第23話 祭のあと
クマリジャトラの翌朝、葵の目覚めは最悪だった。目が痛くてまともに開けることができず、喉もいがらっぽくて声が割れている。
「アオイ、朝食の用意ができていますよ」
ノックとともにマヤの声が聞こえた。
食欲などまったくないけれど、これ以上迷惑をかけるわけにはいかない。葵は身支度を整え、食堂へと向かった。
食事を運んできてくれたマヤに、深々とお辞儀をして昨夜助けてくれたお礼とお詫びを述べる。
「助けてくださって、ありがとうございました。……その、軽はずみな行動でご迷惑をおかけして、本当に申し訳ありません」
何か注意されると思ったが、マヤは「いえ」と言ったきり、何もコメントしない。何も言われない方が、葵にはかえってつらい。
情けなさをこらえて、葵は訊いた。
「あの、クマリは」
「朝のお勤めですよ」
深夜まで祭主を勤め上げたのに、休むことなく任に当たっているのか。わずか九歳だというのに、本当に頭が下がる。
同時に、昨日クマリに喧嘩をふっかけてしまったことを、葵は心底恥ずかしく思った。いや、恥ずかしいどころではない。会わせる顔がない。
「怒っていましたか、クマリは」
葵はおそるおそる訊ねてみる。
「ご存知の通り、クマリは感情を表に出しません」
「はい。だから、内心ではどうなのかな、と」
上目遣いに、マヤからの返事を待つ。
「怒ってはいませんよ」
無表情なマヤが、少し笑った気がした。
「アオイ、湖を見に行きませんか? 昔ナーガが棲んでいたところです。今は、水晶の採掘も規制されて、水もきれいになったんですよ。いつナーガが戻ってきてもいいように」
葵が帰国してそのことを告げたら、ナーガはゴルカナに帰ってくるだろうか。
「少しアオイとお話したいし、どうです?」
あの
「では、お願いします」
食事を終えて身支度をすると、葵は貴重品をリュックに入れて、マヤと館を出た。
今日は子どもたちはいない。学校だろうか。そして、あの母親は、その娘は、どうしているのだろうか。
眼下に雲を見下ろしながら村を抜けて、細い山道にさしかかる。
「標高が高くなるから、寒いですよ。上着を着てください」
急な坂を、マヤは息も切らさずのぼっていく。
「昨日、クマリと口論していたようですけど」
「はい。アリへの対峙の仕方というか、第三の目で見たものをもっと活かせないか、という話をしていたんですが」
「よかったら、私にも聞かせてください」
そう言って振り返ったマヤの顔は、相変わらず無表情で、英語だからというのもあるけれど、声に抑揚がない。かつてクマリだったというだけある。
昨日の一件を思い出すと葵は、一人で世界を変えようと空回りしていたことが、恥ずかしいを通り越して情けなくなる。世の
反省をこめて、葵は話し始めた。
「常世から現世をのぞき見ると、犯罪に気づいてしまうことがありますよね。それに対して、何かできないかなって思ったんです。犯罪が起こらないよう警察に情報を渡すとか、被害者に逃げるよう伝えるとか、犯人を牽制するとか」
「それで昨日、あの通訳のことを笑っていたのですね」
マヤに言われて、葵は調子に乗っていた自分が恥ずかしくなる。
あれは、正義感からだろうか。自己満足からくる行動でないとは言い切れない。けれども葵は、知っているのに見逃すのは、どうしても嫌だったのだ。
「人身売買を未然に防ぐ件はうまくいきましたが、結局は、よくない結果を生んでしまいました。私が不用意に物をあげたから、あの女の人は夫に逃げられ、子どもの腕を切断しようと考えるまで追い詰められてしまった。後悔してもしきれません」
「そうね」
マヤが歩みを止めずに言い放つ。
「でも、アオイが何もしない場合でも、あの女性は子どもの手を切ったかもしれないし、夫も逃げたかもしれない。それは、人間にはわかりません。――まあ、物をあげたのは失敗でしたね。昨夜は、物乞いの人たちを追い返すのが大変でしたから」
情けなくて耳が熱くなる。葵は立ち止まって頭を下げた。
「本当に、すみませんでした」
返事はない。今度こそあきれているのかと冷や汗をかいていると、マヤが振り返った。
「あの女性には、外国のNPO法人が援助している女性の自立プロジェクトを紹介しましたよ。あとは彼女の頑張り次第ですね」
マヤの言葉に、葵は「……ありがとうございます!」と再び頭をさげた。これなら、あの母親は子どもの腕を切断するのを思いとどまってくれるし、なんとか暮らしていけそうだ。
「施しというのは難しいのですよ。アオイには、別のものをお願いしたいですね」
マヤの言葉に、葵は戸惑いつつも顔をあげた。
「えっと……別のものって、何をすれば」
「
マヤが、葵の右手の甲の瘤を指さす。
「私がクマリだった頃……三十年前はまだ、ヒマラヤに岩塩の洞窟がありました。ナーガも湖に棲んでいて、雨季にはちゃんと雨が降っていました」
岩塩が出る洞窟の話は、クマリも言っていた。
大昔に海がせき止められてできた海水湖の水が蒸発し、堆積した塩分が土地の隆起で押し上げあられると、山の中に岩塩が残る、という理屈らしい。
ヒマラヤのような内陸部の高い山に岩塩というのは意外だが。
「私の次のクマリのときに、ナーガが水晶に入って日本へ行ってしまいました。以来、雨の降り方が不安定になりました。降雨をつかさどるナーガがいないからです。さらに、岩塩も掘り尽くしてしまった」
塩がない、という話は、クマリからも聞いた。
「海のないゴルカナでは、塩は貴重品です。塩が不足すると、新陳代謝が悪くなるし、視力も低下します。加えて、塩に含まれるミネラルも不足するので、ヨード欠乏症になり、発育不良や甲状腺の機能不全を引き起こす。ゴルカナやネパールでは、深刻な問題です」
聞いたことがある。そのため、岩塩を摂取しているのだと。
「アオイには、塩の雨を降らせる能力があります。ゴルカナの塩不足をよくわかっているナーガが、海神に頼んで授けてもらった
マヤが一呼吸置いて言った。
「我々のために使って欲しいのです」
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