後編
一ノ瀬さんはしばらく黙っていた。紅茶はすっかり冷めて、夕日がテーブルの上の手に届いていた。
「その人のために書いているんですか」
夕日が作るグラスの影をなぞって、「それはちょっと違う」と答えた。
「ただ……藤野さんに恥じないものを書きたいと思う。ここでいう藤野さんっていうのは、もう本当の藤野さんじゃない。藤野さんのことを生身の人間として扱うことが出来なくなって、もう理想や概念みたいになろうとしてる……という感じですかね」
言いながら顎のほくろを触り、眼鏡を直した。その手が小さく震えていることに、他人事のように気づいた。
藤野さんのために書いているのか、という問いが、私の中で少しだけ変換されて、胸の思いの外深いところに刺さっていた。
感想のために書いているのか?
私は驚いて、香水をつけた左手首を握った。温められて、甘い香りが立ち上る。
藤野さんはもういない。藤野さんが私の小説を褒めてくれることはもうない。一ノ瀬さんのように、ずれた感想をくれる人はいても。
本当は気づいている。棚にしまってある香水は、もう半分ほどに減っている。
冷たくなった紅茶を一気に飲み干すと、声が勝手にこぼれた。
「……でも本当は、自信が無いのかもしれません」
眼鏡を触り、唇をなぞって、左手首からの藤の匂いに鼻をうずめる。
「このままこの香水も無くなって、藤野さんが本当にいなくなったとき、書き続けられるのか。どうして書くのか」
ほとんど囁くような声だったが、すべての言葉が一ノ瀬さんに吸い込まれていくのが分かった。
一ノ瀬さんは私をじっと見ている。あの人工的な黒い瞳で。私は顔を上げることができずに、藤の香りを見つめていた。
「そんな風に考えること自体、……書くのをやめたほうがいいということかもしれませんね」
それから一ヶ月ばかり、何も書かずに過ごす。
書かないでいれば書かないでいるで、それなりに日常は忙しく、働いて、本を読み、食事のことを考えているうちに日々は過ぎた。公園に行ってベンチに座ると、秋の日差しはあたたかく、風は涼しい匂いがして、藤の香りは遠い幻としてしか思い出せなかった。読もう読もうと思って手をつけたことのなかった日本の近代文学を図書館で借りてきて次々読んだ。
新宿の本屋で好きな作家が選書フェアをすると言うので出かけて行くことにして、久しぶりにツイッターを覗いた。一ノ瀬さんのツイッターは特に変わりないようだった。選書フェアのお知らせのツイートにいいねして、速水の新作を読みながら新宿に向かう電車に乗る。
三角形のことを考える。
本屋は広い。ここにある本の一冊一冊に著者がいて、それぞれの努力の末にこうして商品として売られている。その小さな市場に入ろうとなんとかもがいている人がいる。いずれその中に入る人もいる。そして私や速水のような、プロになることに何の興味もない、楽しみのために書いているアマチュアがいる。その広大な裾野。
一冊を手に取る。これが三角形の頂点。私の短い人生では、その頂点のほんの一部しか読めないのだと思う。志賀直哉すらつい最近読んだ私は、死ぬまでに何冊読めるだろう。このフロアにある冊数にも届かないに違いない。
それなのに、みんな人生には限りがあるのに、私の小説を読んでくれる人がいて、感想をくれる人がいて、それを喜べないどころか疎ましく思うのは、やっぱり間違っているのだろう。感情の動きは、間違っているからといってやめられるものではないけれど。
私のことなんて忘れてもっといい小説を読めばいい、と私は祈る。こんなことを考えたうえ相手にぶつけるような、失礼な人間以外の小説を好きになってほしい。これもまたわがままだ。
二冊選んでレジに持って行き、階段を降りると、そこに一ノ瀬さんがいる。
一ノ瀬さんのことを考えすぎて幻覚を見ているのかと思ったが、一ノ瀬さんは不気味なくらいいつもの笑顔で「螢田さん」と呼びかけてきた。
「はい」
「螢田さん」
「はい」
「……来てしまいました」
「……そのようですね」
警戒感が湧き上がる。たぶん私のいいね欄を見たのだろう。でもだからといって今日、確信もないだろうに、それもいきなり、来るか。一ノ瀬さんも私の警戒を見て取ったのだろう、一歩下がり、「どこか座りませんか」と外を指した。仕方なく後をついて行く。
土曜の新宿に座れるところなんてない。
さまよい歩いたあげく、二人ともくたくたになってサブウェイに入った。ホットの紅茶を前に、窓際の席に座る。私は念のため入り口側の席を取る。
「来ちゃって、すみませんでした」
言葉に反して、声には甘えるような響きがある。少しだけ鼻にかかった甘い響き。かわいい女の子として扱われてきた人の声だ。私は黙って紅茶で手を温めた。
「あの……螢田さんに言いたかったのは……私は、螢田さんの書くお話が本当に好きで、ずっと書いていてほしいと思ってるってことで、その……藤野さんて方みたいに、書く人に読んでもらわないとだめなのかもしれないですけど……」
少し長い前髪はきれいに巻かれて、白い額に均等に落ちている。丁寧にグラデーションされたアイシャドウ、太めの眉、どのパーツを取っても流行に丁寧に乗っ取ったメイク。落ちつかなげに唇やカップを触る指の、爪の色は彼女の推しのイメージカラー。
「蛍田さんの才能が失われるのは耐えられない。書き続けてほしいんです。私のために書いてくれませんか」
かわいい子だな、と思った。生まれつきの顔の造作とは関係のないところで発生するかわいさ。無害な小鳥。彼女の口から出る才能という言葉の、なんという薄さ。
「それはあなたに見る目がないだけです」
一ノ瀬さんは唇を噛んで黙った。その様子が小さな動物のようでかわいらしい。この女を言い負かしたい、痛めつけて黙らせたい、という気持ちが腹の底からせり上がってくるのを感じた。それに身を任せると、大きな声を出したときのような爽快感があった。
「私より上手い人、いくらでもいますよね。いいものが読みたいなら、プロの作品を読んではどうですか。ていうか、私、たいしたものも書けてないのに、あなたの感想はつまらないって思ってます。もっといい感想が欲しいって思ってるし、あなたを見下してるんです。とっても失礼な人間なんです。やめた方が良いですよ、こんな人応援するの」
言いながら恍惚としてきて、私はうっとりと目を伏せた。
一ノ瀬さんへの嗜虐心ではない。自分への嗜虐心だったのだ。言いながら傷ついている、自分に才能がないこと、ちっとも上手く書けないこと、よくできたと思った次の瞬間には裏切られていること。
もし私に本当に才能があって、もっと納得のいくものが書けていれば、一ノ瀬さんの的を射ない感想だって、何の引っかかりもなく流せたはずだ。この程度の感想しか得られない、この程度の文章だと、認めるのが辛いから気にかかるのだ。
瞼を閉じる。暗闇の中に美しい模様が見える。藤の花房のように規則的な模様。甘い香りすらしてくるようだ。
くつくつ、と音が聞こえた。
一ノ瀬さんの笑い声だと気づくのに、少し時間がかかった。目を開けると、一ノ瀬さんはおかしくてたまらないというように顔をゆがめて笑っていた。唇が大きくつり上がっている。
「螢田さんって、可愛いんですね」
声は相変わらず芝居がかっていたが、役が変わったように別人に聞こえた。艶と奥行きのある豊かな声。腹の中に別のなにかがいるような。
「才能はあって、自信はないくせに、選り好みしちゃって。ふふ。可愛い」
黒い目は細められて、大きな口は三日月のようだ。私が身を固くすると、一ノ瀬さんは大きく身を乗り出して、私に顔を近づけた。
「螢田さん――あなたの本当に好きなところを教えてあげます。過去をたくさん覚えているところです。それも鮮明に。子供時代を舞台にした話、あれみんな自分のことですよね。この間のバスケ部の話や、藤野さんの話だってそう。あなたに覚えられている人は幸福ですね。あんなふうに語ってもらえるなら」
奇妙な抑揚をつけた声で言って、またくすくす笑う。脇の下と背中に汗をかき始めているのに気づく。
「あのね、どうしてあなたにこうやってまとわりつくんだと思います? あなたに覚えていてほしいからです。私は絶対にあなたを忘れるから」
「忘れる?」と尋ね返す声がかすれている。気がつけば私は椅子の上で可能な限り身を引いている。
「そう。私、親友のことも初恋の人のことも忘れました。あんなに頑張ったはずのギターのこともほとんど覚えてない。多分あまりにも普通すぎるんですね。みーんな忘れてその場限りで生きていくんです。でもそんなのつまらないじゃないですか? 欠落がこっちにしかないなんて不公平です」
すねたような口調、いつもの幼い声なのに、ずっと年上の女が話しているようだ。
「だからせめてあなたの記憶に残りたいの、変な女として。そのためだったら私、私じゃなくなったって構わない」
ぬるりと手が伸びてきた。身を引くが、すぐに背もたれに突き当たる。椅子の足がこすれてギッと不快な音を立てる。彼女の指が私の頬に触れ、輪郭をなぞった。彼女に触れられているところが粟立つ。
「ねえ……まだ気がつかないんですか?」
何に、と聞き返すより早く気づいた。花の香り……甘いけれど穏やかな、藤の香り。彼女の手首から。
私が目を見開いたのを見て、一ノ瀬さんはにっこりと笑い、左手に持ったものをかるく振ってみせた。細い線で描かれた藤のイラスト。私の頬を包んだ彼女の右手から、気づいたとたん、むせかえるような甘い香り。
「メルカリにあったんですよ。探しちゃいました。……ねえ、螢田さん」
恋人がするように、顔をすこし引き寄せられる。一ノ瀬さんの瞳しか見えなくなる。
一ノ瀬さんの感想がつまらない理由が分かった。
この人はずっと、私の文章ではなく、私を見ていたのだ。
「これで、この香りをかぐたび、思い出すのは私のことですね」
その日から、一ノ瀬さんはどこにも姿を現わさなくなった。ツイッターの投稿はなくなり、いいね欄も更新されなくなった。pixivのアカウントは消えていた。掌編をアップロードしても、一ノ瀬さんからの反応はなかった。
次のイベントの申し込みをした。書きためた作品の数と文字数を計算し、書き下ろしを一編入れることにして、プロットの構想に入った。
仕事をして、ご飯を食べ、休日には散歩した。
失恋したという親友を慰めた。会社の飲み会に出た。セクハラを見かけたので相談窓口に電話した。高い化粧水を衝動買いした。爪を切り、セロリをだめにし、高校の友人の結婚式に出て、水族館でサメのぬいぐるみを買った。
毎日書き続けた。
気がつけば桜が散って、一ノ瀬さんと最後に会ってから四ヶ月が経っていた。
印刷の締め切りに余裕を持って書き終えた。校正は自分でした。体裁を整え、入稿し、イベントに出す本を告知するための画像を作り、無料配布のための掌編を書いた。小銭を貯め、机にかけるための布にアイロンをかけ、イベント当日を迎えた。
藤の香水をつけて家を出た。
印刷所から届く段ボールを開けるとき、いつも大きく息を吸い込んで、匂いをかぐ。切り立ての紙の断面とインクの匂い。世界にたった三十冊の私の本。
知らない人の警戒心を解くために、笑顔は意識してはっきりと。目が合ったら「こんにちは、よかったらどうぞ」と声をかける。近寄ってくれる人や手に取ってくれる人を見すぎないように注意する。買ってくれる人には大きく頭を下げ、丁寧な動作で本とおつりを渡す。何度もイベントに出て、そういうことが自然にできるようになった。一人でも多くの人に読んでもらいたくて。
行き交う人を、気づかれないように見つめる。みな大きめの鞄を持っている。談笑し、あるいはきょろきょろと見回し、パンフレットを見ながら歩き、ブースに立ち寄っては笑う、楽しそうな人々。
ふいに一人の女性が目に入った。かなりの高齢に見える。どこかのブースを探しているのか、ブース番号を確かめつつ、カートを押して歩いてくる。紐のない運動靴が祖母のものとそっくりだった。
女性はふと顔を上げ、私のブースに向かってまっすぐ歩いてきた。少し驚いて、じっと見すぎない、という鉄則も忘れて見つめてしまう。赤いカートを私の机の前に寄せて、見本誌も見ずに「新刊、一冊お願いします」と財布を取り出そうとする。
「あ、はい。ありがとうございます」
もたもたと用意しながら、女性を窺う。えんじ色のチュニックに、手作りだろうか、レース糸とコットンパールのネックレスがかわいらしい。女性は私の視線に気づくと、「螢田さん。いつも読んでますよ」と言った。
「えっ、そうでしたか、ありがとうございます」と答えながら、体温が上がるのが分かる。温められた香水の香りは、自分の体からというより、地面から立ち上っているように感じられる。
女性はローズピンクの唇でにーっと微笑み、「おばあちゃんの読者は初めて?」と尋ねてくる。私は思わず笑って、「あの、……はい。同世代ばかりだったので、意外でした」
女性はふふふと文字に書いたように笑った。「創作は想像の外から人を招き入れる窓だと言いますものね」
私がその言葉を咀嚼する前に、女性は「じゃあどうも、ありがとうございます」と言って、またカートを押して背を向けた。私は立ち上がって大きく頭を下げた。
しばらくぼんやりして、藤の香りに足を浸していた。
もう一度行き交う人を観察した。歩いているのは誰も彼も知らない人だった。知らない人、知らない人、知らない人ばかりだ。どんな人生をどんな生活を送っているのか、どんな気持ちで何のために創作に関わっているのか、知るよしもない。藤野さんも一ノ瀬さんも速水も、かつては知らない人だった。
次にやってきたのは私と同年代らしい男性だった。本を渡しながら、「どこで知ってくださったんですか」と尋ねてみる。少し戸惑ったような顔をしながら「あ、カタログ見て……」と答えて、そそくさと立ち去ってしまう。悪いことをしたかなと思いつつ次の女性にも同じ質問をすると、「実はツイッター見てて。あ、フォローはしてないんで知らないと思います」とにこやかに答えてくれる。会う人、会う人、同じ質問をしてみる。迷惑そうにして答えない人、前から読んでいるという人、表紙と目が合ったからという人、見本誌を見たという人、端から端まで買っているのだという人、いろいろな理由があった。その一人一人の顔を見つめ、目をのぞき込んだ。あの日の一ノ瀬さんのように。
六冊を残して、イベントの終わりを告げるアナウンスが響いた。二十四人分の顔が瞼の裏に渦巻いて、くらくらした。
仕事をして、調べ物をして、肌に合わなかった化粧水を友人に譲り、文章を書き、通販で売れた本を発送し、有休の手続きをした。アマゾンで買い物をし、速水と通話し、厚揚げを焼いて食べた。残業に次ぐ残業でなんとか仕事を終わらせ、冷蔵庫に残った卵を巨大なオムレツにしてかきこみ、出発した。
新幹線を降りてみると、仙台の空気はぬるかった。せっかくなので牛タンを食べずんだシェイクを飲んでから、さらに電車に乗る。仙台から数駅行った住宅街が目的地だった。
そのあたりを歩き回り、ちょうど良い公園を見付ける。藤棚の下にベンチがあって、散りかけの藤の花が少し積もっている。舞台装置のようだ、と思って、彼女のあの芝居がかった口調を思い出した。彼女はおそらく芝居に似たものを引き寄せる。
だから彼女は二日目の夕方に現れる。
私を見て立ち止まったが、表情はなかった。私も表情を作らないまま立ち上がり、手を振った。
「もう忘れてしまいましたか?」
一ノ瀬さんは少しだけ微笑んだ。「そうですね。もう、忘れるところでした」
私は藤棚の下のベンチに一ノ瀬さんを誘ったが、彼女は太ももの裏をベンチにあてるだけで座らなかった。以前より少し化粧が薄い。髪が少し伸びて、夕方というのにきれいなワンカールの毛先が鎖骨のあたりをくすぐっている。
「どうやって分かったんですか」と尋ねられたが、私は肩をすくめて答えなかった。新宿に現れたときの彼女と似たようなことをしただけだ。いまは彼女の本名も年齢も知っている。新しい苗字も。
「婚約おめでとう」と言ってみると、髪が浮くほど勢いよくこちらを振り返って睨みつけてくる。左手にはまだ指輪はない。
「何の用ですか」
私は大仰な動作で高く足を組み、その膝に頬杖をついた。あたりは暗くなってきて、子供たちも帰っていき、まばらに並ぶ遊具だけがひそやかに立っている。
「あなたはいくつか間違っていた」
と私は指摘する。
「この香りをかぐたび思い出せと言ったけれど――」とポケットから小さなアトマイザーを取り出して見せる。一ノ瀬さんが怪訝そうな顔をしたので、「ああ。持ち運びに不便だったので詰め替えてきたんです。中身はあの香水」と説明する。
「実は藤からは香水が作れないんですよ。これは藤の香りをイメージした香水にすぎない。ほら」と頭上の花房を指す。「違う香りがするでしょう? 比べてみますか?」
一ノ瀬さんは黙り込んで答えないので、どんどん続ける。今日は私が芝居のように話す番だ。
「それから、香水はつける人によっていくらか香りが変わる。私の肌につけたときとあなたの肌につけたときでは違う香りになる。プルースト効果のことを言いたかったんでしょうが、あなたの企みはそれほど効果的ではないと思いますよ。そんなことで思い出を奪取することはできない」
「そんなこと言うためにわざわざ来たんですか」
「わざわざ来たんだからもう少し言わせてください」
私は傍らに置いた紙袋を持ち上げて膝に乗せた。猫を撫でるように抱きかかえる。
「あなたのことが怖くてムカついて嫌だったので、一生懸命考えました。あなたと私の何が違うのか。藤野さんに執着した私と、私につきまとったあなたと、どんな違いがあるのか」
そして考えてみれば、あまり違いはないのだ。私は藤野さんの文章を通して、私を肯定してくれる誰かを見ていた。一ノ瀬さんは私の文章を通して、彼女を覚えていてくれる誰かを見ていた。彼女の執着が私にとって気味の悪いものであったように、私も同じ気持ち悪さを持っている。こうして同じように待ち伏せまでしている。
紙袋を差し出した。「開けてください。プレゼントです」
彼女は少しためらったあと、受け取った。中にはアマゾンの緑色のラッピング袋に包まれた箱が入っている。
「自己正当化できる言い訳を考えました。あなたは誰かの記憶に残りたい。私は誰かの記憶に残したい。それが違いです。だとしたら、私から言えることは一つだけ」
一ノ瀬さんがリボンを引いて中身を取り出す。四角い箱のなかには薄い機械が入っている――ポメラD200。文章作成のための小さなワープロ機。私が執筆に使っているものと同じ機種だ。
「あなたも書いてください。小説を」
一ノ瀬さんはしばらく絶句したあと、「こ……これだから……」と絞りだすように呟いた。
「これだから?」
「これだから、才能のある人は……! そういうことができるならとっくにやってるんですよ! できないからあなたにまとわりついたりするんでしょ!?」
藤の花が目の前に落ちてきて、私は片頬で微笑む。
「できないというのは、上手くできないということですか。上手にできない?」
「違います、私が書いてもしょうがないんです! 私の中には書くべきことなんて一つも無い、平凡で、今だけで、適当にやってるから!」
ポメラの箱を乱暴にベンチに置いて、一ノ瀬さんは両手で顔を覆う。あたりはすっかり夜で、傍らの街灯の光が彼女の頬を白く照らしている。
彼女がもうすぐ結婚するということを知って、初めに思い出したのは、才能、という言葉だった。私に才能があるとやたらに繰り返す彼女からは、自らの平凡さ、才能のなさを恨みつつ誇るようなところを感じていた。彼女はそれを恐れながら信じているのだ。
「だから書くんです。あなたが書くんです。平凡で、今だけの、あなたの小説を」
「ナンバーワンよりオンリーワンってやつですか? 花屋に並べられる花がある人はいいですね」と軽蔑を隠さず吐き捨てる。
「確かに、あなたがこれから書き始めたとして、ものになることはまずないでしょう」私はワンフレーズだけ歌った。「私もあの曲大嫌いです。オンリーワンであることに価値なんてありません。人によって香水の香りが多少変わっても、何の価値がありますか。それでも書くんです。なぜなら」
立ち上がって一ノ瀬さんに近づくと、彼女は肩を震わせたが動かなかった。吐息の触れる距離に来て初めて、彼女が私より少しだけ背が低いのが分かった。肩と肘とを掴んで、目をまっすぐにのぞき込む。
カラコンのない瞳が、街灯を映して光っている。
「あなたのことを知らないから。藤野さんじゃない、変で嫌で最悪なあなたのことを」
わざわざ窓を開けて、私たちは外を覗く。同じような窓を開けて、同じような香りをまとって。この窓である必要なんて、本当はなくても。それぞれの香りに価値は無くても、窓を開けないとどこにも行かない、その香りを知るために。
「あなたが書く意味は、あなたが書くから。どんなに平凡でも、同じような人が一億人いようとも、あなたにとってあなたはただ一人だからです」
一ノ瀬さんはぽかんと私を見つめ返していた。私はだんだん自信がなくなって、視線を泳がせ、さんざん迷った末、「……私にとっても」と小さい声で付け足した。愛の告白みたいになってしまったじゃないか。
一ノ瀬さんの視線が一瞬やわらかくなり、かと思うと急激に、怒りとも感動ともつかない感情が下瞼のほうからせり上がってくるのが見えた。彼女は私の手を振り払い、「どうしてここまで言うんですか」と呟いた。
「なんで私にそこまで言うんですか。私のこと、嫌いでしょう」
「そんなの」私はようやく安心して笑う。本物の藤の、甘やかな香りが肺を満たす。「私がそう思うからです。私がやってきたことを、肯定したいからに決まってるじゃないですか。私と同じことをやらせて、私を正当化したいからですよ」
一ノ瀬さんはベンチにどすんと座り、鞄から水のペットボトルを取り出すと、一気に飲み干した。しばらく膝の間に頭を落とした後、急に起き上がってポメラの箱を掴む。開ける方向が間違っていてポメラの本体が地面にたたきつけられそうになり、「うわーっ」と二人の声が重なる。
一ノ瀬さんの膝の上でポメラが開かれ、液晶の光が下から彼女を照らす。彼女の指先に、藤の花がひとかけら落ちてくる。
私はそれを少し離れて見ている。キーボードの上に手を置いて、どうしたらいいのか分からず苛立つ彼女を。ポケットに手を入れると、アトマイザーが触れたので取り出した。小さく投げ上げ、キャッチする。一ノ瀬さんは眉間にしわを寄せ、口元と手で押さえて、真っ白な画面をにらみつけている。投げ上げて、キャッチする。自分と、多分私への怒りを抑えきれない彼女を、今までで一番きれいだと思う。
投げ上げて、キャッチする。投げ上げすぎて、藤の枝に少し当たる。さらに強く投げ上げると、ぱさっという軽い音とともに、藤の花びらと香りが二人の頭上に降り注いだ。
藤が咲くたび思い出せ 六 @69rikka
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