第40話 最後のおつとめ

 クマリに言われるより先に、葵は雲を集め、塩の雨を降らせた。


 大粒の雨が、クマリの肌を噛もうとしていたアリを打ち、洗い流す。また新たなアリが這いのぼる。アリよりも大きい雨粒が、それを打つ。


 大量のアリの死体が浮かび、黒い水たまりができる。

 それでもまだ生きているアリがクマリへと向かっていく。チャンドラが必死でアリを舐め取る。


 雨の中に立ち尽くし、流されるアリを見つめるクマリは、相変わらず無表情なのに、葵にはその顔を濡らす雨が涙に見えた。


 頭がくらくらする。

 潮満珠しおみつだまの力を使うには葵自身の生命力を削るから、仕方がない。


(もう少し、もう少しだけもってちょうだい!)


 葵は自分を鼓舞しながら、右手を天に掲げ続けた。


 しかし、もはや自分で降らせた雨の勢いで倒れてしまいそうなほど、葵は消耗していた。まだだ、まだ倒れるな――。


 ぽちゃん。


 なにかが落ちる音がした。

 とたんに、雨がぴたりとやんだ。潮干珠しおひるだまは使っていないのに。


 アリの死体が浮かぶ水たまりの、飛沫があがったあたりを、葵はあわててさぐる。


 ビー玉ほどの大きさの珠が手に触れた。透き通った蒼色をしている。


 左の手のひらがむずがゆくなる。蒼い珠に吸い寄せられるように、皮膚から薄黄色の珠がせり上がってくる。


 二つの珠は、太極図のように絡み合うと、混ざり合って霧散した。


潮満珠しおみつだま潮干珠しおひるだまが!」


 ほとんど退治したとはいえ、アリはまだわずかに生き残っている。それなのに、珠が失われてしまうなんて。


 悩んでいる暇はない。アリがこちらに向かってきている。

 葵はクマリを無理矢理背負い、地面からその足を離した。


 目標を失ったアリたちは、うろうろと動き回っていたが、やがて塩の水たまりを避けるように退却を始めた。

 とはいえ、アリ塚は雨でいつの間にか完全に崩れてしまったので、彼らに帰る場所はない。


「どこかに逃げ延びるだろう。いずれ、あの中から新しい女王アリが出てくる」


 葵の肩越しに、クマリの達観したような声がした。


「今ならまだ、アリを全滅させることができるんじゃ」


「前にも言ったが、アリは人の負の感情を喰い、増幅させるだけだ。アリ自体が悪なのではない」


 初めて常世へ来たときにも、同じことを言われた。

 アリがいることで、人の負の感情が可視化され、抑止力にもなるのだと、マヤも言っていた。


 アリが負の感情の存在をつきつけ、ストゥーパに描かれた目が、善く生きているかと人々に問い続ける。

 それが、この国のことわりなのだ。


 クマリが低い声で言う。

「人間の都合で、彼らの命を奪っているのだ。この上、アリを根絶やしにする権利はない」


 足下には、無数のアリの死骸が浮かんでいる。黒い水のように見えるが、何百という命の抜け殻なのだ。殺生には違いない。


「次のクマリが任命されるまでは、おとなしくしているだろう。逃がしてやれ」


 毎日アリを駆除してきたクマリは、その命を奪うことに罪を感じ続けてきたのかもしれない。七年という長い間、ずっと。


 その重みに従うように、葵はうなずいた。


「チャンドラ」


 クマリが呼びかけると、オオアリクイは葵に背負われたクマリの小さな足に、長い顔をすりつけた。


「クマリ、お役目お疲れさまでした」


「今までありがとう。世話になった。……次のクマリが来たら、よろしく頼む」


「ええ、ええ。次のクマリも立派に育ててみせますとも」


「チャンドラは口うるさいからな。次のクマリもしっかりしつけられるだろうよ」


「失礼な、あたしはそんなに口うるさくありませんよ」


 二人が笑い合う。別れを引き延ばしているような、名残を惜しむ空気に、葵までしんみりとした気持ちになる。


「さあさあ、湿っぽいのは嫌いですよ。早く現世に戻って、その腕の傷の手当てをしてください」


 そうだな、とクマリがつぶやく。


「……最後に、名前を教えてくださいな」


 チャンドラがクマリを見上げる。


 葵がここへ来たとき、クマリは「名は過去に捨てた」と言っていた。七年間、本名を捨てて「クマリ」として生きてきた彼女が、名を取り戻す。


 クマリがかすかに笑った。


「ラシュミナだ」


 オオアリクイが、うなずくように瞬きをした。


「ラシュミナ、どうかお元気で」


「チャンドラも。……本当にありがとう」


 帰るぞ、とクマリが葵に告げる。

 葵はチャンドラに会釈をすると、ゆっくりと第三の目を閉じた。

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