師以上だ。この人たちっていったい?
「ありがとうございます。この貴重な地図、きっと役立てます。」
「おおそうか、良かった。では、これを…。」
雄山は、またそうやって作ったものを、理由も聞かず未月に渡すのだった。宗助がそっと近づき、頭を下げた。
「勝手なことを聞いて失礼ですが、お戻りはいつになりますか。」
「お戻りというと?」
宗助の本意がわからなかった。だが、これだけいろいろのことをしてもらっているのだからとつい、本気で答えた。
「明日の夕刻までには…。」
それを聞くと、宗助は大きくお辞儀をして、帰って行った。わからない男だ。未月は、その地図の重さをしかと受け止め、決意新たに、山寺を後にした。
六角定家の有力な武将の一人に青山道説がいた。道説は、ある晩を境にすっかり変わってしまった六角定家を恐れていた。年貢を異常に上げ、罪も無い農民たちを重労働に連れ出し、急に城を造り始めた。苦しむ民たちの姿を見ても、悲鳴を聞いても、殿は行いを改めようとはまったくしなかった。殿の様子がおかしいと最初に言い出した正室が一晩で謎の死をとげ、武将たちも、口出しをしようものなら、即、首が飛んだ。
道説は一度は、無理な城の新築をやめさせようと殿の前に出たことはあった。だが、いつのまにか殿のそばについた黒武者の異様な風体、そしてこの世のものとは思えぬ蒼白い六角定家の顔を見ると何も言い出せなかった。美貌の側室よしのの、涙に濡れおびえている姿が胸にしみた。結局、道説は城の建築から離れ、見張りとして少数の兵士とともに、一の丸を護っていた。ここは、山の中腹に位置し、唯一の登山道を固める、守りの要であった。
「道説様、今、ふもとの滝の近くに怪しい人影が。」
見張りの武士が、大声を上げた。
「なんだと、敵の武士か、偵察か。」
飛び出した道説に、見張りの武士が続けた。
「それが、若い女のようです。」
「なに?」
道説は、堺の商人から手に入れた小型の望遠鏡を取り出すと、滝の方向を覗き見た。すると、若い女が滝のそばの岩によじ登っているように見えた。
「なんだ、あの、鬼の面は?」
その女がこちらに背中を向けると、その背中一杯に大きな鬼の面があった。ドキッとした。だが、次の瞬間には、霧が深くなり、すべては見えなくなった。
「道説様、いかがいたしましょう。」
「いつ敵襲があっても平気なように、警戒は怠るな。」
「はい。」
今の女はなんだったんだろう。やがて少しして、一瞬霧が晴れた。するともう女の姿はどこにも無かった。だが、先ほどの巨大な鬼の面は、滝の横の大きな岩に取り付けられ、こちらをぎろりと睨んでいた。
「うあ、なんて不気味な。一体何をしようというのだ。」
再び霧があたりを包み、すべてを覆い隠した時、何かが起ころうとしていた。何か大きな地響きのようなものが聞こえてくる。ドシン、ドシンと、しかも確実に近付いてくる。
「一の部隊、あの音の正体をつきとめろ。」
「おまかせ下さい。」
武装した小部隊が、勢い良く飛び出して行った。
「だあああああああ!」
だが、深い霧の中からは鈍い何かが潰れるような音と、うめき声が響いてくるだけだった。道説の足元に、何かが飛んできた、驚いたことに、それは、今出て行ったばかりの武将の腕であった。
「まさか…。ついに神佛の裁きが下ったか。鉄砲部隊、すぐ用意をして前に出ろ!」
火縄銃を持った小隊が、まえに出て、霧の中へと銃を向けた。その直後、霧の流れの中に、巨大な影が浮かび上がった。
「なんだ、この奇怪な姿は? う、撃てええええええええ!」
銃声が霧の中にこだました。だが、巨大な影はぴくりともしなかった。その直後恐ろしい唸り声が、一の丸全体をかけめぐった。ドシン、ドシンという地響きがだんだん遠ざかっていくのを、道説は遠くなる意識の中で聞いていた。
「…殿、神罰の捌きが下ったようです。やはり、我々は間違っていた…。」
その時、偵察の若い武士が一の丸の異変を感じ、駆けつけたはいいがあまりの惨状に震え上がっていた。
「道説様、お気を確かに。一体何が起こったのですか。」
「わしはもうだめじゃ。よいか、警備の者たちにふれまわるのだ。ひとときたりとも振り返るな、何も考えず、ただ逃げろ。城はもう終わりだ…とな。」
「かしこまりました!」
若い武士は、全速力で走り去って行った。道説は静かに目を閉じ、もう動くことも無かった。
山城はもう九分通り出来上がり、工事は周囲の堀の方に移っていた。山城の本丸では、早くも異変が起こっていた。どこから迷い込んだか、妖しい二人の怪僧が、殿の御前にいた。
「民の恨みやつらみを使うのが鬼流門じゃ。魔神が動き出したということは、誰かがここから抜け出したのではないのか。」
六角定家は目をギロッとしただけで、何も答えなかった。黒武者の一人がそれを否定した。
「ここから逃げ出した農民は一人としていない。全員の首に呪印を押してある。そのような不始末はありえない。」
「その通り、この城は樹海に眠る幕府の隠し金を奪うための大事な拠点、厳密な計画に従ってことを運んでおるのじゃ。」
「だとよいが…。魔神は無敵、不死身だというではないか。どうするのだ。」
怪僧が再び詰め寄ると、黒武者の一人が高らかに笑った。
「ハハハ、何が無敵、不死身だ。鬼流門のことはわれらも知っておる。魔神は強い、それは確かだ。だが必ず、どこかに弱点を持っているというではないか。」
もうひとりの黒武者がさらに続けた。
「しかも、黒武者がここに四人揃ったなら、もう怖いものはない。弱点などを探る必要すらあるまい。」
天の魔力を使う天の黒武者、地の魔力を使う地の黒武者、呪印を自在に扱う呪印の黒武者、魔剣を得意とする武の黒武者。一人ずつが恐ろしい力を持っているが、四人が揃うとさらに凄い能力を発揮するのだという。
「そうか、それなら良いが。では、われらはこれで…。」
怪僧は、闇に溶け込むように去って行った。六角定家は、突然立ち上がると大きな声で叫んだ。
「敵じゃ、敵襲じゃ、全軍総力を結集して迎え撃て!」
どんよりとした曇りの日だった。六角の城のそばに、冷たい霧が流れ込んできた。二の丸、三の丸の警備兵たちは、押し寄せる霧とともにバラバラと逃げ出していた。いったいなにが起きているのか。農民たちは急に理由も聞かされず、作りかけの堀の工事をやめさせられ、城の横の小屋へと、帰された。
「いったい、なにがあったんだ。」
小屋に追い立てられながら、平助は生き物のように押し寄せてくる霧を見ていた。
「な、なんだ。この音は?」
そうだった。霧の中から、ドシン、ドシンという、不気味な音が響いてきたのだ。
「ここの小屋にいては、危険だ。今、武士たちが向こうに気を取られているうちに、山の中に逃げるんだ。」
突然、平助たちの前に鋭い目の女が飛び出してきて叫んだ。
「どなたか知らないが、おらたちは、これのおかげで遠くには逃げられないんだ。」
平助たちは、喉もとの呪印を指差した。
「呪印か? それもあとで、私がなんとかする。だから、今は山で静かにしてるんだ。とにかく小屋は危険だ。」
鬼気迫る女の言葉に、平助たちは、決断を迫られていた。
「敵はあの霧の中じゃ、進め!」
一人の武将が馬に乗り、先頭に躍り出た。
「うおおおおおおおおおおお。」
城門が開き、大勢の足軽が槍を突き立て、突進して行った。すると霧の中で巨大な影がうごめいた。先頭を行く足軽の前にふた抱えもありそうなカニのはさみが振り下ろされ、数人が吹き飛んだ。カニのはさみを除けた足軽の目の前に、巨大な鷹のつめが襲い掛かり、鎧ごと握りつぶされる。足軽の一人は、怪物の体から突き出たガマの口から毒気のある霧が噴出すのを確かに見た。 馬のいななきが聞こえ、見上げると巨大な獅子の口が、馬を飲み込んでいた。
「何なんだ、この怪物は。」
足軽隊は、あっという間に蹴散らされ、散り散りになっていた。鉄砲隊が前に進み出て、押し寄せる霧の中に銃弾を何発も打ち込んだ。だが、霧の中から飛んできた大岩によって、一発で全員が吹っ飛ばされた。
城門の前に四人の黒武者が現れ、なにやら呪文を口々に唱えた。すると四人の間に妖しい呪印が浮かび上がる。突然竜巻がおこり、霧を吹き飛ばし、どんどん大きくなりながら一直線に怪物へと飛んでいった。
「うがおおおおお!」
怪物は叫ぶと、竜巻を正面から受け止めた。
「ハハハ、粉々になって吹き飛んでしまえ、怪物め!」
黒武者の呪文が一段と大きくなった。だが次の瞬間、赤く燃え上がる魔神の岩の体の中から二本の翼が伸び、風が吹き上がった。するとなんということ、竜巻はいくつかにちぎれ、消えていった。
「まさか、竜巻の呪印がこうも簡単に破れるとは。」
「あの異様な形を見ろ。やつは獣と岩の魔神だ。体の中に、神通力を持った岩の魔獣を何匹も飼っているのだ。」
霧がすっかり晴れ、怪物はその姿を現した。それは、岩でできた異形の邪神だった。怒りに燃える鬼の面が正面をにらみ、自然の岩の甲冑をまとい、体中に動物の口や牙などが浮かび上がっていた。
時々、岩のあちこちが赤化発熱し、溶岩が流れるように形を自在に変え、魔獣が動き出し、牙を剥く。今は右手に巨大なカニのハサミ、左手に鷹の爪、胸に獅子、肩にガマと狼、熊などが、鎧の間から睨みつけている。
農民たちを山に逃がしながら、未月は木陰から黒武者を睨みつけた。
「荒ぶる魂の源、火星よ。人々の怒りに、悲しみに、血と涙に答えよ。行け、魔神百獣王!」
魔神は、大きく雄叫びを上げると、ゆっくりと進み始めた。四人の黒武者は、二人ずつ組になり、前に進み出た。
「ええい、大地裂衝波!」
武の黒武者が大地に剣を突き立て、地の黒武者がそこに衝撃波を打ち込む。と、大地が激しく揺れながら、大きな亀裂をつくりだした。
「ハハハ、とどめだ。暗黒崩壊波!」
天の黒武者が空に向かって両手を振り上げ、呪印の黒武者がその背後で大きく印を結ぶ。と、 激しい波のような衝撃が左右に走り、両側の崖に文字が浮かび上がり、崖が大きく崩れだした。山の中に逃げ出した農民たちも、思わず近くの木にしがみついた。ものすごい揺れである。地面を走る亀裂は、魔神を飲み込み、魔神は肩まで亀裂に埋まっていく。
そこに、左右の崖から崩れた大岩や土砂が轟音とともに、覆いかぶさり、ものすごい土煙があたりに広がった。
「どうじゃ、手も足もでまい。」
黒武者たちの笑い声が響いた。しかし未月は動じない。
「本当の恐ろしさを味わうのはこれからだ。」
すっかり、動きのなくなった土砂の塊を背中に、四人の黒武者は城に帰ろうとした。だが、その時妙な音が聞こえた。それは湯が沸くような、何かが煮え立っているような音だった。
「なんだ、この音は?」
振り向いた黒武者たちは、言葉を失った。岩の間から赤いものが流れ出したかと思うと、大きな音とともに、溶岩が吹き上がったのだ。近くの岩や崖に赤い揺らめきが照り返す。亀裂を埋めていた土砂は、吹き飛び、溶け出し、その中から赤化した、魔神の顔が見えた。すさまじい怒りの形相だ。あのズシンズシンという大きな音とともに巨体が再び姿を現す。体中の獣が、一段とすさまじく牙を剥く。そして、荒ぶる魂のまま、雄叫びをあげたのだった。
「うぬう、なんというやつ。だが、こうなったらもう手加減はせぬぞ。思い知るがよい。」
「ゆくぞ。合体呪印、暗黒居留刃!」
四人の黒武者が、刀をかまえ、目と目をあわせ、呪文を唱えながら駆け寄った。四つの影が一つに重なったとたん、邪悪な呪印と波動が辺りを包み、黒い影は巨大になりみるみるおぞましい姿に代わっていった。
その途端、あたりに黒雲が広がり、みるみる日差しを飲み込んで広がっていった。山の中に隠れていた平助たちは、思わず天を見上げた。
「おお、なんと不吉な。まるで夜だ。、夜になっちまった…。」
闇の中に、不気味な赤い瞳が、あやしく浮かび上がる。
「ハハハ、魔獣の力を思い知るがよい。」
魔神に負けぬほど大きな、四本首の黒い竜が出現した。竜は、地響きのような叫びを上げた。あたりの民たちが、山の木が震え上がった。
そして、翼を伸ばし、漆黒の闇の中へ一気に飛び上がった。そして、空中を一直線に飛び魔神の首を狙って襲い掛かってきた。四本の竜の首の先には四本の刀のような角が光り、それが一斉に振り下ろされる。紙一重でかわす魔神、四本首の竜は後ろの大岩に激突するかと思われたが、後ろの大岩はぱっくりと五つに引き裂かれ、崩れ落ちた。
「次は、お前の番だ。」
魔神は身構えた。四本首の竜は、そのすさまじい四本の角を振り上げた。
六角定家は、そのころ側室のよしのと二人、天守閣で茶をたしなんでいた。急に夜のように暗くなり、不安になったよしのは、殿の方を見た。だが、殿は気がついてもいないようであった。茶碗を差し出すよしのの手は、微妙に震えていた。
「心をこめていれました。殿のお体が少しでもよくなるように。」
「うむ。」
六角定家はもともと風流を愛する、物静かな男であった。それがいつからこんなことになったのか、あの黒武者が出入りするようになってからか…。
ついこの間まで、楽しく笑っていたような気がする。だが、今の殿は顔は青ざめ、目はギラギラと血走り、時々大声を出して怒鳴るかと思うと、一日、しゃべらないこともある。まるでこの世のものとも思われない様子なのだ。
「いかがですか。」
よしのの胸元で観音像をつけた小さな十字架が揺れた。
定家は、よしのが入れた茶を一口すすると、突然うつむき目をむいた。
「どうなされました。」
その時、一瞬、定家の目に光が戻った。
「定家様…」
「よ、よしのではないか。わしはなぜこんなところで、こんなことをしているのだ。」
殿の目にみるみる涙があふれ、声に落ち着きがもどった。
「定家様!」
「いつかのあの夜、男と生まれたからには一度は天下を取ろうと誓ったとき、心の中に何かが入りこんで…。天下をとれと、心の奥底から声が響いて来て、どんどん自分が自分でなくなっていく。わしの夢はどうなってしまった。なぜこんなに苦しいのじゃ。」
「定家様…。」
よしのは思わず定家に手を差し伸べた。だが、定家は、突然胸を押さえ、茶碗を落とした。
「く、苦しい。わしは、なぜこんな城を建てたのじゃ。ここにいると、数え切れぬ悲鳴や苦しみが胸の中に響いてくる。苦しい、この城が私の胸を締め付けるようだ。」
定家はのたうちまわって苦しがった。よしのが叫んだ。
「出ましょう、殿、この城を捨てて、すぐにここを離れるのです。」
その時、城が大きく揺れた。魔神と魔獣の戦いは、熾烈を極めていた。
邪悪な闇の中で二匹の巨大な影がぶつかり合っていた。大地を揺るがし、飛び掛ってきた四本首の竜を魔神が投げ飛ばした。地面にたたきつけられる魔獣、城の横の農民小屋の屋根が飛び、壁が次々と倒れていった。
農民小屋は、あっという間に瓦礫の山と化した。それを目にした山の中の平助たちの顔から血の気が引いていた。
魔獣は翼をはためかせ、その風で近くの土砂を巻き上げる。土煙と飛んでくる土砂で、一瞬、目潰し攻撃だ。うずくまる魔神。そこを逃さず、長い尾をムチのように使い、叩き付ける魔獣。だが、何発かムチが入った後、巨大なカニのハサミがムチを挟み込み、ねじり上げ、投げ飛ばす。再び大地が大きく揺れる。反撃だ。しかし魔獣も負けてはいない。
「ぐぉおおおおおおおお。」
四本首の魔獣は、大きく叫ぶと火の玉を吐き出した。暗黒の空の黒雲が、地獄の赤い光を照り返す。、魔神は炎に包まれた。
「今度こそ、けりをつけてやる!」
大地を揺るがす叫び声とともに、魔獣は四本の首の四本の角を振り上げ魔神に襲い掛かった。だが、魔神は、炎に包まれたまま、それを受け止めにかかったのだ。四本の巨大な刀が一度に振り下ろされる。
「な、なにいいいいい!」
四本の刃が、魔神の体を切り裂いたかと思われたが、刃は岩の体に大きな傷をつけただけでとまったのだ。それ以上は動かない。よく見れば、一本の首は巨大なカニのハサミに挟まれ、一本は狼の口に噛み砕かれ、一本は鷹の爪に、最後の首は巨大な蛇に押さえ込まれた。しかもだんだん魔神が魔獣を押していくではないか。
「ぐわぉうう。」
胸から浮かび上がった巨大な獅子の口が、魔獣の胸元にかぶりついていた。
「ぐぉおおおおおおおおお!」
その時、荒ぶる鬼面が一段とすさまじいうなり声を上げた。なんと、四本首の魔獣は、魔神の頭の上まで差し上げられた。炎に包まれた獅子が、巨大な牙と爪を突き立てた。
「うおう!」
次の瞬間、魔獣は、真っ二つに引きちぎられ、左右に投げ捨てられたのだ。投げ捨てられた黒い肉の固まりは、のた打ち回り、四人の黒武者に戻っていった。それと同時に、黒雲が去り、うっすらと日が差してきた。
「ば、ばかな、われらが負けるはずが…。」
「うぬう、鬼流門め!」
一人の黒武者がふらふらと立ち上がった。
「そうか、鬼流門の手先を狙えば!」
「ウワァアア!」
だが、その時、魔神の巨大な足が、二人の黒武者を容赦なく踏みつぶした。もう二人の黒武者がその隙に、命からがら影に溶け込むように消えて逃げた。魔獣につけられた四本の傷から火柱が吹き上がり、怒りとすさまじさが頂点に達していた。相手を失った魔神は、荒ぶる魂のまま、さらなる相手を求めて歩き出した。そう、あの、まがまがしい城へと…。
崩れ始める城。ズシン、ズシンという地響きとともに、城が上へ下へと大きく揺れた。よしのは、おつきの小姓とともに、六角定家を連れて、必死に逃げ出していた。
「殿、こちらです、殿、しっかりしてください。」
定家の目はうつろになり、体から力が抜けていた。小姓に担がれ、時々小声でなにやらつぶやいていた。魔神の接近とともに、城に炎が燃え移ったのか、煙と火の粉が迫り、城の中は叫び声と悲鳴でいっぱいになった。その時、上でガラガラ崩れる音が聞こえ、巨大な梁が落ちてきた。
「危ない!と、殿!」
おつきの小姓が定家をつきとばし、崩落から定家を救った。だが、よしのの目の前で、小姓は柱に押しつぶされて絶命した。
「キャー。」
さらに壁が大きく崩れ、走り出すよしのたち。だが、うなり声に驚いて振り向くと、崩れ落ちた壁の中から、恐ろしい鬼の面が、見下ろしていた。魔神だ。大きな目がぎょろりと、こちらを見下ろす。その時、定家がつまずき、よしのはバランスを失って、その場に倒れこんだ。そこに壁や柱を倒しながら、巨大な足が一歩、また一歩と近づく。
よしのは一人で逃げようと思えば逃げられたが、定家を放って逃げることなどできなかった。定家を守るように、上に覆いかぶさるのが、精一杯だった。だがその時、一瞬の静けさが突き刺さった。
「踏み潰される…、定家様。」
と、覚悟を決めた瞬間、魔神の動きは止まったのだ。いったいどうしたことか。ただ、魔神はくるりと向きをかえると来た道をもどっていった。そうだった。もう、すでに、城に魔物はいなかったのだ…。
「探したぞ、貴様が鬼流門の娘だな。」
「なに?」
燃え上がる城を見ていた未月の後ろで邪悪な影が立ち上がった。
「くく、こんな山の中で農民たちにまぎれておったとは、気づかなんだ。」
「うぬ、まだ、生きていたのか。」
邪悪な影はみるみる実体化し、そこに二人の黒武者が現れた。二人とも傷つき、血だらけでさらに不気味さを増していた。近くにいた農民たちがおびえ、潮が引くように逃げ去って行く。
「おまえも、農民たちと同じ恐怖を味わうがよい。」
「受けるがよい。暗黒命縛の呪印!」
呪印の黒武者が未月を指差した。未月は喉を押さえて倒れこんだ。
「ハハハ、これでお前はもう逃れられぬ、血を吐いて死ね。」
だが、倒れた未月の目は、まだ死んではいなかった。
「呪印返し!」
「なんだと?!」
次の瞬間、跳ね起きた未月の前で呪印の黒武者が血を吐いて倒れた。見ると未月の胸元から喉元にかけて、お札が貼られていた。
「おのれ、こざかしい真似を。」
武の黒武者が、魔剣を抜いて斬りかかってきた。
「双竜火炎の術。」
未月は大きく後ろに飛びながら二枚の呪符を放った。一枚は斬られたが、一枚は巨大な魔剣をかいくぐり、黒武者を炎で包んだ。
「ぎゃあああああ!」
黒武者は焼け焦げ、死にそうになりながらも崖の上まで走った。
「この次会うときは、お前の死ぬ時だ。覚えておれ。」
そう叫んで崖から飛び降りた。急いで追いかけたが、そこには深く、谷川が渦を巻いているだけであった。その時、農民たちの間から、歓声が沸きあがった。
「消えた。喉の呪印が消えたぞ。」
皆、互いの喉元を見せ合いながら、喜び合った。未月はほっと胸をなでおろし、小さな笛を取り出すと、斜面を駆け下りていった。
「後は仕上げだ。魔神をとめる。」
魔神、百獣王は荒ぶる魂のまま、城を焼き、あたりをめちゃくちゃにし、ますます暴れまわっていた。四つの大きな傷から吹き上がる火柱はますます激しく、怒りの炎となって燃え上がる。
「どの魔神にも弱点がある。この百獣王は、暴れだすとなかなか止まらない。そして、もう一つの弱点は…。やつらに気付かれなくて幸いだった。」
未月は、魔神から程近い斜面を下ると谷川を渡り、岸辺で笛を吹いた。
「雄山先生たちのおかげで、この付近の地形や城の周りの堀の様子、水利まで手に取るようにわかる。ここだ、この場所に来い、ここだ、この魔神の笛の場所に。」
笛の音が響き渡った。ほどなく、ズシン、ズシンという地響きが近づいてきた。もう、どうにも止められない荒ぶる魂が、猛り狂った。そして、未月を見つけると一直線に突進してきた。
「語法童子、水流の舞。」
すると、空中で子供の笑う声が聞こえたかと思うと、谷川の流れが止まった。なにが起ころうとしているのか。だが、立ち続ける未月に向かってくる魔神の歩みは一段と激しさを増しているようだった。もう少しで、荒ぶる魂のまま、未月は消し飛ぶかと思われた。魔神がついに川に降り、大きな水柱があがる。
「よし、いまだ!」
未月が大きく手を振った。その途端、地響きとともに谷川の上流から大きな波が押し寄せた。
「ぐおおおおおおおおおおお。」
上流から押し寄せた大きな波が、滝のように魔神に降り注いだ。ものすごい水蒸気が上がり、あたりが真っ白になった。赤化し、燃えていた岩の体は、黒く冷え、魔神はゆっくりとうずくまった。そして立ち上る水蒸気の中、まるで元からそこにあった自然の岩のようになり、動かなくなった。しばらくして、未月は巨大な鬼の面をはずすと、何もなかったかのように背中に背負い、歩き出した。
村の閻魔堂の前の広場では、星照院からやってきた炊き出し部隊が、忙しく走り回っていた。力自慢の猿楽師の正や陽気な久太郎をはじめ、若い連中が大鍋を運び、星照院も雄山もニコニコしながら村の女たちと一緒に食器の用意をしていた。お市も一人前に皆を手伝い走り回っていた。源太が、そわそわして、近くにいた宗助に話しかけた。
「あのさ、おじちゃん。お父ちゃんは本当に夕方に帰ってくるの?。もう、そろそろ日が暮れるよ。」
「はは、案ずるより生むが易しさ。」
宗助は、そう短く答えると、山の方を見た。すると、そこにたくさんの農民たちの姿が…。村の女や子どもたちが色めきたった。源太が叫んだ。
「お父ちゃああん!」
源太が手を振って走り出すと、農民の一人が、大きく手を振った。先頭に未月が立っていた。皆、帰ってきたのだ。星照院が進み出てにっこり笑った。
「おかえりなさい。皆、待っていましたよ。」
炊き出しの湯気越しに、数え切れぬ瞳が父親たちを暖かく迎えたのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます