春を紡ぐ

御宮ゆう

春を紡ぐ

 今年の桜は例年より早く咲き始めていた。

 薄ピンクの花弁が蕾から顔をのぞかせて、俺を静かに見下ろしている。

 地元で有名な桜の名所。この辺りはあと一週間も経てばブルーシートで埋め尽くされていることだろう。


「懐かしいな」


 誰に語り掛けるでもなく、俺はぽつりと呟いた。

 言の葉は風に吹かれて、春空へと吸い込まれていく。


「懐かしいとは言っても、前の帰省から半年しか経ってないやん」


 隣に並んで歩く弟が、こともなげに返事をした。

 俺の今しがたの発言が自分に宛てたものだと思ったらしい。


「半年しか経ってない、か。そう言うお前は、それだけの間を地元から離れたことあるのかよ」


 からかうような口調で問い掛けると、弟は少しムッとした表情を浮かべる。

 しかし特に反論は思い浮かばなかったらしい。弟は開けた口から何も発することなく、一度押し黙った。

 弟は有名大学へ進学した優秀な頭の持ち主だ。

 本人にその自覚はあまりないようだが、もう少し自信を持てばいいのにと常々思っている。


「兄ちゃんの調子はどう?」

「ああ、まぁ上々だ」


 俺の回答に弟は何の反応も示さなかったので、続けて言った。


「結果も出てるしな」

「営業で?」

「そうだ」


 社会人になってからの三年間を営業職として過ごし、成績は同期の中で常に上位だ。

 それを伝えようとしたが、既に弟の興味が何処かへ逃げているのを感じ取り、俺は言葉を飲み込んだ。 


「まあええわ。あんまり上手くいってる話してもおもんないやろうしな」

「いつの間にか関西弁に戻っとる」

「え?」


 唐突な言及に間抜けな声が出た。

 弟は気にした様子を見せずに、俺に教えてくれた。


「兄ちゃんの話し方。さっきまで標準語やったで」

「まじか。東京に染まってもうた」

「ええなあ、東京」

「せやろ。それより、お前の近況はどんな感じなん?」


 俺の質問に弟はぎこちない笑みを浮かべた。

 春にしては冷たすぎる風が、弟との間を通り抜ける。


「俺は、普通かな」


 ──普通。

 これ程曖昧な単語も珍しい。

 普通という概念は人それぞれ基準が異なる。何を指して普通と言っているのかも不明瞭だし、質問への答えになっていない。

 しかし何となく伝わるものがあった。

 あまり明確な言葉にしたくない。言葉にして、改めて実感したくない何かがある。


「お前が選んだ道やろう。こんなとこで迷うなや」


 俺は普段より僅かに鋭い口調で、弟へそう言った。

 弟は大学を辞めた。

 あれだけの時間を積み上げてやっと手に入れた有名大学への進学。その学歴を放棄したのだ。

 理由は作家になるというものらしい。

 確かに俺が帰省する度、弟は自室に篭ってパソコンと睨めっこしていた。

 才能があるなら活かせばいい。

 そう思っていたものの、それは大学を卒業してからの話だった。

 まさか途中で退学することになるとは。

 すると弟は俺から視線を逸らし、川の方向を眺めた。


「いや、別に迷ってる訳ちゃうけど」


 小さな声だった。

 純白の羽毛に身を包んだ白鷺が、両岸から配置されている飛石に着地する。二人で暫く白鷺の動きを眺めた後、俺は漸く言葉を返した。


「迷ってる暇あるなら頑張れや。それが好きなことなら、尚更死ぬ気でな」


 再度俺が告げると、弟はおもむろに頷いた。


「まあ、せやな」


 たった二言の返事。

 再度言葉を投げようとしたが、今はこれ以上言わない方がいいかと思い直す。俺の自己満足になっては意味を成さない。


「じゃあ帰るぞ。今日は二人きりやし、一日ゲームでもすっか」


 そう言うと、弟はニヤリと口角を上げる。

 現金なやつだ。


「ええなそれ。親おったら夜までできんしな」


 久しぶりの帰省だというのに、両親は二人だけで旅行中。

 しかし俺には少しありがたい。

 こうして弟と二人きりで過ごすのは、随分久しぶりのことだった。


「晩飯はどうする?」

「あー、家に緑のやつ大量にあるで。兄ちゃん帰省するからいうて、母さんが張り切って買い込んでる」


 弟の呟きに、俺は口元が緩める。

 "緑のやつ"とは、恐らく緑のたぬきのことだろう。

 それは俺の好物だった。

 共働きの実家では、母さんの帰りが遅い日にはインスタント食品で腹を満たす日も少なくなかった。緑のたぬきは、その中でも最も多く胃に入れたものだ。

 覚えてくれていたことへ気恥ずかしさを覚えながら、俺は口を開く。


「そんで、深夜には赤いきつねやな」


 弟は空を仰いで「それ罪深いわ〜」と顔を綻ばせた。

 弟は赤派で、取り合いにならずに済んだ。

 そんな懐かしい思い出に浸りながら、俺と弟は帰宅する。

 お互い身を寄せながら、小さめの玄関で苦労して靴を脱ぎ、やっとのことでリビングへ入る。


「飯や、飯」


 すぐに弟が何処からともなく緑のたぬきを二つ持ってきて、電気ポットからお湯を注いだ。


「電源入れっぱやったんかい」

「散歩中くらいええやん」


 弟は笑いながらお湯を注ぎ続ける。縁の部分までたっぷり入れるのが弟の癖だ。

 俺の分までやってくれているのを見て、珍しいなと思う。いつもは自分の分しかお湯を入れず、よく喧嘩していたものだ。

 実家にいる自分が客人のような扱いをされることに僅かな寂しさを覚えつつ、俺はかつての定位置へ座る。

 弟はお湯がたっぷり注がれた容器をおもむろに食卓へ運んで、俺の正面に座った。


「さあ、三分の待機時間や」


 俺が掌を擦って口角を上げる。

 既に食欲を唆る香りがリビングに漂い始めており、久しぶりの"緑"に気持ちが昂る。

 しかし、弟の表情は暗かった。


「……母さんら、俺のこと応援してくれるんかな」


 声色からは心配の色が窺えた。

 ……やっぱりな。


「そら応援するやろ。家族やで」


 俺が答えると、弟は目を瞬かせて蓋をした容器を眺め続ける。

 返事をする気配がないので、俺は続けた。


「父さん母さんも厳しいこと言うけど、お前が勉強頑張ってた時は応援してくれてたやろ。お前ももっと頑張る姿を二人に見せたら、応援してくれるやろし……お前も自信出るはずや。今お前、自信喪失中やろ」

「……そうなんかな」

「やないと近況報告で"普通"なんて言葉出るか。もうちょい長めに話すのが"普通"やぞ」

「……そんなこと」

「ある。お前、やっぱり迷っとる」


 弟の思考回路は今しがた薄っすらと伝わってきた。

 本当にこの道を選んで良かったのだろうか、自分は間違っていないのだろうか──ふとした瞬間、そんなことが頭に浮かぶのだろう。

 誰だってそういった思考に支配されることはある。

 しかしいつだって答えが判るのは時間が経過してからだ。

 時間が経って、振り返った後に漸く結論を出すことができる。

 最も大切なのは過去ではなく、今をどう未来に繋げるか。

 道中でいくら悶々としていても変わらない。最も自分を良い答えに導いてくれるのは、只ひたすらに行動のみだ。

 勉強するという行動。

 環境を変えるという行動。

 与えられた目の前の環境で全力を尽くすという行動。

 それを伝えるのは、きっと兄としての役目だ。

 無論同じような言葉は既に何度も両親から与えられているはずだ。

 しかし本人に届くまでにはまだまだ多くの時間を要するに違いない。

 言葉というのは一枚岩ではない。その日のうちに届くこともあれば、何度も何度も繰り返してやっと届くこともある。

 親からの言葉というのは、いつだって後者。

 時代や生きてきた歳月の差異は、互いにとって壁となる。

 親から子供の姿が見えないのと同時に、子供からも親の姿は見えていない。

 しかし兄は違う。

 数年程度の薄い壁なら、その気になれば破ることも可能だ。

 親からは届けられない言葉でも、兄からなら。


「皆んな頑張っとるねんで。俺らがこうやって普通に食卓を囲めとるのは、父さん母さんが頑張ってたからや。父さん母さんが今日まで生きれとるのは、元を辿れば爺ちゃん婆ちゃんが頑張ってたからや」


 俺は弟に向かって両手を広げる。


「今の日本があるのも、先人方が頑張ってたからや。全部全部繋がってんねん。だから過去に感謝しつつ、俺らも未来のやつら支える為に頑張るねん。やから、行動せえ。迷いを打ち切れるのは行動や」


 仰々しい印象を受けたのか、弟はある程度は納得した様子を見せながらも、最後にはやはり疑問が残ったように訊いてきた。


「本の仕事は俺がやりたいだけやねんけど。それでも誰かの支えになるんか?」

「娯楽の力嘗めんなよ。お前はまだ分からんかもしれんけどな、働いてる時アニメとかドラマとか本とか、そういう娯楽が心の支えの人が山ほどおるねん。精神的にしんどい時も、娯楽を楽しみに明日まで生きれるんや」


 忙殺するような日々を過ごしていると、何のために働いているか分からなくなる時がある。その際娯楽は「この瞬間にこの一週間頑張ったんだ」と自分を納得させてくれる。

 そんな娯楽を創るのは誰かの支えになるに決まっている。

 そしてどんな分野でも同様、辿っていけば誰かの支えに繋がっているはずだ。


「自分の頑張りはな、全部誰かに繋がっていくねん。自分のおかげで頑張れたってやつが、目に見えんところで一杯おるんやで」

「……この緑のやつ作ってる人らも、頑張っとるってことか」

「そやで。おかげで俺ら、受験勉強頑張れてたやろ」


 勉強を頑張ったご褒美として、深夜にこっそりと食べる緑のたぬき。

 たったそれだけの食事が、一日一日のモチベーションを繋いでくれた。


「見ず知らずの人たち頑張りの結晶の一つが、これなんやで」

「……せやな」


 弟は、いつになく神妙な顔で頷いた。


「それは、そうや」


 弟は言葉を繰り返して、噛み締める。


「父さん母さんも、知らん人らも皆んな頑張っとる。迷う暇あったら──」

「俺も頑張らんとあかんってことやな」


 弟は俺の言葉に被せて言った。

 思わず頬が緩む。

 ほら、届いた。

 人の頑張りは言葉と同じだ。

 時間をかけて、また人へと届く。

 そうしてこの世界は紡がれてきたのだ。


「……最後まで言わせろや」


 俺は照れ隠しで軽く笑ってから、容器の蓋を開けた。

 中に溜まっていた湯気が霧散して、視界を白く染め上げる。

 芳ばしい天ぷらの香りが、俺たちの鼻腔をくすぐった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

春を紡ぐ 御宮ゆう @misosiru35

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ