これもまた一つの僕らの選択

瑞野 明青

第1話

「大隈さん、お願いがあってきました」

 伊藤博文は大隈重信の屋敷に行き、当人に会うなり切り出した。

「事情はおわかりでしょう。辞任を申し出てください」

「はて、事情とは。わからぬなぁ」

「とぼけられるとは。有栖川宮様にお預けの立憲意見書、いかな事とお考えか。何かお考え違いされているとしか」

「それが我輩に下野をという理由かな」

 大隈の鷹揚とした態度に、伊藤はいら立ちを感じていた。

「話は長くなりそうであるな。こちらに座ってはいかがか」

 大隈はそう言うと、来客対応用のソファに腰掛け、伊藤を誘った。伊藤を案内した、書生が置いていった茶を、伊藤の前においた。

「なぜ意見書の公表を遅らせるようなことをしたのですか。イギリス式の国会の開設と憲法の制定のあの意見は、どこかで読んだことがあるのです。そのどこかが書き立てている、北海道開拓使官有物払下げの問題も大隈さん、あなたが絡んでいると伝え聞いている」

「なんであるか、その陰謀論めいた話は。話を勝手に作って欲しくはないである」

「財務会計も問題だ。正貨用の保管金流用のことでは、聞多が頭を抱えておった。このままでは国家財政は、本当に立ち行かなくなります」


 何かというと大隈の財政批判の対立軸の片方には井上馨(聞多)を置きたがると、大隈は割り切れなさを感じていた。一度野に下った井上馨が官界に復帰すると決まったときに、周りの人間達が色々言ってきてうんざりしたのも思い出した。

 政策では拡大が基本の大隈と、緊縮・均衡財政が持論の井上馨とは、対立はしている。それは政治向きの面だけのことで、心からのことではないはずだ。理に合わぬと癇癪を起す一方、愉快なときには心から笑う、井上馨の笑顔を思い出していた。この世界では、顔では笑っていても、目が死んでいる人間が多い中、正直さが消せないあの笑顔に、どれだけ救われていたか。この男も同じであるのに、こうも馨を利用してくるのかと考えていた。


「その割には馨の朝議での発言は無いのであるが。伊藤も議論すべきではないのかな」

「聞多が何を考えているかなんて、すべて知るわけ無いですよ。ただ米納には反対をはっきり言ってるし、正貨を増やす策など建白してるはずです」

「渋沢を使って吾輩の財政政策への異を財界の意見なるものとして、広めようとしておるのもいかがなものであるか。あれも馨のしくんだことではないか」

「その事は渋沢と話をしてもらいたいですね。そもそも渋沢と聞多の意見は大筋では変わらんこと、あなたもしっているはずだ。あれは渋沢個人の意見でしかない。間は僕が取り持つ」

「馨はどうするのであるか」

「聞多はあなたとは会わないと言っている。必要が無いと。あくまで渋沢と大隈さん、あなたとの問題だと言っていた。渋沢には聞多が掛け合って話をつけている」

「我輩は渋沢とは会うつもりはない」


 大隈の暗に井上馨に話をしたいと言っている素振りに、伊藤は自分の知らない繋がりを感じざるを得なかった。聞多が井上馨と名乗るようになったのは、新政府に出仕するようになってからだ。幕末の尊王攘夷運動から、ずっと友情以上の繋がりをもって、聞多と俊輔と呼び合って此処までやってきた。他の人間が入り込めるとなど、今まで思いもしなかったことが、現実にあることを知らされた。いや、少し前から気がついていたのを、放棄していただけかもしれなかった。


 聞多が渋沢と大隈の批判について、話をしてきたことの報告と、対処について僕の意見を聞きに来たときのことを、思い出していた。

「突然すまんのう。渋沢に大隈とちゃんと話をしたほうが、ええと言ってきたのじゃが、わしが話をしたほうが、ええと言われてしもうた。わしもそのほうが、ええと思うんじゃ。」

 そう言いながら聞多は、書斎のソファのどっかりと腰掛けた。僕は書きかけの手紙をそのままに置いて、聞多の隣に座った。右頬の傷跡を指でなぞりたい、その欲求から手を伸ばそうとした。

「すまんが、傷が熱を持って辛いのじゃ。離してくれんかのう」

 聞多が言ったので、瞬間手を引っ込めた。こういう時は機嫌が悪い。二人っきりで会うのは久しぶりなので、怒らせて帰るようなことはしたくない。でも僕の何とも言えない不安と苛立ちを抑えることはできなかった。

「君にこうやって触れられるの、二人っきりじゃなきゃ出来ない。久しぶりだし、偶にの事だし」

 いや、最近の聞多を見ていると不安も大きくなる。こうして二人でいても聞多は僕を見てくれていない気がする。他の誰か、その誰かが僕を不安にさせる。


「済まない。本題に入ろう。これを見てほしいんじゃ」

 僕は一冊の書類を置いた。

「これは大隈が有栖川宮様に密かに提出した立憲政体の建白書だ。イギリス式の立憲君主制、政党、速やかな国会設立について書かれている」

 聞多は手に取ってパラパラとめくって読み進める。段々と表情が険しくなっていくのがはっきりとわかった。一通り目を通すと天井を見上げた。何か引っかかる物でもあるのだろうか。聞多の表情を見逃さないように注意した。

「これを大隈が。でもこれは福沢諭吉のにも似ておる。どこかで読んだことがあるような」

「多分聞多のその読みはそのとおりじゃないか。それと、北海道開拓使の払下げ問題の記事。あれも福沢諭吉のところの新聞だろう」

「記事の情報元が大隈じゃと」

「薩摩の連中はそう思ってる。大隈は対抗の三菱にも近い」

「五代の所が払い下げを受けるのが面白くないからか。でも五代は大隈にアドバイスをやっといたんじゃないか。いや薩摩が唱えていた米納を潰したきっかけは隈じゃ」

「聞多が引き込んだくせに。あれも芋には痛手だったはず。国の赤字は農民の富裕化による贅沢による輸入の増加と言った黒田、じゃない裏についているのは五代か。対して君が農民の生活が向上して何が悪い、問題なのは軍費の増大・設備の輸入でこちらのほうが額が膨大なことだと説明したのも大きかっただろう」

「大隈のやつ薩長を切り崩し、今度はわしらを出し抜くか」

「出し抜くなんてものじゃない。立憲政体の確立には時間をかけなきゃ無理だと考えていた聞多、君の足元さらってもっていかれたんだ。こんな事あいつにされたの2度目じゃないか」

「留守政府でのことじゃな。あれはそもそも大久保さんも行った時点で無理が、それに大輔の身分では」

「いや大隈がきちんと頑張れたら、僕らが洋行から戻るのを待てたはず。そうだったら君の立場だって」

「そんな事はない。元々無理だったんじゃ。一応やるべきことはやろうとしたし、ちょっとした仕返しもしたぞ。それにビジネスは楽しかった。儲かったし」

 またも遠くを見るようにして、聞多が言ったのを見て、僕は苛立ちを抑えられなくなっていた。


「良くない」

「君の復帰にどれだけ、僕や木戸さんが気をもんだか。大体君には木戸さんから引き継いだものがあるだろう。憲法は僕等がイニシアチブを、取らんといけんのではないか」

「木戸さんの一生の事務。そういえばプロイセンの憲法に、興味を持っていたのも木戸さんじゃ。」

 聞多がボソリとつぶやいて続けた。

「そうじゃ。政府の行政へあり方と、議会の権限を明らかにした根本法則、憲法と法制度の構築。これを作ることじゃったなぁ」

「だから今回はチャンスなんだ。憲法や議会に慎重な、薩摩の芋共を抑えるのに、開拓使問題に大隈の関与ありの論に乗る。薩摩の石頭共に恩を売るんだ。特に黒田には理解があるようにして。あぁ山縣はおいておく。そして大隈を追い落として、憲法は僕等が預かるのを芋たちに認めさせるんだ」

「彼の先生は俊輔を煽り、人気取りに走っとるだけじゃ。憲法は俊輔がやればええんじゃ。済まないが少し考えたいのう。それに頭も痛い。これで帰る」

 立ち上がって部屋を出る聞多に、後ろからしがみついた。背中に顔を埋めたとき手を引き剥がされた。

「済まぬ」

 とだけ言って聞多は出ていこうとした。


 残された僕は消えていく背中に怒鳴ることしかできなかった。

「聞多、逃げるな。幸いにも時間はある、僕らの考えをまとめよう。いいか、ここで勝ち残るしか無いんじゃぞ」

 聞多は振り返って、応酬した。

「わしは逃げぬ。ただこの状況では憲法はわしよりおぬしだ。わしはイギリスかぶれで有名じゃから、色のついていないほうがええと思っただけじゃ。大蔵は松方にやらせる。どうじゃ」

 怒りをそのまま扉にぶつけるような閉まる音が最後に響いた。

 僕は一人になると空虚さの中にいることにも、温もりを得られなかったことにも少し耐えられなくなっていた。書棚の隅に隠しておいた酒を飲んで、紛らわさないと寝られないとは。もうこんな状態が続くのは、良くないことだと自覚はある。せめて聞多が、向き合ってくれないものかと愚痴が出た。何が不安なのか、聞多は大隈と組むなんて事は無いはずだ。そうだ大隈はこれから陛下と北海道に巡幸に行く、東京をしばらく離れるんだ。


 部屋から出た聞多は意外な人に呼び止められていた。伊藤博文夫人梅子。聞多とも長州時代からの付き合いだ。もしかしたら当人以上にこの二人の関係を知っているかもしれない。話を聞いた聞多は梅子にわかりましたと言うしかできなかった。

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