第26話 女王アリ

 負の感情がなければアリは寄ってこないはず。そう言った葵に、マヤがあざ笑うように言い放つ。


「負の感情がない人間なんて、いませんよ」


 マヤが意地悪くほほえむ。


「よく言うでしょう。光があれば必ず影ができるって。負の感情は、影のようなものです。見ないふりをしたって、必ずあります。それを食べるアリもまた、常に存在するのは自明の理なのです」


 塚の出入り口を塞がれて昨夜は負の感情を採取できなかったからか、アリたちはびっしりとマヤに群がり、大顎で喰らいついている。


(早くマヤさんを助けなきゃ!)


「じっとしててください。今、アリを追い払います」


 本能的な嫌悪感を押し殺して、葵はマヤを助けようとそばへ駆け寄った。

 けれども、彼女は葵の手を振り払った。鈍い痛みが腕に残る。


「追い払う? どうして?」


 白い歯を見せたマヤの口元が、笑っている。


「アリは公平です。負の感情を持った者を、等しく必要としてくれます」


 塚に閉じ込められていたアリたちが、留まることなく出てきてマヤに這いのぼる。


「初めて私のところにアリが来たとき、何かを突きつけられた気がしました。アリを駆除する側だった自分が、アリの餌となる。……重い手枷足枷がはずれて、吹っ切れた心地でした。負の心にまみれていてもいいのだ、人間だから仕方ないのだ、と」


 アリにたかられて、マヤが真っ黒になっていく。


「マヤさんがこんなことになっていたなんて……。クマリは気づいていたの?」


 クマリは、アリの行き先を見ることができる。これだけ大量のアリが動いていれば、彼女が気づかないはずはないのに。


 マヤがかすかに笑う。

「私は常世と行き来ができますからね。クマリが朝のお勤めをする時間に合わせて、自分から常世へ通っていたのです。だから、クマリには気づかれないし、夜の仕事を終えて休んでいるチャンドラにも分からない」


 アリだらけのマヤを、葵はどうすることもできずに呆然と見つめた。


「アリは私を必要としてくれます。アリだけが、私自身を必要としてくれました」

 マヤの声には、高揚感すら混じっている。


「物心づいたときから、私は生き神としてあがめられ、全国民に必要とされてきました。それなのに、クマリを解任されたとたん、すべてが裏返った。ただの人間になってしまってからは、私は必要とされる機会を失いました。


 学校では、留年寸前の落ちこぼれ。家では、大学を出ていないから給料のいい職に就くこともできないお荷物。恩給は二十一歳までしか支給されない。かといってジンクスのせいで結婚して家を出ることもできない。元クマリでは、結婚はおろか、恋愛の対象として見てくれる男性すらいない。死ぬまでの数十年、私は誰からも必要とされずに生きていかなければならない。


 でも、アリだけは、私を必要としてくれる。どす黒い感情を抱えたどうしようもない私を、ただ受け止めてくれる」


 歌うようなマヤの一人語りは、恍惚を帯びてきた。


「アリだけが、私を愛してくれるのです」


(止められない)


 マヤが抱える闇に対してかける言葉を、葵は持ち合わせていなかった。


 昨夜のことがフラッシュバックする。夫に財産を持ち逃げされて絶望する女性に、どうすることもできず、葵はただ謝るしかなかった。


(逃げるな)


 葵は再び、マヤに喰らいついたアリを素手で払いのけようとした。


「それは愛じゃありません。ただの依存です!」


 マヤの腕にびっしりとついているアリを、手でこそげ落とす。

 取り切れなかったアリが葵の手に移り、這い上がってくる。アリの脚が動く、ぞわぞわとした感じが肌に伝わる。


 ちくり。


 葵の右手に痛みが走った。左手で反射的にはたき落とす。

 つぶれたアリの黒い汁が、手の甲を汚す。びりびりとしびれるような、かすかな痛みが残った。


 そのにおいに釣られてか、アリが葵の肌に喰らいつく。

 一匹一匹の体が小さいので、振り払おうにも全部は落としきれない。チクチクと無数の針で刺されるような痛みが、腕に広がる。


「やだ、やめて!」


 葵は体中をたたいてアリを追い払おうとした。


 これでは埒があかない。葵はアリが這う右手を天に掲げ、塩の雨を降らす雲を集めようとした。


 しかし、どれだけ観想しても、雨は降らない。


 湖で、限界近くまで塩の雨を降らせてしまったからだ。

 降雨には、自らの生命エネルギーを使うとクマリが言っていた。もう、力が残っていないのだ。


 全身をアリに噛まれる痛みに泣きそうになりながら、葵はつぶやく。


「負の感情がなければアリは来ないはずなのに、どうして……」


 マヤが鼻で笑う音が聞こえた。

「どうして? 決まってるじゃない。あなたにも負の感情があふれているからですよ、アオイ」


 顔にびっしりとついてしまったアリを払いのけられず、葵は目を開けてマヤを見ることができない。

 目を閉じた闇の中に、彼女の抑揚のない声が響く。


「きれいごとを掲げて、その場限りの人助けで善人ぶって、そのくせ相手の人生を背負い込む覚悟はない」


 情けない部分を突きつけられ、葵は自己嫌悪で全身が熱くなる。


「そこで、アリの餌になっていてください」


 やっとのことで顔周りのアリを取り除いて、葵は目を開けた。


 マヤが、アリ塚から両手で何かをゆっくりと引き上げている。


 アリだ。大きさは子ネコほどもある。

 おそらく女王アリだろう。


 どこかに移動させるつもりなのだ。クマリは今晩アリ塚を破壊するつもりだ、と教えてしまったから。


 マヤが女王アリを両手で包み込み、自らの目の前に持ってくる。彼女は愛おしげにほほえむと、大きく口を開けた。


 アリが長い触覚を動かして様子をさぐり、やがて六本の脚でゆっくりとマヤの方へ進み出す。頭部が、続いて胸部、そして節でくびれた腹部が、マヤの口の中へと入っていく。


 マヤは口を閉じると、踵を返した。


「どこへ行くのですか」

 アリが群がる首を掻きむしりながら、葵はマヤの前に立ち塞がろうとした。


 が、顔面をアリに覆われ、反射的に目を閉じてしまった。鼻や耳の穴の中がもぞもぞとする。アリが入ってきているのだ。


 生理的な嫌悪感に、葵は悲鳴をあげて何とかアリの侵入を拒もうとした。膝を折り、顔中をめちゃくちゃにこする。


「ちょっと、国王のところへ」


 動けない葵へ涼やかに言い残して、マヤの足音が遠ざかっていった。

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