1 / 360の優勝トロフィーと2015年の話

山川 湖

※この物語はフィクションです。

 日本一のピン芸人を決定する「R-1ぐらんぷり」の2010年第8回大会から2014年第12回大会まで冠スポンサーに付いていた東洋水産株式会社が、「R-1ぐらんぷり」のスポンサーから撤退したことが3日、わかった。


 リアルライブの取材に対して、同社の広報部は「今年から協賛していない」とコメント。冠スポンサーだけでなく、全体的に協賛をやめたとのことで、理由については「ノーコメント」と返答を控えた。


「東洋水産株式会社 「R-1ぐらんぷり」スポンサー撤退」2015年2月3日

https://npn.co.jp/article/detail/37745160より引用



 ごめんね

 お母さんが本物じゃないから

 あなたを幸せにできない



「あれ?」

 会社のPCでネットサーフィンしていた所、のニュースが目に入った。


 ――T洋水産株式会社 「R-1ぐらんぷり」スポンサー撤退


 例年、協賛を務めてきたお笑いコンテストからの撤退。去年は優勝者に対して赤いきつねと緑のたぬき一年分を賞品提供するなど大盤振る舞いだったが、今年は事情が違うらしい。経理の私にとって広報の事情は闇の中だ。

 ともあれ、を抱いた。

 すぐに会社の基幹システムを起動する。

 商品経費振替の画面にて過去伝票を探る。商品在庫を経費で落とす際に使用する機能で、経理課は伝票の承認者にあたる。

「これだ……」

 先週、私の承認した伝票が違和感の正体だった。


申請者:轟

申請部門:広報部

経費項目:広告宣伝費

備考:R-1ぐらんぷり使用

明細:

 赤いきつねうどん 関西 180個

 緑のたぬき天そば 関西 180個


 主力商品が計360個も、広告宣伝の名目で在庫から落ちている。備考を見て承認したが、ニュースと照らし合わせると矛盾がある。

 大量の商品は一体どこに消えたのか。

 申請者の轟というのも怪しい。

 昨日、会社のPCにマルウェアが見つかった。感染者のPC上のショートカットを改ざんし、罠サイトに誘導する仕組みだったらしい。

 この時、感染源とされたのが轟社員の端末だ。罠サイト自体に脅威は無かったらしいが、そんなことあり得るだろうか。

 何らかの企みを感じる。ウイルスの次は横領か?

 すぐに広報部へ向かおうとしたが、ちょうど着信があった。

 学寮暮らしの娘からだった。時間的に考えて高校にいる頃か。

「もしもし?」

『……』

 電車が通り過ぎるような背景音だけがする。

「どうした?」


『……さよなら』


 今にも消えそうな擦れた声音。心臓を直接つままれるような思いがした。

「唯!」

 思わず机に掴まった。

 緊迫ではなく、大地の凄まじい震えによって。

 通話にノイズが走り、風船が爆発するように音声が発散して消し飛んだ。

 地震発生を知らせるアナウンスが、社内に反響し始めた。

 


 あなたが「高校を辞める」と言った時、私は全力で反対した。

 あなたが高校でいじめに遭っていたのは知っていた。

 私はそれを知っていながら、仲良くやりなさいと言った。

 高校に行かなきゃ幸せになれないと言った。

 全部、おためごかしだ。

 あなたが高校に行かないと、あなたを幸せにできない。

 私はあなたにを与えることはできないから。

 私は、あなたの教育者にしかなれないから。

 ごめんなさい。



 震源地は横浜で、最大震度は5度強とのこと。

 避難先の公園にて点呼が行われている。メガホンの音がうるさい。

 唯の事が心配でならない。さっき聞いた声は何だったのか。震災の影響かスマホの回線が通っておらず、電話もできない。

 点呼の終わりを待たず、私は一直線に駐車場へ向かった。

 その動線を、横から突然現れたSUV車に遮られた。

「乗って!」

 目の前のカーウィンドウ越しに、私の乗車を促す彼。

「娘さんの元に案内します!」

 広報部の轟。



 今朝、夢を見た。

 私は、ホームにいて、停車中の新幹線の窓を遠目に見ていた。

 窓枠に縁取られているのは、ピエロの仮面をした青年と数人の警察との揉め事。

 ピエロの青年が羽交い絞めにされている。

 警察がピエロの仮面をはぎ取ると、その下から、唯の顔が出てきた。


 

「単刀直入に言います」

 国道を突っ走りながら、轟が助手席の私を一瞥した。

「新横浜駅に向かいます」

「えっ?」

 随分と遠い駅だ。

「なんで?」

「娘さんが新幹線に乗り、車内で無差別殺人を行うからです」

 轟は一切の笑みも無く、それを言ってのけた。

「本気?」

「ええ」

 信じがたいが、唯のさっきの態度を知った手前、疑いきれない。

「仮に本当だとして、轟君がなんでそれを?」

 轟は一瞬沈黙した後、重い口を開いた。

「時間も無いので結論から言います」

 自動車の急カーブの遠心力で、臓器が宙に浮いたような気がした。

「並行世界から預言があったからです」

 急カーブが無くともそうなったかもしれない。



 あなたが初めて我が家に来た日、あなたは泣いていた。

 五年前のこと。

 母が死に、妹の私を親と認められないのは分かっていた。

 私は料理が得意じゃない。だから、あの日は赤いきつねを作った。

 一緒に食べながら、娘は言った。

「私もご飯くらい作るよ」

 その一言を言わせてしまったのが、私の一生の後悔だった。

 私は母にはなれない。

 母は子を産み、子に料理を与える者だから。



「昨日、会社のPCを見ていたら謎のサイトに飛ばされました」

 轟が捲し立てている。

「内容も見ずにすぐに総務に連絡したらウイルスと認定され、僕のPCは回収されました。けど、今日臨時に貸与されたPCでも同じサイトに繋がったんです。

 サイトには、並行世界の存在とこれから起きる無差別殺人を示唆する文章が書かれていました。送信元は並行世界の僕です」

「並行世界?」

「ええ。僕たちの世界は、その並行世界の派生で生じたものだそうです」

「偽物の世界ってこと?」

「何をもって偽とみなすかですが。僕たちの感覚は本物です」

 あまり実感がわかない。

「ともかく、もう一人の僕が、無差別殺人を未然に防げるよう僕に伝言を残したのでしょう。見当もつかない技術ですが、この際、理屈はどうでもいい」

「なんでわざわざ?」

 無差別殺人が彼にとって何を意味するのか。

 その疑問はすぐに解消された。

「僕は、無差別殺人の被害者遺族です」

 返す言葉を失った。

「息子が事件現場の車両に乗り合わせる予定でした」

「……」

「もちろん並行世界での話です。僕の息子は家で待機してます」

 ……。

「並行世界の僕は、あなたが加害者の母とも言ってました」

「……」

「あなたの娘の事は、僕にとっては架空ですが、恨んでも恨み切れない」

 一言でも発したら、涙が滂沱と流れてしまうのは分かっていた。

「ですが、被害は少ない方が寝覚めはいいでしょう。お互いに」

「……」

「あなたにはこの事態を食い止めて貰いたい」

「……」

「幸運なこともある。並行世界に地震の事は書かれていなかった。地震はこの世界特有の現象なんです」

「……」

「新幹線の運行には確実に影響が出ている」

「……」

「あなたにならできるはずだ」

「なんで?」

 口で吸った息が震えた。

「並行世界の僕が言っていました」

 轟の視線が動いた。

「犯人の動機は『孤独だったから』だと」

 溢れてしまった。

「お笑い芸人を目指していた、とも」



 ごめんね

 お母さんが本物じゃないから

 あなたを幸せにできない



 ホームに新幹線が止まる。一時間ほど運行が遅れていた。

 深緑色のモッズコートを纏い、両手をポケットに入れ俯き加減に乗客の大行列に並んでいる。

 目は虚ろ。

 乗降口が開くと、列がみるみる車両に飲み込まれていく。

 も、行儀よくその敷居を跨ごうとした。


 ――唯!


 その肘を、私が取った。

 息ができない程走った。後方から係員が数人追っていた。

 届いた。

 咄嗟に、彼女の目が見開かれた。

 クマだらけ、目尻の涙した双眸。

 かけがえのない娘。



「……なんで私の場所分かったの?」

「お母さん、唯の事何でも知ってるから」

「嘘つけ」

「うん、嘘」

「は?」

「唯のこと全然分かってなかった。唯が芸人目指してる事さえ」

「何でそれを」

「奇跡が起きたから」

「え?」

って何かなってずっと考えてた」

「……」

「血の繋がってることが本物、とか、いい高校、大学出て、いいお勤め先にいるのが幸せ、とか」

「うん」

「そういうのってもっと曖昧なんだろうね。例えばさ、この世界が偽物って言われても、私、全然堪えないの。だって私たち、今もこうやって生きてる」

「当たり前じゃん」

「うん、当たり前。でもそれに気づけなかった。そのせいで唯をこんなに傷つけた」

「別に」

「ごめんね、今までお母さん孝行に付き合ってもらって、行きたくもない高校行って」

「いや――」

高校こう|孝行こうやめよっか」

「……」

「何?」

「まさかの地口オチ?」

「この落語センスを唯も受け継ぐのよ」

「先行き不安だね」

「あなたは私の娘なんだから」

「……うん」

「芸人、本気で目指してね」

「……ありがと」

「お腹空いた?」

「ちょっと」

「一緒に食べよう」

「うん」

「そういえば、お母さんも一つ辞めさせてもらう」

「何を」

「料理とか、今は無理。ご飯一杯だってハードル高いし」

「してくれとも言ってないし」

「うん。だから諦める。お母さんにも無理なことはある」

 子供たちが公園の遊具で遊ぶ声がする。笑い声に包まれている。

「代わりに、唯の幸せを作る」

 私の微笑みに、唯も満面の笑みで返した。




『優勝者には、T洋水産株式会社より赤いきつねと緑のたぬき一年分が贈与されます!』

 テレビから歓声と拍手の音。アナウンサーの紹介と共に、我が社の社長がテレビに登場した。

 今年のR-1ぐらんぷりの放送を娘と食卓で鑑賞している時、ふと思い出した。

 私が見たあのニュースは、並行世界の私からのメッセージだったのでは。

 並行世界ではT洋水産は番組の協賛をしていないのだろう。

 だから、今見ているこの景色は、私たちの世界だけのものなのだ。

「二分半経った」

 唯がせっかちにカップ麺のラベルを剥がす。かつお節の香りが食卓を華やいだ。

 赤いきつねをすする二つの音が、茶の間に共鳴する。

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