第27話 見えない目

 葵はようやく悟った。


 これはマヤの罠だったのだ。


 湖で、塩の雨を降らせる力を限界まで使わせ、その上で葵を常世へ連れて行く。

 昨日からの自己嫌悪にまみれた状態では、葵がアリの餌食になるのは目に見えている。塩の雨を降らせる力を発揮できないのだから、アリにやられる一方だ。


 クマリは夜にならないと常世へ来ないため、発見は遅れる。その隙にマヤは女王アリを連れ出し、国王にけしかける。


 マヤが裏切っていたとは知らずに、葵は「クマリが今晩中に女王アリを退治するつもりだ」と教えてしまった。だから、マヤはこんな行動に出たのだ。


 全身がチクチクと痛む。もはや、痛みのありかが体の中なのか外なのかすらわからない。体内に入り込んだアリに内臓を喰われているのだろうか。


 痛みとおぞましさで、葵は叫びながら地面を転がりまわった。全身にしびれが広がり、意識が薄れていく。



 ――もっと綺麗な子かと思ったのに、普通じゃん。


 ブルーのシャツに紺のネクタイをしたゴルカナ人の少女たちが、こちらを見てひそひそ話をしている。


 ――てか、無愛想で腹が立つんですけど。勉強も落ちこぼれてるし。今までちやほやされてたバチが当たったのよ。


 ――クマリも解任されれば、哀れなもんね。いい気味。


 ああ、これはマヤの記憶だ。アリを介して葵の中に入り込んでいるのだろう。


 ――女が学などつけてもしょうがない。お前の恩給は、弟の学費に使わせてもらう。見合いの話を持ってきてやるから、文句はないだろう。


 ――元クマリと結婚すると一年以内に死ぬっていうのに、誰がそんな女を娶るもんかね。歴代のクマリは国に居づらくなって、インドで売春婦になるって噂だよ。


 ――妻が妊娠した。子どもが生まれれば、この家も手狭になる。そろそろ結婚するなり何なりして、出て行ってくれ。いつまでも実家にいられては困る。大体お前は無愛想だから、誰からも相手にされないのだ。


 泣きながらマヤが布団をかぶる。腕にむずむずとした感覚が走った。起き上がって布団をめくると、小さなアリの一群が肌に喰らいついている。


 若い日のマヤが、声をあげて笑う。いつまでも、笑い続けている。

 その声に含まれるやるせなさに、葵は耳を塞ぎたくなる。


 額の、第三の目の部分に、激痛が走った。自らの悲鳴の残響を聞きながら、葵はまた意識を失った。



「アオイ、アオイ」


 誰かが頬をなでている。いや、舐めている。


 葵は体をよじって声の主を見ようとしたが、真っ暗で何も見えない。まぶたは開けているはずなのに。


 目が見えない。


 焦って体を起こし、葵は両手で眼窩に触れた。目玉のふくらみを感じるから、眼球を失ったわけではないらしい。


「大丈夫よ。本物の目は何ともないから」


 この声は、オオアリクイ、いや獏のチャンドラだ。


「身体についていたアリは、大体食べてあげたから」

 そういえば、肌を這うあの嫌な感触がしない。チャンドラがアリを取ってくれたのか。


「ありがとう、チャンドラ……」


 もうお腹いっぱいよ、とげんなりした声が葵の耳元で聞こえる。そばにいてくれるだけで心強い。


「まさか、マヤが裏切るなんてね。あの子はひときわ理性的なクマリだったのに」


 チャンドラが哀しそうな声で言う。マヤがクマリだった頃から、チャンドラはこの常世にいるらしい。


「それにしてもアオイ、派手に蟻毒を浴びちゃったのね。……アリを食べることはできても、蟻毒はクマリにしか取り除くことができないのよ。あたしにできるのは、ここまで」


 クマリ。そう、クマリだ。


「チャンドラ、急いでクマリと連絡を取りたいの。何とか常世に呼び出して!」


「こちらからは呼べないの」

 申し訳なさそうにチャンドラが言う。


「アオイが現世に戻るしかないんだけど……戻れる?」


 今までなら、第三の目を閉じてから本物の目を開けば現世に戻れたのに、何度試しても戻っていない。

 何も見えない状態で常世に残された葵には、帰り方がわからない。


(湖に置いてきた身体が、夜の低温に耐えられず死んでしまったらどうしよう)


 居ても立ってもいられず、葵は両手で目をこすった。それでも、やはり目は見えない。このまま視力が戻らなければと思うと、血の気が引いて歯が震え出す。


「大丈夫、大丈夫だから落ち着いて」

 うろたえる葵の手を、チャンドラがやさしく舐める。


「さっきも言ったけど、本物の目は無傷よ。第三の目がアリにやられて見えなくなっているだけ。それにつられて、本物の目も見えなくなったと錯覚しているの」


 錯覚。しかし、まぶたを開いても、暗い闇が広がっているだけで何も見えない。チャンドラの声が聞こえるから、葵はまだ常世にいるのだろう。


(本物の目は無傷だから、大丈夫。ゆっくりとまぶたを開けるのよ)


 葵は自分に言い聞かせたが、どうしても現世の身体の目が開いてくれない。焦りばかりがつのる。


 いくら試してもうまくいかない情けなさに、葵は頭を掻きむしって突っ伏す。どうしてこんなときに。


 その時、ピイィという鷹の鳴き声が響いた。


「あら、ちょうどよかった。あのキザな鳥が来た」


 チャンドラの声と共に、バサバサという羽音と軽いつむじ風が葵の耳をくすぐる。


「心配して見に来たら、このざまか」

 相変わらず、アカーサはクマリ以外の者に冷たい。


「アカーサ、助けて! マヤさんが女王アリを連れ出して、国王のところへ行ったの。早く止めないと。お願い、クマリに知らせて」


「承知。……しかし、クマリは館から出られない。アオイの力が必要だ。こんなところでぼんやりしている暇はない。さっさと現世に戻れ」


 戻れるものなら戻りたいのに。葵が唇を噛んでいると、チャンドラが言った。


「アカーサ、あんたね、クマリの騎士ナイトを自負しているんなら、他の女の子にもやさしくしなさいよ。将を射んと欲すればまず馬を射よって言うでしょ」


「私は別に」


「アオイは第三の目がやられて、本当の目の開け方がわからなくなってるの。あんた、現世から起こしてやりなさい」

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