第28話 走れアオイ

 目が見えない葵は、鷹が無言で飛び去っていくのを気配で感じ取った。


「まったく。もうちょっと気遣いってものを学ばないとね、あの鷹は」


 チャンドラはそう言って、見えない葵が不安にならないよう背中をくっつけて座ってくれた。


 突然、葵の二の腕に鋭い痛みが走った。


「いたっ!」


 鋭いものが、腕をつついたり、ついばんだまま引っ張ったりしている。


「痛い痛い痛い!」


 思わず目を閉じ、葵はつつかれたところを逆の手でかばった。顔を、硬い羽でバサバサとたたかれる感触がする。


「もう、痛いって!」


 羽を払いのけて葵が見上げると、蒼天を背に、アカーサがすぐそばで浮遊しるのが見える。


 ピイィ。


 人語ではなく鷹の鳴き声だ。


(現世に戻れた……! しかも視力も戻ってる)


 葵は周囲を確認する。マヤに連れてこられた湖のほとりだ。身体は岩肌に背中をもたせかけて座ったままだった。


 弾かれたように葵は立ちあがり、リュックサックを背負う。


「ありがとう、アカーサ! 先に行って、クマリに知らせてきて」


 葵が手を振ると、返事をするように鷹が鋭く鳴く。

 アカーサは大きく翼を動かすと、いったん高度を上げてから坂の下へと滑空した。


 とりあえず、マヤが国王のところへ行ったことをクマリに知らせることができる。


 あとのことは、走りながら考えよう。葵は、急な坂道を転がるように駆けおりた。


 国王は、昨日のクマリジャトラのために旧王宮に滞在されていた。おそらく、出立は今日だろう。マヤはそれを狙っているに違いない。

 だとしたら、時間がない。


 走りながら葵は、腕時計を見る。午後三時だった。

 村から湖まで、一時間程度で登ってきたから、下りはもう少し早く帰れる。


 陽が落ちると、現世にアリが出てきてしまう。マヤの体内に入り込んだ女王アリが、国王に謁見しているときに出てきたら。


 負の感情がない人間などいない。

 しかも、一国の王だ。いくら賢王と名高いとはいえ、それこそ清濁併せ呑んで、さまざまな負の感情を抱えているだろう。


 国王がアリに喰われてしまえば、蟻毒が蔓延し、負の感情を増幅させるループができてしまう。

 国を代表する人間が、負の感情に取りつかれてしまったら。


 しかも、ただのアリではない。女王アリだ。

 産卵することでアリを増やし、そのアリが政府高官や軍人、国の要となる人間たちに取り付き、さらに負の感情をあおる。


 そんなことになったら、ゴルカナ国はどうなる。


 これこそクマリが恐れていたことであり、何百年に渡って幼い少女たちが身体を張って阻止してきたことではないのか。


 葵は舗装されていない礫だらけの土の道を、すべったり転んだりしながら走り続けた。泥だらけになりながら走っていると、後悔が込み上げてくる。


(クマリが今晩中にアリ塚を破壊するつもりだと、うっかりマヤさんに教えなければ、こんなことにはならなかったのに)


 万事において自分は甘いのだ、と葵は拳を握りしめた。


 常世から見た情報を現世で活かせないかとクマリに提案したのも、単なる思い上がりだった。「偽善」と言ったクマリは正しい。他人を救えるかもと自惚れていた自分を殴ってやりたい。


 滲んできた涙を拭いながら、葵はひたすら走ってクマリの館を目指した。

 下り道は膝に大きな負担がかかるということを、こんな時に思い知る。体重が加速をつけて膝にかかるから、みしみしと痛んで足を動かすことすらつらくなってくる。


 思わず速度をゆるめてしまう弱い自分を、葵は鼓舞する。自分のせいでこんな事態を招いてしまったんだから、走らなきゃ。塩の雨を降らせることができるのは、自分だけなのだから。


 葵ははたと思い当たる。


 第三の目がつぶれてしまった今、塩の雨を降らせることはできるのだろうか。両手の甲にはまだ瘤があるから、潮満珠しおみつだま潮干珠しおひるだまは無事だと思うけれど、まさか。


 葵は立ち止まり、天を仰いだ。


(どうか、どうか力が消えていませんように)


 葵は意識を集中させ、雲を頭上に集めるよう観想する。

 しかし、何度やっても一滴も雨が降らないばかりか、雲を集めることすらできなかった。


 抜けるような蒼天が底なしの淵に見え、真っ逆さまに落ちていくような錯覚に葵は陥った。


(唯一、クマリたちの役に立てる能力を、失ってしまった)


 皆の足を引っ張ったばかりか、最後の希望まで、自分の浅はかさから潰してしまうなんて。


 あまりのことに、葵はその場に崩れ落ちる。走り続けてきた疲れがどっと出て、当分立ち上がれそうになかった。


(塩の雨を降らせることができないなら、クマリのところへ行っても私なんか邪魔になるだけかも……)


 自己嫌悪と疲れで葵が弱気になっていると、リュックに入れていた携帯電話がけたたましく鳴った。


 あわててリュックを引き寄せ、携帯を取り出す。

 非表示としか出ていないので誰からかわからない。それ以前に、画面右上の電波状況によると、ここには電波は届いていない。なぜ鳴っているのだろう。


 とにかく、葵は電話をとった。


「アオイ、どこだ」


 クマリの声だった。


「クマリ! 今、ナーガの湖からの帰り道。マヤさんが……」


「ああ、アカーサから聞いた。マヤは車で旧王宮に向かったらしい。我もすぐに向かう」


「え、クマリは館から出られないんじゃ」

 言ってから、前のように魂だけアカーサに乗るつもりなのだと、葵は思い至る。


「我は先に行くが、魂と鷹の体だけではどうしようもない。アオイもできるだけ早く来てくれ。館の前に、ロードバイクを用意させておく。昨日と同じ下りの一本道だから、迷うことはないだろう」


「わかった。でも」


「とにかく来い!」

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