第2話

 記憶から解き放たれた、伊藤は目の前の大隈を睨みつけていた。

 大隈は目の前の伊藤に重ねて、井上馨を見ていようと思った。あの癇癪持ちの怒鳴り声が聞けないのが、残念だと心のなかで苦笑した。

「吾輩の建白書と開拓使問題の記事が繋がっているなど笑止千万。建白書の提出の方法はまずいところがあるのは認めるのであるが」

「僕には薩摩を押さえられない。特に黒田清隆は…」

「わしはあの時藩政庁を押さえようとして斬られた」

 と言ったあの日の馨が重なった。


 陛下の北陸巡幸に供奉した時、供奉のメンバーに馨もいた。あの井上馨を供奉させるのかと、宮中と閣内でひと悶着あった。吾輩としては共に先発官としてなので、楽しみだった。ただ道程は大変で道程の確認、変更も相次いだ。高崎、前橋を過ぎて山を越えて新潟へ着くまで、体が保つかというくらいだった。

 もっとも先遣の役目を視察を兼ねてと考えていた馨は、ここに線路か道路を通すべきだと息巻いてた。その上それぞれの地の名物、産業や工芸品を視察するのも抜かりが無かった。

 新潟では料亭で会合したのに、何故か妓楼で遊んだと新聞記事にされて、癇癪起こしてしばらく不機嫌だったのも、馨らしくて楽しませてもらった。色々あったこの旅では金沢での夜は忘れられない。


 金沢に着くと護衛や警備のものがざわついていた。聞くと政府要人の暗殺予告が出されているという。ここ金沢は大久保さんを暗殺した、下手人を出した結社があるという。吾輩はあることがひらめいたので、馨に相談した。馨は最初乗り気ではなかったが、ここで冒険をするのも男子として楽しいじゃないかと言うと、わかったと言ってくれた。

 ちなみになんとなく岩倉に言ったら当然のごとく猛反対された。これは何かあったときの保険だ。行き先は地元の警察官にさり気なく訪ねて確認してある。手土産を持っていくべきだろうか。持っていくのは一択、酒しかない。宿舎の女中に自分で飲みたいと言って用意させるか。後は決行の時を見計らうだけだ。無事酒を手に入れ、警護の目を盗んで、馨と共に外出することに成功した。


「やったな。愉快である」

「大隈、どこに行くんじゃ」

「聞いて驚くな。大久保公を暗殺した島田等がいたという結社に行くのである。奴らではないかもしれないのであるが。要人暗殺の文が見つかったと警備の者が言っていたのを聞いて、我輩たちが押しかけたら面白いと思ったのである」

「はぁ、どうしてわしも付き合わないけんのじゃ。大隈一人でええじゃろ」

「奴等の狙いは大蔵卿大隈重信と、工部卿井上馨であろう。だから二人で行くのである」

「なんと剣呑な。しかも丸腰じゃ」

 馨は絶句していたが、それ以上文句を言うこともなくついてきた。

「ここじゃ。いいか、入るぞ」

「おう。行くか」

「済まぬが、お主らの頭目に会いたいのであるが。なを名乗れか。そうであるなぁ。我輩は大隈重信、こちらが井上馨である」

 入り口にいた社員と思しき男と話をしていた。本当に本人かと尋ねられて、井上馨を前に出した。

「井上馨の顔の傷は有名であろう。どうであるか」

 当の本人は冷汗ものだが努めて冷静に言った。

「わしが井上馨じゃ。間違い無い」

 その雰囲気に飲まれたのか、奥の部屋に通された。

「我輩は話を聞きたくてきたのである。これでも飲んで気楽に話をしようではないか」

 大隈が張り切って高らかに言った。


 その後はもう誰が何を言っているのかという状態になり、持ってきた酒では当然足りなくなった。誰かが持ち込んだ酒や、買いに行くものも出ての騒ぎになった。気の大きくなった大隈が言った。

「我輩も大変な攘夷者だったし、この井上なんて焼き討ちはする、攘夷開国を巡って斬られたり切ったりしたものであるぞ」

 これを聞いていた馨の微妙な表情に気がついたのかどうか。

 夜もかなり時間が経ってきたので、宿舎に帰らなくては騒ぎになるだろう、というところで二人は事務所をあとにした。

 帰り道大隈は首尾よくいったと機嫌よく、また一層口が回ってひたすら喋り続けた。

「やっぱり直にあって話すと違うのであるなぁ。あ奴らが少しでも楽になることをせにゃならんである」

「いやぁ実に楽しかったのである」

 隣で歩いている馨の表情が曇っているのに、気がついた大隈が声をかけた。しかも珍しい事にあまり話の輪に入ってくるのも少なかった。

「馨どうかしたのであるか」

「なんでもない。大丈夫じゃ。急ごう」


 宿舎に着くと警護の者たちから、色々小言を言われたが聞き流しておいた。ただし、どこに行ったかは喋らないことは、二人で決めておいた。警護やおつきのものがいては、楽しめないところに行ってきたといえば、もともと遊び人だったことが、知れ渡っているので余計な詮索はされないのだ。


 寝間着に着替えほっと一息ついた頃、扉を叩く音がして今頃なんだと開けに行った。そこに酒瓶を手に持って、顔色が青ざめた馨が立っていた。

「大隈すまん。一人で酒を飲んでいたら気持ちがわろうなって、一人でいるのもきついんじゃ」

「とにかくそこに座るのである」

「頭の中がどうかしちょる。頭も痛いんじゃいや心持ちが変じゃ」

 笑顔はそこにはなく、泣きそうになっているこの男を、大隈はどうしたらいいのか考えていた。そうだこういう相手には、ハグというのをしている外国人を見ていた。大隈はにじり寄って今にも崩れそうな馨を抱きしめていた。

「どうであるか、少しは落ち着いたのであるか」

「えっわしはそういう事は」

 驚きを隠せないまま馨は続けて言った。

「わしは大隈の気持ちに応えられる人間じゃないんじゃ。弱虫で卑怯者なんじゃ。離してくれんか」

「そのようなことおかしいである。井上馨が弱虫で卑怯であるなどどこの世の話であるか」

 馨の突拍子もない言葉に、大隈は手を外し床に押し倒していた。

 うっと声をもらした馨の目から涙がこぼれたのを見た。

「時々この傷が痛むんじゃ。己は死ぬはずだったのに、こうやって生きていていいんか。死んだ同士が生きていたほうが良かったのじゃないかとか。ぐるぐる考え出すと何もできなくなるんじゃ」


 長州の混乱を今はなき高杉晋作と伊藤博文の三人で、乗り越えてきたような話を誰からか聞いたことがあった。目の前のこの男は、何回も殺されそうになったのを、切り抜けていまここにいる。それが大隈との今につながっているのだから、死ぬべきだった等というのは、許さないと言おうと考えた。しかし大隈の口からは、言葉が出なかった。代わりに両手で馨の顔を挟んだ。


「わしをもてあそぶんじゃない」

「元気が出てきたようであるな」

 大隈は手を離した。

「すまなかった」

 それだけ言うと馨は立ち去っていった。


 それからの道程はコレラの発生もあり、前途多難なのは変わらなかった。予定が変わり、単独派遣や視察があると馨は、率先して受けてでかけていった。大隈には自分を避けているように見えていた。静岡に到着したあたりから、随行員達も疲労が重なってきたのだろう風邪を引く者が目立ってきた。


 馨もその仲間に入っていた。おとなしく寝ているか少し様子を見ようと思った大隈は部屋を訪ねた。

「気分はどうであるか」

「隈、どうした」

「おとなしく寝ているか見に来たのだ」

 枕の周りには紙が散らばり、ペンシルが転がっている。大隈は手にとって見た。

「これは?」

「あぁ隈は字を書かないから使わんのじゃのう。ペンシル、鉛筆じゃ。間違えても消せるから便利じゃぞ。考えをまとめる時はこれがええんじゃよ。イギリスで沢山買うてきたんじゃ」

 大隈は先年の欧米見聞旅行を懐かしむ、馨を見てほっとした。

「洋行は楽しかったようであるな」

「大隈はまだ行ってなかったんじゃな。ええぞ、ウワァと思うものがアチラコチラにあるんじゃ。皆にあるもんじゃけ、武さんやお末の事も大変じゃった」

「綾子から聞いたばい。おねだりされて宝石買わされたのであるな」

「1カラットのダイヤじゃ。あれはきつかったぞ。でも、嫁さん立てんと大変じゃからなぁ。他にも福沢の所の書生が留学しちょって、一緒に文献読みや研究じゃ、語りおうて良い時間じゃった。公園にも政治を語る場所があったのは、民の力を感じること多しじゃ。パリじゃオペラ座をみた。あんなのをうちにも欲しいのう」

「語りだすと止まらないのはさすが馨であるな」

 ふっと何かを思い出して馨は語るでもなく呟いた。

「木戸さんを待ってたんじゃ。一緒に行くはずだったのに」

 言ったあとふっと顔を背けてしまった。


 帰れと言われないのだから、もう少し居ようと大隈は思った。

「みかんでも食うか。風邪には良いのであるぞ」

 起き上がらせようと馨の背中に手をかけたとき、大隈は心臓が縮む思いがした。馨の手が伸びてきて、大隈にしがみつくような形になったのだ。

「風邪を移すと治りが良うなると言うな」

「我輩は丈夫である。風邪などひかんのである。さぁみかんであるぞ」

 威張って言うことかとけらけらと笑う馨を見て、さっきのは何だったんだとおもいなおした。


 木戸の洋行は政府の大勢が無理だと思っていたので、江華島事件の始末の対価として、井上馨が自分と木戸の洋行を条件としてきても、積極的に動く人物はいなかった。しびれを切らした馨が先に行く事にした。しかし状況が反乱の勃発もあり、ただでさえ政府から抜けられなくなっただけでなく、木戸は体調を崩してともに行くことは不可能になった。その西南戦争の最中に、木戸は亡くなったのだった。


 馨は木戸の死と大久保の暗殺を聞いて、予定を切り上げて帰国していた。弱虫で卑怯者、先日の馨の言っていた事が腑に落ちた。この男の闇を伊藤はどれだけ理解しているのだろうか、大隈はここにいない存在が気になっていた。

「みかん甘いのう。うまいぞ」

「食欲があるのは良いことである」

「大隈の威張るところじゃないぞ」


 帰京してから大隈は馨の言っていた、イギリスの事情が気になり、福沢諭吉に会いたいと思うようになった。

 大隈が会いにいくと福沢は弟子の矢野を紹介してくれた。また井上馨とも意見交換していることも教えてくれた。福沢は井上さんは特に熱心で議院内閣制も頭にあるようだと言っていた。憲法・国会問題は伊藤・井上ラインが主導していると、言われるものだった。埋没してしまう意見では、大隈は存在感をなくしてしまうかもしれない。そんな焦りも加わって、時間をかけずに意見交換を積み重ね、その結果が今この手にある大隈の建白書だった。


 目の前の伊藤博文はあくまで非は大隈にあるとしていた。

「この君の建白書は性急すぎる。イギリスのやり方をそのまま持ってくるのは無理だ。これは僕だけじゃない怒っているのは聞多も同じだ。しかも薩摩の連中は君の建白書と、福沢諭吉が新聞に書いた意見と同じだと見ている。建白書だけだったら僕もわざわざ来ない。開拓使の問題を騒いでいるのも、福沢諭吉のところの新聞だろう。君と福沢諭吉が繋がって、薩摩を追い落とそうしている。そして憲法と議会の主導権を握ると、皆が考えているんだ。薩摩の連中の、君への不信感はとても強いんだ。それでは政府は成り立たない。君は辞任するか罷免になるしかないんだ」


 伊藤はフロックコートのポケットの中の手紙を握りしめていた。この問題を話し合った時逃げるなと聞多に言って、別れたあと送られてきたものだ。今回の立憲政体のこと、開拓使の問題のことについて聞多の意見が書かれていた。大隈との関係は断つと言い、心のこもった忠告もあった。これからも聞多と二人で戦い続けられる事が、伊藤博文の自信に繋がっていた。


 大隈はあの男が、ここまで生き残ってきた政治家なのだと、流石に感心せざるを得なかった。政治の闇の部分も含めて、足を引っ張られようが、疎まれてこそ輝く存在なのだ。振り返って我が身は、ここまで孤立しては身を引くしかないだろう。

「わかった、辞表を書く」

 大隈がそういうのを聞き届けると、伊藤は礼をして部屋から出ていった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

これもまた一つの僕らの選択 瑞野 明青 @toyotooo

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ