第20話 力の使いみち

「彼らがなんと言っているか、わかるか」

 山車の周りに押しかける人々を見据えたまま、クマリが葵に訊いてくる。


「ううん、わからない」


「今年は雨が降りすぎて種もみが流れてしまい、収穫がない上に稲を買うお金もない。利き腕を骨折してしまい、働けなくなった。このまま寒くなったら病気の子どもが年を越せないかもしれない」


 生きていくことにあまりにも直結した悩みに、葵は視線を落とした。日本なら、失恋した、受験に失敗した、人間関係がうまくいかない、労働条件が悪く働きづめだ、など本人にとっては切実だが、今すぐ命に関わるわけではない悩みがほとんどだ。

 自分が生きてきた世界の平和さに、今さら気づく。


「アオイ、目が留守になっているぞ」


 注意されて、葵はあわてて目に力を戻し、山車を囲む人々の顔を見た。この化粧と衣装をまとっている間、自分は生き神クマリなのだ。役目を果たさなければ。


 蟻毒を取り除きながら、葵は考える。

 さっきみたいに常世で彼らの情報を得られたら、負の感情の原因や解決策が見つかって、アリが来ないようにできるのでは。


「ねえ」

 葵は前の席のクマリに声をかけた。


「さっきはありがとう。クマリが笑ってくれたおかげで、クリシュナを改心させることができた。彼はもう、人身売買に関わらないはず」


 クマリは無言のままだ。


「それで思ったんだけど。あんな風に、常世で見た情報を活かして人助けをしたらどうかな? 欺されて傷つく人が減るし、アリの餌になる負の感情も減って、いいことずくめじゃない?」


 クマリを讃える人々の歓声に負けないよう、葵は語気を強めた。


「クマリ一人でたくさんの人を見きれないのはわかるよ。だから、たとえば悪質なものは警察と連携するとかさ。宗教的な象徴としてじゃなく、もっとダイレクトに関わってもいいんじゃないかな」


 やはりクマリからの反応はない。

 明後日には日本へ帰る人間が勝手なことを言って、と思われているのだろうか。


「何か怒ってる?」

 前の席のクマリをのぞき込む。相変わらずの無表情で、怒りも笑みも浮かんでいない。


「怒ってはいない」

 クマリは静かに口を開いた。


「たとえば、常世で知り得た情報の中に、犯罪に関わるものがあったとしよう。それを警察に報告する道筋を作ったとする。だが、証拠がない。『クマリが予知したから』というのが証拠になってしまう世の中を想像してみろ。恐怖政治ではないか」


 確かに、物的証拠なしに逮捕されてしまうとしたら、人々は萎縮するだろう。警察がクマリの証言をでっち上げる可能性もある。


 証拠とは、万人に等しく見えるものでなければならない。

 だが、クマリの能力は第三の目を持つものにしか認識できない。


 万人に理解できないものを、国の仕組みの土台に置いてはならない、とクマリは言いたいようだ。


「だから、クマリは宗教的象徴として存在しているが、その本来の役目は秘されているのだ」


 クマリの言うことはわかる。ものすごく正論だ。けれども、正論がよいこととは限らない。


「でも、犯罪があると知っていて何もしないのは、やっぱりどうかと思う」

 

 葵はまとまらない考えのまま、文法を無視した英語でまくしたてた。


「その情報があれば助けられるのに、黙っていたからその人は助からなかった。それって、自分もその犯罪に荷担しているのと同じことになってしまうんじゃないの?」


 不作為の罪というのがあったはずだ。

 正確には作為義務がある者にしか適用されないけれど、それでも「何もしないこと」で誰かの生命が脅かされたり傷ついたりするのなら、何かをした方がいいのではないか。


 少なくとも葵は、どうにかしたいと思う。自分のせいで、救えるはずの誰かがひどい目に遭うところを見たくない。


「その情報を開示したからといって、助けられるとは限らないぞ」

 クマリの声は、どこまでも冷たかった。


「でも、開示しなければ、確実に犯罪に巻き込まれるんだとしたら、助かる可能性にかけたい。少なくとも私はそう思う」


 葵の主張に対し、クマリの反応は薄い。

「アオイはそう思う。それでいいではないか」


「少しだけでも、第三の目の力を、クマリの立場を、みんなが生きやすくなるために使うことはできないのかな?」


「……さっきのクリシュナの件は、特別だ。あのままでは引っ込みがつかなかった。あの一件だけでも、他のブローカーへの牽制になっただろう。しかし、毎回毎回同じことはできない」


「どうして」


 クマリが咳払いをした。

「アオイ、また目が留守だぞ。ここで議論している暇があったら、少しでも蟻毒を取り除くのが、現段階での最善手だ」


 九歳の少女が、よどみない英語で言う。

 クマリは全知全能、という説を信じたくなるほど、彼女には子どもらしさがない。語彙も豊富で、十九歳の葵と対等に議論してくる。


 いなされてしまったようで悔しいが、葵は人々の蟻毒を除く仕事に戻った。


「私は日本に戻ってしまう人間だから、口出しすべきじゃないのかもしれないけど」

 葵は諦めきれずにつぶやく。

「知ったからには放っておけないもん」


 クマリが背中を向けたまま、振り向きもせず言う。

「それは自己満足ではないのか。放っておくことで自分が悪者になったと思いたくないから、とりあえず責任逃れをして、許された気持ちになりたいだけだろう」


 その言葉は葵に突き刺さった。

「……そうかもしれない。たぶんそうなんだと思う」


 もはや逆ギレに近かった。身を乗り出してクマリの顔をのぞき込み、葵はまくしたてた。


「偽善だって言いたいんでしょ。わかるよ。でも、それが善か偽善かって、はっきり区別があるわけじゃないもん。たとえ動機が偽善でも誰かが助かるなら、何もしないよりましでしょ」


 葵が声を荒らげても、クマリの口調は変わらなかった。

「そうだな」


「じゃあ、なんで」


「それはクマリの仕事ではないからだ」

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