第18話 笑うクマリ

(とりあえずやってみよう。えーと、相手と目を合わせて、身体の中にある生命力を引っ張り上げることで、穴をふさいで蟻毒を追い出すのよね)


 葵は眼下の人々を見た。こちらを向いている人を選んで視線を合わせ、その人本来のエネルギーを引っ張り上げるよう観想する。

 けれども、つかんだエネルギーをうまく引き上げることができない。


 長い間視線を合わせてくる一日クマリに、相手は首をかしげてあちらを向いてしまった。


「あわてるな」

 その人の蟻毒は、クマリが一瞬で取り去った。さすがだ。


 気を取り直して葵は、今度は蟻毒の少ない人を選ぶ。

 視線を合わせると、腹の底の生命エネルギーを確実に捉えるまでじっと我慢する。


(よし)


 手応えを感じると、一気に引き上げる。

 肌に溜まっていた黒いものが押し出され、元通りになった。


「うまいぞ、その調子だ」

 クマリがこちらを振り返らずに言う。


 山車がゆっくりと動き出す。巡行の始まりだ。


 山車の上は思ったより揺れるので、横や斜めを向いていると少し気持ち悪くなってくる。

 できる限り多くの人の蟻毒を取り除くため、葵は集中力を途切れさせないようにして、こちらを見上げる人々を見つめ続けた。


 三十分ほど進んだところで山車が止まる。


「こちらで山の女神様の供養をします。その前に休憩しますので、トイレに行くなら降りてください」

 山車の下からマヤが呼びかけてくる。この先いつ行けるかわからないし、行っておこう。葵はクマリに声をかけてから、山車を下りた。


 山車から休憩所までの間を、世話役たちが布で囲って人々から隠してくれている。

 いそいそと進んでいると、葵は聞き覚えのある声を耳にした。


「いやあ、写真よりもかわいいですね、ラクシュミ」


 葵は布の隙間から様子をうかがった。


 通訳のクリシュナが、淡いピンクのクルタ・スルワールを着た女の子と話をしている。

 昨日SNSで見た、ラクシュミだ。


 ワンピースとズボンを組み合わせた民族衣装にストールを合わせ、肌を露出しないこの国の不文律を守りつつも、精一杯おしゃれをしてきたことがわかる。


 ラクシュミは照れた笑顔を浮かべ、さほど警戒していない。クリシュナの方をちらちらと見ているのに、目が合うとうつむいている。

 恋に不慣れな女の子が、明らかに相手を意識している様子が丸わかりだ。淡い恋心を利用して欺し、売春宿に売るなど、絶対に許すことができない。


(そうだ、クリシュナさんの蟻毒を取り除けば、考え直してくれるのでは)


 葵は思ったけれど、このままでは視線を合わせることができないし、彼はもはや手遅れと思うくらい穴だらけで真っ黒だった。


 しかし、ラクシュミを救うには今しかない。


 葵は布の間から出て、まっすぐに二人の方へ歩み寄った。


「クリシュナさん」


 クリシュナが振り返る。

 彼は一瞬びくりとした表情を浮かべたが、すぐに人なつっこい笑顔を作る。


「ああ、ムロブシさん! そうか、一日クマリでしたね。見違えましたよ。よく似合っている」


 葵は彼の目を見据え、内にあるはずの善良な心を引き出そうとした。が、腹の底に残っているはずのよいエネルギーをつかむことはできず、どろどろと取り留めのない感触だけが残る。


「彼女は、SNSで知り合った子なんです。通訳の仕事に興味があるというから、進路指導の相談がてら、祭見物に、ね」


 何とかしてラクシュミを救わなければ。

 けれども、葵の警告メールも無視されたのだ。ここで真実を暴露してもクリシュナはしらを切るだろうし、証拠は何もない。


(何か、何か方法はないかしら)


「おやおや、怖い顔のクマリですね、ムロブシさん」


 クリシュナがからかうように笑い、それに呼応してラクシュミも笑った。楽しそうな笑い声が混ざり合う。


(それだ!)


 葵は瞼を閉じて息を吸い込むと、精一杯目を見開き、クリシュナを指さして笑った。


「アッハッハ!」


 大きな笑い声に、周りにいた人たちが何事かと集まってくる。


「ム、ムロブシさん、やめてください」


 焦った表情のクリシュナを無視して、葵は高らかに笑い続けた。

 人々が眉をひそめ、怖れや不安の表情を浮かべる。皆がクリシュナを見ている。


 クマリは笑ってはいけない。それは凶兆だから。


 マヤから注意を受けた、クマリの禁止事項だ。警察に言っても無駄なら、この国に根付いている信仰心に訴えるしかない。


 大祭の日にクマリから指をさされて笑われる。

 この男には何か重大な非があるに違いない。そしてこの先、大きな不幸に見舞われる。誰もがそう思っていることだろう。


 ラクシュミまでもが不安そうな顔で、クリシュナから距離を取り始める。


「いや、あの一日クマリは外国人で、この国のしきたりなどわかっていないのですよ。何でもないんです、何でも」


 クリシュナが誰にともなく弁明をする。


 その時、さらにもう一つ笑い声が重なった。葵よりももっと幼い、あどけない声。


 葵が振り向くと、本物のクマリがそこにいた。


 世話役の男性に抱きかかえられた彼女は、まるで人間の重みのない軽やかな存在だった。

 赤と金の衣装をつけ、黒珊瑚の粉で目張りを描いた鋭い双眼でクリシュナを見据えながら、大声で笑っている。


 周りのざわめきが一層大きくなった。クリシュナの顔が青ざめる。


「やめて、やめてください、クマリ様」


 クリシュナは膝から崩れ落ち、涙ながらに地面へひれ伏した。

 しかし、クマリは笑うことをやめない。


「申し訳ありませんでした。私はよくない商売に手を貸しました。世間知らずの女の子たちをインドへ売りました」


 ラクシュミが驚いた顔でクリシュナを見下ろす。その顔が、侮蔑の表情へと変わっていく。彼女はゆっくり後ずさり、怪訝な顔で見守る人々の群に同化した。


「もうしません! 反省しております。許してください!」


 クリシュナが許しを乞うても、クマリはまだ笑うのをやめない。


 もはや何を言っているのかわからないほど呂律の回らない声で、クリシュナが涙ながらに自らの罪を告白する。うずくまるその背中に、人々が罵声や石礫を投げつける。


 どこからかやってきた警官が二人、彼の腕をつかみ、立ち上がらせる。人々の群が割れ、クリシュナが連行されていく。

 彼の泣き声は人々の罵り声にかき消され、やがて聞こえなくなった。


「さて」


 無表情に戻ったクマリが、葵の方を向く。


「クマリジャトラの先は長いぞ」

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