第24話 ナーガの湖にて

潮満珠しおみつだまを我々のために使って欲しい」とマヤに言われて、葵は少し逡巡する。

 もちろん、葵だって誰かの役に立ちたい。けれども、瘤をナイフで切ろうとされてはかなわない。

 葵の焦りを知ってか知らずか、マヤが続けて言う。


「湖に着いたら、塩の雨を降らせてください。できるだけ長く。湖の水は、川を流れて人々の生活水になります。ミネラル分が入った水を飲めば、ヨード欠乏症もよくなるでしょう」


(なんだ、そういう意味か)


 葵はほっとしながら、昨日のお詫びの気持ちも込めて快諾した。


潮満珠しおみつだまをゴルカナに置いていく方法があれば、万事解決するんだけどな。ナーガから聞いてないのかな)


 そういえば、クマリはインターネット経由でナーガと連絡を取ったと言っていた。帰る前に、ナーガに聞けないかクマリに頼んでみよう。

 一昨日、クマリは、葵が村にいるうちにアリ塚を破壊すると言っていた。明日の夕方にはここを去るから、今晩しかない。


(あ、じゃあ、塩の雨を降らせる力は、使わずに温存しておく方がいいのかな。でも、今さらマヤさんのお願いを断れないし。……夜には回復できるよね、たぶん)


 葵たちは再び坂をのぼり始める。


「マヤさんは、元クマリなんですよね。マヤさんのときは、アリ塚を壊すのをナーガが手伝ってくれたんですか?」


「ええ。……ナーガの恩恵を得られたのは、私が最後になってしまいました。塩で浄化しつつ、ナーガの降らせた雨でアリ塚を溶かして壊し、女王アリが死んだのを見届けました」


「アリを全滅はさせないって聞きましたけど、どうしてですか? 次の女王アリ候補も死んでしまえば、もう戦わなくてすむのに」


「アリ自体は悪ではありません。ただ人の心にある負の感情を食べるだけです。アリを滅ぼす権利までは、人間にありません」


 でも、と口ごもる葵に、マヤが続けた。


「たとえ世界からアリがいなくなっても、人間の負の感情はなくなりません。アリによって可視化されない分、無秩序にはびこるでしょう。アリがいることで、負の感情に注意を向けるという点では、意義はあるのです」


「でも、物心づいたときから思春期まで、クマリは毎日毎日アリを駆除し続けるんですよね。大変じゃないですか」


 葵の問いに、そうですね、とマヤがつぶやく。


「アリ退治は大変でしたが、やりがいはありましたよ。国の平和を自分が守っているという自負がありましたから。自分は生き神なのだと任期中は本気で思っていて、疑いもしませんでした。だから、弱音も出てこない。だって、神なんですから」


 自分は神だと思い込んだまま成長した少女が、十三歳頃に解任されて、普通の子どもとしていきなり学校へ編入される。改めて考えると、それはとても残酷なことではないか。


 クマリを退いてからの方が大変でしたよ、とマヤが続ける。


「元クマリのプライドがありましたから、必死で勉強しました。だから、今のクマリにも学をつけろと言っています。幼少時から英語を習得させたのも、退任後を見越してのことです。クマリになった者には、人並み以上の頭脳が必要ですから」


「生き神だから、知性を求められるということですか?」


「それもあります。が、退任後に生き延びるためでもあります。いきなり小学校に入れられてもついていける基礎学力に加え、将来専門分野で働けるだけの高度な頭脳が必要なのです」


 元クマリと結婚すると夫は一年以内に死ぬ、というジンクスがこの国には根強く残っている。

 実際はそんなケースは稀なのだけれど、言い伝えを怖れるあまり、元クマリは未婚で終わることが多いそうだ。


 そうなると、女一人で男性並みの収入を得る必要がある。

 とはいえこの国での女性の地位は低い。実家の土地は女では継げないから農業は無理だ。奉公に出ようにも、元クマリでは相手が萎縮して雇ってくれない。


「私も、身の振り方に苦労しました。大学に行くつもりでしたが、弟の学費などで恩給は消えてしまい、私の分は残っていませんでした。実家は兄が継いだのでいつまでもいられず、出て行くよう言われました」


 マヤの声が低く沈んでいる。恩給は、マヤが幼い身で国を守った対価としてもらったものなのに。

 ここにも貧困の根深さを見て、葵は言いようのないもどかしさを覚えた。


「大学を出ていれば仕事もあったでしょうが、当時はまだ女性に奨学金は出なかった。それで、クマリの世話係として、館に住み込みで働かせてもらっているんです」


 国を守った元女神に対して、なんて冷たい仕打ちだろう。葵は言葉を失った。


「今は、女性にも奨学金が出ますからね。王女があまりに優秀だったので、女性も活躍できるようにとドラヴィ国王が新設されたのです。時代がよくなったのだから、クマリには、自分で未来を選べる人生を送って欲しい」


 現クマリのことを気にかけるやさしさが、マヤの骨張った背中ににじみ出ている気がした。


「さあ、着きましたよ」

 山道を登り終えたところで、マヤが振り返る。葵は残りの道を駆け上がった。


 途端に景色が開けた。

 雪をかぶる尖った山々に囲まれた中に、空の青を反射した湖が広がっている。植物は生えておらず、無骨な岩肌が広がる中、湖だけが太陽の光を受けて輝いていた。


 斜面が削られているのは、水晶を掘った跡だろう。

 天然石マニアの友人に聞いたことがある。水晶は、高い山から掘られたものなど、人の手が触れていないほど価値が高い。悪いものが入っていないからだという。


「きれい」


 葵は思わずつぶやいた。初めて見るのに、どこか懐かしい景色だ。

 あの納曾利なそり面をつけた少年――ナーガは、こんな美しいところに棲んでいたのか。


「アオイ、ここに塩の雨を降らせてくれますか」

 となりに立ったマヤの姿が、水面に映る。


 葵はうなずいて立ち上がった。

 ここは冷えるから、濡れると風邪を引いてしまう。葵はリュックからレインコートを取り出して着た。マヤには、折りたたみ傘を開いて渡す。


 葵は右手を高く掲げると、雲を集める観想をした。蒼空が灰色に曇っていく。


 ぽつり。


 雨粒が、天を仰ぐ葵の頬にかかる。

 湖の上に雨雲が現れ、激しく雨が降り出す。雲が散らないよう、葵は腹の底に力を入れて意識を集中させ、塩の雨を降らせ続けた。


 葵の隣で、マヤが満足げに笑うのがわかった。


(マヤさんの笑った顔、初めて見た)

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