藤が咲くたび思い出せ

前編

 螢田さんですか。

 と尋ねてきた声が少し震えていて、私は相手の緊張をなだめるように大きめに微笑む。

「はい、そうです」

「わあ、あの……いつも応援してます。私、一ノ瀬です」

 落ちつかなげにバッグの紐を握りしめているのは、私よりいくつか年下だろう、かわいらしい女の子だ。これが、と思いながら「あ、『いちのせ』さん。いつもありがとうございます」と言って立ち上がる。一ノ瀬さんの顔がぱっと明るくなり、「覚えててくださったんですか、嬉しい」と言う。

 ここ半年毎日のように私の通知欄に現れる「いちのせ」さんは、苺のイラストのアイコン。私が小説を投稿すると必ずブックマークといいねをくれる人だ。ニュアンスカラーに染めた髪を肩の上で切りそろえ、ややきれいめの服装に合わせて上品なトートバッグを肩に提げている。若くてかわいくて同人イベントに来慣れている。

 既刊と新刊を一冊ずつ買ったあと、一ノ瀬さんはトートバッグから小さな紙袋を取り出し、「紅茶がお好きだって聞いたので、良かったら……あの、お手紙も書いてきたので、中に入ってます」と差し出してくれた。「ありがとうございます」と手を伸ばして紙袋を取ったが、受け取れなかった。

 一ノ瀬さんが紙袋を離さない。

 ――顔が、思いの外近かった。

 黒目がちの大きな瞳だ。いや、カラコンを入れている。その瞳が私の瞳をまっすぐに見つめ、どこか遠く、一番奥の、何かを射すくめている。

 私の想像を超えた何かを。

 戸惑いは一秒にも満たなかった。一ノ瀬さんはすぐに手を離し、「お会いできて嬉しかったです。感想、書きますね」と小さくお辞儀して、人混みの中に消えていった。

 パイプ椅子に座り直し、少し首をかしげた。顎のほくろに触れ、眼鏡を直す。ミントグリーンの紙袋は何事もなかったかのように私の膝に収まっている。落ち着かない気分だったので、深呼吸した。自分の体に意識を寄せると、服の内側から香る藤の匂いが私を包んだ。


 螢田湯水の名前で小説を書き始めて六年ほどになる。就職活動の息抜きに始めたが、思いの外のめりこみ、小説を書く時間が十分取れそうな職場を選んだ。書くのは掌編や短編ばかり。こまめに小説投稿サイトにアップロードし、印刷所に頼んで本を作っては、年二回ほどイベントに出る。地味なストーリーと目を引くところのない文章で、ランキングとはほぼ無縁だが、長く続けていればそれなりに読んでくれる人も現れる。イベントでは三十冊ほどをさばいた。実力に対して妥当な数字だと自分では考えている。

 だから、こういう手紙をもらうのは初めてではない。

 風呂から上がったあと、残部と釣り銭と差し入れを整理する。一ノ瀬さんのくれたティーバッグは苺の香りの紅茶だった。一ノ瀬さん以外にも二人、知り合いがお菓子とお茶をくれた。それぞれ台所の引き出しにしまって、最後に一ノ瀬さんからの手紙を開く。

 小花柄の便箋に小さな文字で、螢田さんの文章がとても好き、先日アップロードしていた短編では思わず泣いてしまった、というようなことが書いてあった。

 書いてはあったが、うまく内容がつかめず、もう一度頭から読み返す。

「スカートを翻すところの描写なんて、え……天才……? って呟いちゃいました。本当にどうしてこんな文章が書けるんだろうっていつも思います。才能がすごすぎて……語彙力分けてください……!」

 スカートを翻すところの描写とやらがどの文のことか分からず、しばらく考え込んだ。たしかにラストシーン近く、主人公が振り返るところでスカートのことを書いたような気がするが、こんなに褒められるほどの文章だっただろうか?

 アカウント名は書かれていたが、IDは添えられていなかった。「覚えててくださったんですか」とは言っていたが、当然誰だか分かるはずだと思ったのだろう。スマホでツイッターを開いて通知欄を見ると、一番上に彼女のアイコンがある。タップすると、「今日はお疲れさまでした!いろんな人と会えて嬉しかった~!」との投稿に、私のものを含む数冊の冊子の写真が添えられている。いいねを押して更新すると、「あこがれの螢田さんに会えたのも嬉しかった……螢田さんマジの美女だった……」というのが追加されていて、どういう表情をすればいいのか悩む。そちらの投稿はスルーして、「イベントに来てくださったみなさま、ありがとうございました。通販は少数ですが明日から開ける予定ですのでよろしくお願いします。」と投稿する。すぐに二人からいいねが飛んできて、そのうちの一人はもちろん一ノ瀬さんだった。

 ふと思い立って、一ノ瀬さんのアカウントを見直す。体感だが、一次創作小説を読む人の過半数は何らかの創作をしている人だ。特に私のような弱小サークルの本を買うのは。しかし、一ノ瀬さんはその例外のようだった。pixivのアカウントはあるが、投稿はない。

 ベッドに横になり、そのままだらだらとツイッターを見続ける。仕事とは違うタイプの疲れにやわらかく押しつぶされて、このまま寝てしまいそうだ。

 誰かがリツイートした文章が目にとまった。曰く、創作・発表をする人はもれなく感想に飢えている。誰かの創作が好きだと思ったら一言でもどんな感想でもいいから書いて渡そう、創作者はそれさえあればどこまでも行けます、とのこと。年に一度ほどは誰かが同じようなことを言って同じようにバズる。

 でも、そうなのだろうか。目を閉じて、藤の香りを思い出す。感想は嬉しい。ありがたいなと思う。でも一ノ瀬さんの感想は、女子校時代の後輩たちのことを思い起こさせた。

 私の親友はいわゆる女子校の王子様役で、確かにきりっとして整った顔立ちと素敵な声をしていたが、内面は格好いいというより繊細な人だった。手紙やバレンタインのチョコレートをもらうたび苦笑いして、私のことなんて知らないのに、どうして好きだなんて言えるんだろう、と言っていた。特に迷惑な好意を受けたときには、どうしても何も、何にも考えてねえんだろうな、と吐き捨てていた。その何にも考えてない女の子に、一ノ瀬さんとその感想は似ているのだった。

 そこまで考えて、はっと目を開けた。これは、いくらなんでも失礼すぎる。何も知らないわけじゃなくて、ちゃんと私の小説を読んで、その上で好きだと言ってくれているのだ。自分の褒められたいところと相手の褒めたいところがずれているからといって、こんな風な拗ね方はよくない。そう、拗ねているだけだ。一ノ瀬さんが悪いわけではない。

 起き上がって、洗面所の鏡を開けた。イベントの時や不安なときにだけ使うことを自分に許している香水瓶には、藤の花のイラストが細い線で描かれている。空中に向かってプッシュし、その霧の中をくぐり抜ける。慣れた香りが肺を満たす。柔らかくて甘い、華やかではないが美しい香り。

 藤野さん、と呟いた。声は霧と共に消えた。


 二次創作はほとんどしないのだが、好きな漫画の好きなカップリングのアンソロジーに誘われて承諾した。そのとたんに仕事が忙しくなり、珍しく遅くまで残業するのでなかなか書く時間が取れない。金曜の十二時、同じアンソロジーに参加予定の友人が開けているdiscordでもうだめだ、もう間に合わない、とうめいていると、一ノ瀬さんが音声通話に入ってきた。

「あー、一ノ瀬さん」と友人の速水は明るい声を出し、「どうもです。入って大丈夫でしたか?」と一ノ瀬さんも慣れた声だった。

「ほたるさん、一ノ瀬さんと相互だっけ」

「うん相互。一ノ瀬さん、イベントではありがとうございました」と言うと、「螢田さん! こちらこそです、ご本読ませていただいてて……あの、通話入って大丈夫でした?」ともう一度聞く。ぜんぜん大丈夫ですよ、と言わせたいのだろう。

「いや、今度のアンソロが間に合わなさそうで焦ってたところで……十四日が締め切りで」

「励ましてあげて、マジでギリギリなんだって」と速水の声は明らかにニヤニヤしている。「いや、間に合いはしますよ。間に合いはするんですけど、私余裕もって仕上げて見直したい派なんですよ。速水とは違うから」

 こうして喋ってないで書けって話ですけどね、とエディタをスクロールする。起承転結で言うと起が終わったあたりだ。

「螢田さんは、普段どうやって書かれてるんですか?」

 明るい声音で一ノ瀬さんが聞いてくる。そうですねえ、と少し考えてから、「まずざっと最後まで書いて、時間置いて見直して四分の一くらい書き直して、また時間空けて見直して書き直して、その繰り返しですね。本当は校正にも二週間くらいかけたいなあ、書くときは急いで書くぶん、誤字脱字がすごく多いので……」と答える。一ノ瀬さんは細かく相づちを打っていたが、「なるほど……」と言って黙った。書かない人にはそれ以上コメントすることもないだろう。

「速水は頭から最後まで全部決めてから書くんだもんね。私もそれができたらな」

「その分書き出すまで七転八倒よ」

 だらだらと雑談を続け、一時を回ったところで速水がもう寝ると言い出した。私もだいぶあくびが止まらなくなってきたので、エディタを閉じる。じゃあおやすみなさい、と挨拶を交わしているところで、一ノ瀬さんが「あの、一瞬だけいいですか」と袖を引くようにやや甘い声を出した。

「良かったらなんですけど、校正やらせてくれませんか」

「……校正ですか?」

「私、誤字脱字見つけるの得意なんです。何回も書き直すんですよね、きりのいいところで渡してもらえたら何回でもやり直します」

 どうやって断ろう、と考えた。校正が嫌なのは本当だが、人に頼むほどではない。「ああ……お気持ちはありがたいですが……お礼もできないですから」と言うと、「いや! 下心めっちゃあるんです、好きな人の文章どう変わってくのか、すっごい見たいんですよ」と語気を強められた。この人はいつもお芝居のような喋り方をする。

「……何回もお願いするの申し訳ないですし」

「全然大丈夫です!」

 やわらかい苛立ちが上ってくるのを感じたが、もう退出したと思っていた速水が「いいじゃん、今回だけ頼めば?」と私より面倒くさそうに言うので、抵抗する気が失せた。「じゃあ……遅くとも週明けには第一稿が出せます。それでいいですか」と言うと、一ノ瀬さんの声は花が咲くように輝いた。


 一ノ瀬さんの校正は予想以上に質が高かった。単なる誤字だけでなく、表記揺れや登場人物の一人称の誤りも指摘が入る。一方でストーリーや文章そのものについてはまったく触れず、感想も言ってこない。第一稿の半分ほどを書き直した第二稿を渡しても嫌な顔ひとつせず、ややこしい指摘は音声通話でわかりやすく説明してくれた。おかげで無事に脱稿し、アンソロジーの主催者からの評判も上々だった。

 これだけ丁寧に読んでくれていて、なぜ彼女の感想は的を外しているのだろう。

 この間のイベントで頒布した本についても、少し前に感想を送ってくれていた。五本入った短編のひとつひとつについて書いてくれたが、どれも突き詰めれば「感動しました」「個性的ですごい」「語彙力がある」としか言っていない。何に感動したのか、個性的とはどういうことなのか、語彙力っていったい何なのか。テーマには触れず、読んで思ったことや考えたことは教えてくれず、「才能」という言葉が頻出する感想を読んでいると、そればかり考えてしまう。

 プチオンリーイベントを一回りし、アンソロジーの本を受け取って、会場の外で一ノ瀬さんを待っている間、自分に言い聞かせ続けた。思ったような感想がもらえないのは自分の実力不足で、拗ねたすえに相手を軽んじるのはよくない。少なくとも校正をしてもらったことで、ろくに読んでいないんじゃないかという疑いは晴れたのだ。読んでくれている人に感謝以外の気持ちを持つのは恥ずべきことだ。

 深呼吸し、藤の香りを吸い込んで、気持ちが落ち着いたところで一ノ瀬さんと合流した。透け感のある深緑色のトップスを着て、心底嬉しそうな笑顔をこちらに向けている。私も大きめの笑顔で出迎えて、数駅先の喫茶店に入った。

 無事脱稿したとき、校正のお礼を何か渡したいと言ったのだが、一ノ瀬さんは本以外は何も受け取らないと主張した。しばらく問答したあと、あのお芝居のような声音で「じゃあお茶でもおごってください」と言われ、しまった、と思ったものの断れなかった。一ノ瀬さんがあらかじめ調べておいてくれたカフェは外観も内装も愛らしく、周囲は若い女の子ばかりだ。

 それぞれのケーキが運ばれてくるまでの間に本を渡すと、一ノ瀬さんは身を乗り出して、「ずっと感想言うの我慢してたんですよ!」と言う。

 一ノ瀬さんは本をめくって、ここの文章が良かった、と指してくれたが、特に何の考えもなく書いた一節だったので微笑むに留めた。

「みんなかわいくて、高校時代を思い出すっていうか、青春! って感じできゅんきゅんしちゃいました」

 と言ったのを見計らって、「一ノ瀬さんは、どういう高校生だったんですか」と尋ねた。一ノ瀬さんは笑顔のまま、「え……どうって、普通です」と答えたが、声は少しこわばっていた。

「普通にもいろいろあるでしょう、何部でしたか?」納得のいかない感想を聞かされるより、よく知らない人の話を聞いた方がずっと面白い。

「えーっと……」とようやく笑みを消して、一ノ瀬さんは窓の外に視線を泳がせた。ちょうどケーキと紅茶が運ばれてきて、配膳と写真撮影が済んだ頃、一ノ瀬さんは「あ。ギター部でした」とたった今思い出したかのように言う。

「ギター部?」

「クラシックギターっていうんですか。何人かで合奏するんです」

「へえ、うちの高校にはそんな部なかったな。強かったんですか?」

「……まあまあ、ですかね?」

「すごいじゃないですか。今はやらないんですか?」

「あー、まあ、もう弾けないと思います、全然」

「そういうものですか。体で覚えてるんじゃないですか」

「いや、そういうものかもしれないですけど、私は弾けないです」

 微妙な言い方だったので聞き返そうとした瞬間、「螢田さんは?」と聞き返された。話したくないらしい。

「バスケ部。まあまあ……かなり下手でしたね」

「あはは、運動部ちょっと意外です」

「友達に誘われて……割とゆるい部だと言うから入ったんですけど、その友達が背が高くて上手で、一年からレギュラーになったら結構勝ち進んでしまって。次の年からはガチっぽい子が増えてしんどかったな」

 引退までついに一度もレギュラーにはなれず、私の主な仕事は後輩たちの練習指導と、エースとなった親友のサポートだった。彼女の外見とコートの中での振る舞いしか知らない後輩たちは想像もできなかっただろう。彼女はちょっとしたことでひどく落ち込み、よく泣いていた。「もういい、イラスト部に転部する」と言うのを何度なだめたことか。今でもよく思い出す。

「お好きだったんですね、その人のことが」

 と一ノ瀬さんが言う。

「そうですね。とても」

 一ノ瀬さんはしばらく黙っていたが、「今でもお好きなんじゃないですか?」と尋ねてきた。何を言われているのかしばらく分からなかったが、彼女に恋しているのか、という意味だった。まさか、と私は笑った。「上下のない姉妹のような感じですよ」

 私たちは毎日一緒に練習し、ご飯を食べ、漫画を回し読みしては感想を語り合い、くっついて眠り、慰め、励まされ、ほとんど自分と彼女の境目が分からなくなるほどだった。漫画の趣味がとても合って、彼女の好きなキャラクターのことを私も好きだった。彼女を慕う後輩たちへの薄い軽蔑も、もともと私のものだったのか、それとも彼女のものだったのか、今となっては判然としない。

「ただ……別々の大学に入って、少し離れてみると、彼女と私はまるで似ていないってことに気づいたんです。今でもたまにおしゃべりしますけど、あのころほど深く結びついている感覚はもうないですね。彼女は小説をまったく読まないので、私の文章も読んでいないはずです」

「ああ、たまに会ってるんですね?」

「なにかあるとすぐ電話かけてきますね、仕事辛いらしいです」

 ケーキを食べ終えて、「恋の話が聞きたいんですか?」と尋ねた。一ノ瀬さんはきょとんとして、苺を刺したフォークを空中にとどめている。

「恋の話……ですか」

「あれ、違いますか。女の子は恋バナが好きかと思って」

「螢田さん……小説のときの繊細な話運びはどうしたんですか。認識があまりにも雑じゃないですか?」

「一ノ瀬さんは、私のことを知りたいんでしょう?」

 一ノ瀬さんの大きな瞳が少し冷えた。

「本当は、一ノ瀬さんのことを知りたいと思って来たんです。でも一ノ瀬さんはあんまり喋りたくないみたいだから、私の話をしてもいいですか?」

 彼女はは表情をやや固くしたまま小さく頷いた。私の好みではないイヤリングが揺れた。

 それでも本当に言うか、少し悩んだ。さっきあれほど、彼女への苛立ちを抑えようと自分に言い聞かせたのに。今言おうとしているのは、結局彼女にそれを押しつけることだ。

「恋ではないけど、恋に似てるくらいに思っていた人がいます。藤野さんという人です」

 スマホを出して、藤野さんのツイッターアカウントを開いた。更新は三年前で止まっている。一ノ瀬さんに画面をちょっと見せると、彼女は真顔のまま首を傾けた。

「本名はもちろん、どこで何をしている人なのかほとんど知りません。たぶん女性で、小説とエッセイを書いていることくらい。私の中で彼女に顔はありません」


 藤野さんのアカウントをフォローしたきっかけはもうほとんど思い出せない。多分小説を書き始めたころ、一次創作をしている人を片端からフォローしたのだろう。同じように、藤野さんがいつフォローを返してくれて、いつからそれなりに会話をするようになったのかもよく分からない。

 彼女が書くのは、ジャンルとしてはソフトSFだったが、ファンタジーに見えるときも純文学に見えるときもあった。力強くスピード感のある文章で思いもかけない結末に着地する。不親切に見えるほど切り詰めた文体、途中のストーリーをカットしたのではと思えるほどの跳躍、小説は短ければ短いほどよいと信じているらしかった。少ないが確実なファンがついていて、私もすぐその一人になった。

 藤野さんが初めて書いてくれた感想のことはよく覚えている。

「面白かったです。一本の薔薇によって一瞬で世界が変わってしまう、その鮮やかさにしびれました。次の話も待っています」

 まず、誰も私の小説など読んでいないだろうと思っていた。よく書けたと思ってもアクセス数やブックマークの数字はほとんど伸びず、感想をもらうことはほとんどないと言ってよかった。

 そんな中で、あの美しい文章を書く人から褒められた、と思うだけで胸がかっと熱くなったが、それ以上にその短い感想が私を驚かせた。薔薇について、たいした考えがあって書いたわけではなかったからだ。

 しかし改めてその作品を読み返して見ると、「一本の薔薇によって世界が変わってしまう」という指摘はまったくその通りだった。そうだ、薔薇は愛と、それによる世界の変貌の象徴に決まっている。どうしてそれが書いている自分に分からなかったのだろう。そしてこの人はなぜそれを過たず言い当てられるのだろう。興奮のあまり部屋の中で立ったり座ったりを繰り返し、結局「ありがとうございます。次も頑張ります」とだけ返信した。

 その日を境に、私の小説は格段に良くなった。なぜここで起きた出来事が重要なのか? この登場人物はなぜこのような発言をしたのか? 何が何の象徴なのか? 私の中に答えはあっても、それを直視することがなかった。しかし羅針盤を得た今、登場人物に一貫性を持たせ、テーマに奉仕するようなモチーフを盛り込み、意図を示唆するよう文章を整えることが可能になった。それによってかえって頭でっかちになり失敗してしまった作品も数え切れないが、しかし全体で比べれば、勘で書いていたときに比べて明らかにエッジが立ち、輪郭がはっきりしている。書けば書くほど面白くなって、次々に投稿した。ブックマーク数もフォロワー数もぐんと増えた。

 藤野さんがカーテンを開けてくれたのだ。開け放たれた窓を通して私の文章に風が通り、屋外の美しい景色が見えた。外の人たちと会話もできた。

 藤野さんが感想をくれるのは特によく書けたものだけだった。

「風邪の描写が良くて、私の喉まで痛くなってきました」

「彼らはこれから海を見るたび言わなかった言葉を思い出すのだろうと思いました」

「一文目の勢いが好きです」

「この世から音が消える日のことを考えてしまいました」

 どれも一言二言の短いもので、確実に的を射ていた。的は私の意図したものであることもあれば、あの薔薇のように意図しないものもあった。私よりも私の文章を分かってくれている人がいるというのは、頼もしかった。

 いつしか私は、藤野さんに褒められることを目標にするようになった。

 嬉しい感想を書いてくれるから、というだけではない。力量がついた――と言えるほどのものではないにせよ、自分が書くことに慣れてくると、藤野さんの文章の良さがさらに分かるようになった。簡潔にして雄弁、少ない文字数で多い情報量を伝える術を知っている。エッセイになると文体は急にやわらかくユーモラスになる。街で見かけた人のことや家族との思い出を書いたブログは、小説よりも人気があったようだ。ツイッターもそちらに寄っていて、眠いとかお腹がすいたというようなぼんやりした日常ツイートはひとつとしてなく、誤字すらもほとんどなかった。いつまでも安心して読んでいられる。

 かなり過去まで遡ってツイートを読み、新しい投稿を見逃さないようリストに入れた。毎日藤野さんの文章に浸った。まるで恋のように。

 この人に認められたい。この人に失望されたくない。

 偶然見つけてもらったことを無にしたくない。

 文学フリマに出ます、というツイートを見たのは春だった。二次創作でのイベントのことは知っていて、友達と一緒に行ったこともあったが、一次創作でのことはよく知らなかった。藤野さんのお知らせの文章をまじまじと読んだ。

 同じ頃、藤野さんが、ある化粧品ブランドの新作香水を「欲しい」と言っているのを見かけた。期間限定の藤の香りだという。彼女は藤にまつわるものを集めているらしかった。「オンラインだと即売り切れだろうけど近くに店舗ないし厳しいかも」と言っているのを見て調べてみると、私の家のわりと近くに直営店があった。

 二サイズあるうち、小さい方の価格は三千円ほど。差し入れにしては少し高いけれど、感謝を伝えるなら、藤野さんの喜ぶ顔を見られるなら、いいんじゃないか。

 顔?

 そこで急に心臓が高鳴った。そうだ、藤野さんは生身の人間なのだ。顔があり、ものを食べて、香水をつける体がある。文章の化身ではないのだ。

 そう思うと、藤野さんの小説もツイッターも、急に違って見えてきた。どんな人だろう? どんな声をしているんだろう? 考えてみても、具体的なイメージはわいてこなかった。

 藤の香水は発売日に手に入れた。テスターをかいでみると、藤野さんの文章に似つかわしい、品のいい香りがした。この人に嫌われたくない、と、また思った。

 しかし、本物の藤の香る文学フリマ当日、ブースには誰の姿も無かった。

 パイプ椅子は閉じて机の上に置かれていた。私は四回ほど前を通り過ぎ、ついに意を決して隣のブースの人に尋ねてみると、「来てないみたいですね」とだけ言われた。他のブースを見て回り、タリーズでお茶を飲み、見本誌のコーナーで時間を潰して、それでも最後まで藤野さんは来なかった。ツイッターは前々日の告知を最後に更新されていなかった。いいねもしていないようだった。

 それきり、藤野さんはツイッターからもすべての投稿サイトからも姿を消した。

 事故にでもあったのか、すべての人から縁を切りたくなったのか、最悪の事態や冗談のようなシチュエーションを想像して、勝手に落ち込んだりあきらめようとしたりした。藤野さんが黙って見ているのではと想像しながら、共通のフォロワーと「どうしたんでしょう」「心配ですね」とリプライを交わし合った。

 半年が過ぎ、藤野さんのことは誰の口の端にも上がらなくなり、私の作品数は五十を超えた。

 あるとき、やけくそのようにキーボードを叩いてできあがった掌編が、普段の五倍のアクセス数を得た。感極まった様子の感想がいくつか来た。どうやら私よりフォロワーの多い誰かが紹介してくれたらしかった。しかし、自分で読み返してみてもいいのか悪いのかさっぱり分からなかった。作品との距離がうまく取れないのだ。更新ボタンを押すたびアクセス数はどんどん増えていく。

 仕事で疲れ切った木曜日の深夜、コンビニに走って印刷した。紙に印刷されたものを読むと、確かに悪くないように思われた。しかし次の瞬間、耳元で声がした。藤野さんはどう言うかな、と。

 重たい体を引きずって、しまい込んでいた紙袋を取り出した。ギフト包装を破き、小さな瓶を眺めて、天井に向かって一噴きした。

 藤の香りが降ってきた。

 目を閉じて、嗅覚に身を任せた。不可視の藤棚の向こうに、藤野さんがいる。ねじれた樹、絡まり合いながら腕を伸ばす枝。カーテンのように垂れ下がる花房のひとつひとつから、やわらかな甘い香りが漂ってくる。想像の中の藤野さんには顔がない。ただ空気の動きだけがある。

 藤野さんがいなくなっても、気持ちが消えていないことが分かった。――この人に認められたい。

 目を開けて、深呼吸した。

 初めての本ができあがったのはその三ヶ月後だった。藤の香水をつけてイベントに出た。文章と身体が分離してしまいそうな時には、藤の香りの中で呼吸した。この香りが藤野さんそのものであるように感じられた。

 そして三年が経った。


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