第39話 クマリの涙
葵に向けられた銃には、弾がまだ一発残っているはずだ。
まずい。そう思ったとき、声が響いた。
「動くな!」
通用口から軍服姿の一群が出てきて、王太子に向かって素早く小銃を構える。
にらみ合いの後、王太子は腹立たしげに何事か叫び、手に持った拳銃を地面にたたきつけた。
兵士たちが銃を構えたまま、王太子を捕らえる。
「アカーサ! クマリ!」
ずぶぬれのまま横たわる鷹の元に、葵は這ったまま近寄った。羽を震わせながら、荒い呼吸をしている。
アカーサのすぐそばに、女王アリが浮かんでいた。六本の脚がわずかに動いているから、まだ生きている。
わなわなと震えながら鷹が体を起こす。
緩慢に動いていたアカーサが突如、猛禽特有の素早さで女王アリの頭を噛み砕いた。
頭をなくした女王アリは、痙攣したように胴と腹を何度か振ると、完全に動きを止めた。
女王アリの死体が、塩水に浮かぶ。
(終わった……)
葵は、冷たい水たまりの中から鷹の体をすくいあげた。首が据わらず、だらりと垂れ下がってしまう。
――アカーサ、すぐ手当をするから、気をしっかりと……。
葵の頭の中に、弱々しいクマリの声がする。続いてアカーサの声がした。
――クマリ、このまま常世へとお連れします。そこから、ご自分の体へ直接お戻りください。
――だめだ。こんな体で、我を乗せたまま常世になぞ行ったら、お前は……。
――どうせこの怪我ではもう長くありません。私の役目はクマリをお守りすることです。まっとうさせてください。
――よせ、アカーサ!
声はそこで途切れた。
鷹は体を震わせながら、浅い息をしている。
王太子が連行される喧噪を尻目に、葵はアカーサの体を抱いたまま屋上の隅へ行き、座って目を閉じた。
第三の目だけを慎重に開き、クマリとアカーサが行ったはずの常世へと向かう。
常世の青灰色の世界が広がる。
崩れたアリ塚のそばで、チャンドラに乗ったクマリがたたずんでいた。その胸に、傷ついて丸くなったアカーサを抱いている。
「クマリ……。長い間、お役目ご苦労さまでした。……これからは、あなた自身の足で世界を歩いてください」
ぐったりとしたアカーサが、消え入りそうな声で言う。
「アカーサ、お前には本当に感謝している。……皆に隠れて、いろんなところを見て回ったな。七年も館に閉じ込められて、お前と一緒に空を飛ぶことだけが楽しみだった。お前がいてくれたから、我は……」
クマリの目から、涙がこぼれた。
顔をくしゃくしゃにして泣く顔は、生き神ではなく九歳の少女のそれだった。
「アカーサ、命令だ。我のそばにいろ。どこにも行かないでくれ」
鷹が半眼になり、クマリを見上げる。
「あなたを置いていくのは心残りですが……。もし、生まれ変わることができるのなら、今度はヒトに……」
クマリがアカーサの頭をなで、ほおずりをする。
「ああ、ヒトに生まれてこい。必ず見つける。どこにいようと見つけだす。だから」
鷹の目が、ゆっくりと閉じられた。
羽毛がわずかに膨らんだかと思うとしぼみ、急速に色艶を失っていく。
「嫌だ、アカーサ!」
クマリの胸の中で、アカーサの体は光の粒となり、さらさらとこぼれ落ちて大気に溶け、消えた。
からっぽになった空間を凝視し、クマリが天を仰ぐ。
「うわあああ!」
慟哭の声が響いた。絞り出すような咆哮だった。
呆然と空を見上げたままの少女に、葵はゆっくりと近づいた。
「クマリ……」
彼女はうつむいて呼吸を整えると、葵に向き直った。
下まぶたの目張りが涙で少し流れているが、またいつもの無表情に戻っている。
「大丈夫だ」
ちっとも大丈夫そうでない彼女に、葵はかける言葉が見つからない。
「アオイ、もう少しだけ手伝ってくれ。最後の仕上げだ」
抑揚のない声で言うと、クマリはチャンドラの背中に手をかけ、地面へと降り立った。
「ちょ……! クマリは地面に足をつけちゃいけないんじゃ」
慌てる葵を、裸足のままの両足ですっくと立ったクマリが見据える。
「どのみち、我はもうクマリでいられない」
クマリが赤い衣の右袖をめくると、その腕にはえぐったような傷があった。じゅくじゅくと、血が流れている。
「アカーサの傷を少し引き受けた。結局、力およばずだったが」
哀しそうにクマリが目を伏せる。
「体から血を流すのは、クマリの欠格事由に当たる。……まあ、女王アリは葬ったから、役目は果たしたがな」
かさかさと、聞こえるか聞こえないかの音がする。小さな虫が大量にうごめくような音。
「来たな」
振り向くと、崩れかけたアリ塚のふさがった穴を破って、アリが群をなして出てくるところだった。
まっすぐに、クマリの方へと向かっている。アリ塚からだけではない。地面の穴という穴からアリが出てきて、クマリを目指している。
「クマリが地面に足をつけてはいけない理由は、これだ。土を介してアリが居場所を察知すると、集団で襲ってくるのだ」
無数のアリが、クマリの足指や甲にのぼっていく。
「アオイ、最後に塩の雨を――」
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