第25話 元クマリの常世行

 軽くめまいがして、葵は足の力が抜けていくのを感じた。

 そろそろ限界だし、無理はしない方がいい。葵は右手を下ろした。


 今度は左手を掲げて、葵は雲を散らすようイメージする。


 雨がやみ、黒い雲が風に吹かれてほどけ、消えていく。

 やがて元通りの澄んだ青空が広がり、湖の水面も空を反射して同じ色になる。


「アオイ、ありがとう。これで少しは、ミネラル不足も解消します」


 傘を閉じたマヤが、無表情に戻って言う。


 クマリを退いたあとも、こうして国の人々のことを気にかけている彼女は偉いなぁ、と葵は思った。


 自分がマヤだったら、世の中を恨んでいただろう。普通の子のように遊んだり勉強したりしたかった。友達が欲しかった。毎日お母さんと一緒にいたかった。大学に行きたかった。結婚したかった――。


「マヤさんは、立派ですね」

 葵の本心から出た言葉なのに、マヤは顔をしかめた。


「……アオイはまっすぐに育ったのですね。うらやましい」

 マヤが雨露を払った傘を丁寧にたたんで、葵に手渡してくる。


「アオイは塩の雨でアリ塚を溶かしたんですってね」

 どうやら、クマリから聞いているようだ。


「まだ表面程度ですけど。……そういえば、クマリジャトラの山車の支柱が接ぎ木だったって聞きましたけど、それってわざとだったんでしょうか。誰かがクマリに悪意を持っているとか?」


 マヤの顔が曇る。

 無理もない。ぎりぎり前日の夜に気づいたからいいようなものの、支柱を直していなければ、祭の最中に山車は壊れてしまったのだから。


「あれは、ただの手違いですよ。最近の若い人は、祭をエンターテイメントだと思っていますからね。準備がおろそかになっていた、それだけです。よく叱っておきましたから」


 マヤの言葉に、葵は話を続ける。


「それならいいんですが。クマリは気にしていました。誰かが自分に怪我をさせて、クマリを退任するよう仕向けているのだろうって。だから、その前にアリ塚を破壊するつもりみたいですよ」


 マヤが小さく息をのんだ。

「クマリがそんなことを」


「はい。まだ九歳なのに、自分が怪我をするかもしれなかったことより、クマリ不在になった場合の心配なんかして。見ているこっちがつらくなります」


 葵の言葉に、マヤが「ええ、本当に」とうなずく。


「私がいるうちにアリ塚を何とかしなきゃ。今晩が勝負ですね」

 クマリやマヤのためにも、自分ががんばらなくては、と葵が力こぶしを作って笑ってみせると、マヤも笑みを浮かべてくれた。


「私も一度はアリ塚を破壊したことがありますし、アドバイスできるかもしれません。……アオイ、今から常世へ行ってみますか?」


 マヤの意外な申し出に、葵はきょとんとする。彼女はクマリを解任されてから三十年近くたっている。


「下世話な話ですが、第三の目を持つ処女であれば、常世へ行くくらいはできるのですよ。クマリはシヴァ神に嫁ぐものとされているから、他の男に嫁いでいなければ、力の恩恵にあずかれるのです」


 これまでもマヤは、こっそり様子を見に常世へ行っていたのかもしれない。


「じゃあ、お願いできますか」


 葵は山の斜面に移動してリュックを下ろした。レインコートを脱ぎ、地面に座る。体は現世に置いていくから、できるだけ動かないよう背中を岩肌にもたせかける。

 そういえば、昼間に行くのは初めてだ。


「では、あちらで」


 葵は目を閉じて暗闇を作った。そして、第三の目だけを開けるよう額に意識を集中する。


 葵が目を開くと、青灰色をした月夜の荒野のような世界が見えた。「とこよ」という音から「常夜」を連想するが、昼間に来ても太陽は出ず、薄暗いらしい。


 少し離れたところに、溶けて高さが三分の二ほどになったアリ塚が見える。


「こちらに来るのも慣れましたか」

 いつの間にか、隣にマヤが立っている。

「はい、コツがわかってきたみたいです」


 あれですね、とマヤがアリ塚に近づき、観察する。

「かなり溶けていますね。外壁はほぼ取り払われて、すぐに巣室につながっている状態です。もう手で壊すこともできますよ。空気穴もほぼ塞がっていますし、基底部に塩水が溜まって、アリも出入りできないのでしょう」


「手で壊せるのなら、女王アリを捕獲して、塩の雨にさらすこともできますね」


「そうですね、今なら女王アリも弱っているから、たやすいでしょう」


 葵もアリ塚に近づく。

 まだ夜ではないからか、塚が崩れかけているからか、アリはほとんどいない。時おり、地面にうがたれた穴から、数匹のアリが外へ出て行く。


 アリが足下にいることに気づき、葵は飛び退いた。喰われてはかなわない。


「大丈夫ですよ。アリが食べるのは負の感情です。負の感情がないアオイを襲ったりはしません」


 マヤが腰をかがめ、溶けてなだらかになったアリ塚の頂上部分をなでる。一メートルほどあった塚は、すでにマヤの腰よりも低い。


 いくら負の感情がなければ襲われないとはいえ、アリ塚に触るのは危ないのでは。少し離れたところから、葵ははらはらしながらマヤを見守った。


 突然、マヤが両手を振りかぶった。


 体重をかけるようにして、アリ塚に両手をたたきつける。

 土でできた塚は割れ、鈍い音がして砂が飛んだ。


 彼女はそのまま、露出した巣室の中に両手を突っ込み、中をまさぐっている。その腕を伝って、無数のアリが這い上がってきた。


「マヤさん!?」


 大量の小さなアリが集団でうごめく。アリが動く速度は思ったより素早く、あっという間にマヤの肩、首へと進んでいく。


 マヤの褐色の肌が、アリの黒い波に覆い尽くされる。顔中がアリまみれになる中、白目だけが異様に目立っていて、葵を見据えている。


「どうして……負の感情がなければ、アリは寄ってこないって……」

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