インスタントおきつねさま

阿瀬みち

インスタントおきつねさま

 目の前に赤いきつねがある、私はいまとても、猛烈にうどんが食べたい。お湯を注げばうどんへの希求は簡単に満たされるはずだった。赤いきつねの調理を失敗した人などこれまでに見たことがない。手順は洗練されていて、簡単だ。十歳のこどもだって間違わずに調理することができるだろう。唯一の問題は、今手元にお湯がないということだけだった。


 朝目が覚めると砂漠の真ん中に投げ捨てられていた。引退して遠い異国に移住したアイドルをおいかけて密航を試みた結果だった。SNSで最後に彼女の姿が確認されたのは遠い異国の地だった。いてもたってもいられず追いかけた。しかし、いざ現地についてみれば、民族対立から政治的な緊張が高まっていて、国境が封鎖されていたのだ。その辺をうろついていた人の好さそうな青年に片言の英語で「送ってやろうか?」ともちかけられ、二つ返事で飛びついた。

 今思うと、あれが良くなかったのだろうか。私は、伝説的なアイドルしろねちゃんに会いたい一心だったのに……。


 両替した貨幣は財布から抜かれていた。幸い荷物は無事だったが、持ち込んだ食料や水はここ二日でほとんど食べつくしてしまった。最後に残されたのはこの、赤いきつねひとつだけだ。乾いている。世界も、私もカラカラに乾いている。うどんを食べる前に干からびて死んでしまうかもしれなかった。あたりを見回して助けてくれそうな人が通りかかる気配はないか確かめてみる。人っ子一人いない。ときどき虚しく風が砂を巻き上げて、砂漠に新たな模様を築く。静かだった。やがて日が高くなる。太陽の光が容赦なく降り注ぐ。耐えかねて穴を掘った。

 日差しはきついが、穴に隠れていれば意外と涼しかった。しかし暑さをしのぐために埋まっていたのでは、永久に助けに来てくれる人など現れないだろう。ジレンマだ。日差しに焼かれれ干からびるか、誰にも見つけられないまま干からびるか、二つに一つだった。


 せめてうどんを食べたかった。私の意識はこうしてまた振り出しに戻る。がまんの限界だ。赤いきつねのふたをめくってみる。あぶらっぽい、かつおだしの匂いが鼻先を刺激する。お湯、お湯さえあれば。五分後には私はこのうどんを食すことができるというのに。お湯はもちろんのこと水もない。穴の底にうずくまったまま考える。このまま死ぬのは嫌だ。いっそ水が出てくるまで穴を掘り続けてやろうか。


 しかし砂漠の砂は膨大だった。掘っても掘っても上から砂が落ちてくる。アリジゴクみたいだ。もちろん水が出てくるなんてこともなかった。私はすでに私の人生を諦めかけている。このままうどんを食べられないなら。いっそ乾いた麺をそのままかじってしまおう。ふたに手をかける。半開きだった蓋を一気にめくる。そのとき、中から赤いスカーフを巻いた狐が飛び出した。

「コンコン!」

 狐はぞろぞろ飛び出してくる。全部で八匹いるようだ。渇きと飢えで幻覚を見ているのかもしれない。私は赤いきつねのお揚げを折ってちぎって、狐たちに分け与えた。ドライお揚げは美味しいでしょう。ごちそうなんだぞ。狐たちは喜んでむさぼった。狐たちは集まって、こちらを見ながらひそひそとなにやら相談しているようだった。そして、赤いきつねを囲んで輪になって踊り出した。


 すると、雨が降り出した。奇跡だ。私は頬に垂れるのが雨だれなのか自分の涙なのか区別することができない。狐たちは雨の中飛び跳ねて、穴から飛び出していく。なんという躍動感。ひとり取り残された私は穴の底で、泣きながら赤いきつねの容器に水が溜まっていくのを眺めている。雨はだんだんと激しくなり、とうとうお湯、ここまで注ぐの線まで溜まったあたりで止んだ。私はじっと待つ。うどんが伸びるのをただじっと待った。頭の中にはもはや伝説と言っても過言ではないしろねちゃん引退ステージの圧倒的な歌唱が響いていたが、その声はやがてコンコンという狐の鳴き声に変わる。うどんが完全に柔らかく戻ったのを指先で挟んで確かめて、恐る恐る粉末スープの素を開ける。水に溶かす。伸びきったうどんを口に運ぶ。

「美味しい」

 うどんは熱くなくても意外といけた。ただ、熱いお湯で作ったうどんはもっと美味しかっただろう。

 冷たいうどんを食べ終えた後、狐たちが戻ってきた。観光客を乗せた車と一緒だった。耳慣れない異国の言葉が響いた。意味はとれなくても、驚いているのがわかる。私もまた驚いていた。狐たちが次々と、食べ終えた後の容器に飛び込んでいく。観光客とガイドは呆気にとられてその様子を見ていた。

「それはなんだ?」

 とたずねられたのがわかったので、

「あかいきつね。お揚げとO-U-DO-N」

 と答えた。返事をするように、あかいきつねがコンと鳴いた。


 私はきつねたちが連れてきてくれた観光ガイドに無事に空港まで送り届けてもらった。観光客は日本語に覚えがあるらしく、アイドルの追っかけをしていたらここにきていた、と話すと驚かれ、見知らぬ人の誘いにほいほい乗ってはいけない!と戒められた。全くその通りだった。きつねがいないと死んでいたかもしれない。私は目を閉じてきつねに祈った。人生の無事をしみじみ感じいりながら、しろねちゃん伝説のラストステージ動画を違法公開しているアカウントを観光客に教え、ガイドと一緒になって鑑賞した。しろねちゃんはかわいく、超絶輝いていて、ふたたび彼女の動画に出会えた奇跡を噛みしめずにはいられなかった。


 日本に帰ってすぐに、コンビニで赤いきつねを購入した。お湯をもらえることがどんなに幸せなことか。今回はふたを開けてもきつねは飛び出してこなかった。五分きっかり待って口に運んだジューシーふっくらお揚げは、涙が出るほど美味しかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

インスタントおきつねさま 阿瀬みち @azemichi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ