第22話 「やさしさ」の顛末
クマリジャトラの巡行が最終地点であるダラナ村の広場に戻ってきたのは、夜十一時を過ぎていた。
クマリとは言葉を交わさず、前後にいるのに不自然に同じ方を向くのを避けたまま、葵は黙々と蟻毒を取り続けていた。
葵もさすがに疲れが溜まっていた。生命エネルギーを引き出すため、目を見開いて相手を凝視していたので、目が乾く上に砂埃が入ってしまい、眼球の奥がずきずきと痛んだ。
喉もいがらっぽく、汗ばんだ肌に土埃がまとわりついている気がする。早くシャワーを浴びて倒れるように眠りたかった。
広場の中央で山車が止まる。
無事に巡行を終えたことを人々が喜び、歓声をあげる。
それに応えるように、クマリが立ち上がって手を振った。歓声がますます大きくなる。
まずはクマリが山車を下りる。
世話役の男性が彼女を抱き上げ、地面に足をつけないよう、人々の間を縫ってクマリの館へと進む。
葵もそのあとに続こうとしたとき、女の泣き叫ぶ声が聞こえた。
人混みをかきわけて葵の前に現れた女は、勢い余って地面に倒れ込んだ。松明の灯りに、こちらを見上げる顔が照らし出される。
昼間、真珠のネックレスを握らせた母親だった。物乞いに有利だからという理由で我が子の手を切断しようと考えていた、貧しい母親。
女が泣きながら、葵に何かを訴える。周りの人々が、怒鳴り立てて女を追い払おうとする。
最悪の事態が葵の頭をよぎった。一気に血の気が引く。見たくない気持ちを奮い立たせ、第三の目で女を見る。
その顔は、もはや穴だらけで表情がわからなかった。
口裂け女のようになってしまっている唇から、アリが現れた。蜜胃をぱんぱんに膨らませている。葵は、アリが見たであろう光景を読み取った。
真珠は、女の夫が持ち去った。町で売ってくると言って、そのままどこかへ行ってしまったのだ。
夫は真珠を換金したあと、自分の帽子や服、食べ物を買い、残りをインドルピーに両替すると、そのまま汽車に乗った、と知り合いが女に教えてくれた。
夫は自分たちを捨てて逃げたのだ、と女は悟った。
女の地位が低いこの国で、男手のない母子が、どうやって生きていけばいいのか。奉公に出ようにも、もう少し子どもが大きくならなくては無理だ。明日食べるものを買うお金もないというのに。
女の感情が、土石流のように葵の中に入り込んでくる。彼女の感情が、生々しく再生されていく。
『何をどうすればいいのかもわからないってのに、娘が泣いてる。もういっぱいいっぱいだ。泣かないでよ。頼むから!』
『娘がもう少し大きかったら、夫は売春宿に売ったはずだ。売られた子はひどい労働環境の中で心を病む。あまりのことに首を吊る子もいると聞く。病気で客を取れなくなったら、無一文のまま通りに捨てられる。奇跡的に年期を終えて帰ってきても、穢れとして村の人たちから追い出される』
『それよりは、手か足を一本失って母親のそばにいる方がましじゃないか。痛いのは少しの間だけ。左手なら、まだ生きるのに支障は少ないだろう。この子と一緒にいるためには、もうそれしか』
『ああ、でもやっぱりそんなことはできない。あのとき真珠なんてもらわなければ、こんなことにはならなかったのに! あの一日クマリが余計なことをしたから……!!』
追体験した女の思考に強烈な吐き気を覚え、葵は口を押さえた。
確かにそうだ。もし葵が真珠のネックレスをあげなければ、少なくとも彼女の夫は一人だけ逃げたりしなかった。三人でなんとか細々と暮らしていたかもしれない。
すべては仮定でしかない。けれども、今、夫に逃げられ、我が子の手を切断しようとするほど切羽詰まった女性が、葵の目の前にいる。
自分のせいだ。不作為はよくない、などと偉そうに言って余計なことをしたために、最悪の事態を招いてしまった。
「……ごめんなさい。ごめんなさい!」
埃だらけの顔で泣き叫ぶ女に、葵はどうしていいかわからず、膝を折って謝罪した。
葵には謝ることしかできなかった。この女性の人生を引き受けるだけの度量も覚悟もなかったことを、ようやく思い知る。
覚悟がないなら首を突っ込むな。
あのとき、クマリはそう言いたかったのだろう。
クマリだって一人の人間なのだ。こんな事態をいくつも抱え込めるわけがない。
騒がしさに顔をあげると、うずくまる葵に周りの人々が何かを要求し始めた。
どうやら、この女性に真珠をあげたことが知れ渡ったようだ。たくさんの手が、葵の赤い衣装を引っ張り、金の腕輪や銀の首飾りを取ろうとし、髪に挿した花や装飾品を奪っていった。
葵は完全に無力だった。もはや一日クマリとしての威厳もなく、されるがままに奪われるだけだった。
「クマリに対する乱暴は許しません!」
誰かが葵の前に立ち、無粋な手を払いのけた。えんじ色のクルタ・スルワールが頼もしく見える。
「マヤさん……」
「早く館へ戻って。……道をあけなさい!」
世話役の男性たちが、人の群を押しのけて道をつくる。葵は身を小さくして、そこを走り抜けた。
ようやく館にたどり着き、葵は息を切らせて土間に座り込む。動悸が収まらないのは、走ったせいだけではなかった。
人の気配を感じて、葵は顔をあげた。床にあがったクマリが、自分の足で立ってこちらを見下ろしている。
情けなさと後悔で、葵は耳が熱くなるのを感じた。
クマリは何も言わずにきびすを返し、奥の部屋へと消えていった。
(いっそ罵って欲しかった……)
暗い土間に一人、葵はいつまでも座り続けた。
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