第29話 旧王宮へ
クマリからの電話はそこで切れた。
今の葵は、第三の目がつぶれて塩の雨を降らすことができないし、そもそも旧王宮に行ったところで、一介の日本人旅行者が国王に拝謁できるわけもない。昨日の一日クマリだと言っても無理だろう。
それでも。
クマリから「とにかく来い」と言われたことが、葵には単純に嬉しかった。
たった一言で、オセロの色が一斉に裏返った気がした。
必要とされなくなることの絶望を語っていたマヤの気持ちが、葵にも身に沁みてわかった。
とたんに、「私なんか邪魔になるだけだし」と逃げだそうとした自分が恥ずかしくなってくる。
葵は袖で涙を拭った。
(たとえ塩の雨を降らせることができなくても、クマリと一緒に戦おう。マヤを、女王アリを、阻止しよう)
葵は再び、クマリの館を目指して走り出した。膝の痛みは気にならなかった。
葵がクマリの館に着いたころには、もう夕方だった。空の色が、青から紫に変わりかけている。
クマリの言った通り、館の前にロードバイクが置いてあった。
世話役の男性が、ゴルカナ語で葵に何かを告げる。意味はわからないが、葵は「サンキュー」を繰り返し、サドルにまたがりペダルを踏みしめた。
舗装されていない道を、葵は自転車で全力疾走する。
石を踏んでしまい転びそうになるが、必死で体勢を立て直して坂を降りた。
加速がつきすぎて、葵の気分は異様に高揚していた。
大丈夫だ、何とかなる。何とかしてみせる!
旧王宮の白い建物が見えてくる。
昨日のインドラポールは撤去され、ゴミが広場脇に積まれていた。大祭のときの賑わいが嘘のように人がおらず、しんと静まりかえっている。
だだっ広い広場を、葵は一直線に進んだ。
旧王宮の建物正面は軍用車が何台も停まっているので、そこは避けて少し離れた植え込みの影に、葵はバイクを停めた。
建物前は、軍服を着た二人組が見張っている。どうしたものかと思案しながら、葵は様子をうかがった。
リュックから携帯電話を取り出す。ここでもアンテナは立っていない。
クマリからの着信はなかった。彼女はもう、こちらに着いているだろうか。
葵は建物の周りを観察した。やはり警備は厳重で、裏口などは当然ない。昨日、山車が横付けしたベランダから入れないものかと思ったが、銃を持った警備兵が巡回していて、とても無理そうだ。
バサバサと羽音がして、葵の右頬につむじ風が当たった。アカーサだ。
鷹は当たり前のように葵の右肩にとまった。鉤爪が相変わらず痛くて、思わず顔をしかめる。
――正面突破しかなかろう。
葵の頭の中に、クマリの声が直接響いた。
「クマリ! あの……昨日はごめんなさい。私……」
ずっと謝りたかった。葵が心から謝罪しようとしているのに、あっさりとさえぎられる。
――別に謝られる覚えはない。そんなことより、早く行くぞ。
これもクマリのやさしさなのかもしれない。しかし、葵にはもう一つ言わなければならないことがある。
「ごめん、クマリ。実は私、第三の目が閉じてしまって、塩の雨を降らせることができないの」
――蟻毒で真っ黒だから、一時的に目がふさがっているだけだ。今は無理だが、あとで取ってやるから心配するな。ただし、負の感情を増幅させるなよ。そこまでは面倒見きれんぞ。
そういえば、自己嫌悪も負の感情だった。それで力が発揮できなかったのか。気をしっかり持たなければ、と葵はホッとすると同時に気合いを入れる。
「で、どうする? 単なる旅行者が王宮に入れるわけないし」
――とりあえず、中に入れ。
「いや、とりあえずって、それができちゃったら警護の意味ないじゃん」
――とにかく行け。
「やだよ。捕まって投獄されたらどうするの」
反論は許されず、葵は鷹に肩を蹴られた。
「痛い!」
――ほら、早く。
仕方なく、葵は鷹を肩に乗せて旧王宮の入り口へと向かう。
階段の先の入り口横に、軍服を着た二人の大柄な男が銃を肩に掲げている。
撃たれたらどうしよう、と葵はびくびくしながら階段をのぼった。何も知らないおのぼり観光客が紛れ込んできた風を装ってみる。
「ヘイ!」
やはり、警備兵に呼び止められた。早口のゴルカナ語でまくしたてられる。
「えーと、私は日本から来た観光客です」
葵が英語で言っても、聞く耳を持ってくれない。二人の男が銃で入り口をふさぐ。
「昨日、一日クマリをしていた者なんですけれど」
クマリ、という単語に男の一人が反応する。なぜだか顔がひきつっている。
どこかで見たことがある顔だ。
(女神像の首飾りを盗んだ男だ!)
昨日、クマリジャトラの最中に葵が注意をした、黄色いトピー帽の男。そんな男が警備兵をしているとは。
「ちゃんと首飾りは戻したの?」
英語がわからない男のために、葵は首にかかったアクセサリーを持ち上げるジェスチャーをして、再度「首飾り」とはっきり発音し、男をにらみつけた。
今日は目張りを入れていないが、葵が昨日の一日クマリだと気づいたらしい。
男は銃をおろして地面にひれ伏した。何事か、詫びるように繰り返している。
「ここを通して」
命令口調で言うと、男は立ち上がり、もう一人に話をつけ始めた。クマリ、という単語だけが聞き取れる。
二人は銃を肩にかけて敬礼の姿勢で両脇にどけ、入り口を開けた。
どうやら、通っていいという意味らしい。
葵はゆっくりと、二人の間を通過した。
もしかしたら、無防備なところを撃つつもりでは、と思うと心臓が跳ね上がり、手足から血の気が引く。足が小刻みに震えてうまく歩けず、よろめきそうになる。
しっかりしろ、とばかりに葵の右肩に乗ったアカーサ、いやクマリが、ぐっと鉤爪を食い込ませる。
二人の警備兵の姿が背後に去る。見えないということが余計に不安を駆り立てる。
撃たれるのではないかという恐怖におののきながらも、葵は旧王宮入り口を正面突破した。
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