第17話 クマリジャトラの日

 夜明け前に葵は起こされた。


 衣装を着たまま眠ってしまったことを咎められるかと思ったけれど、マヤはいつもの無表情で葵を一瞥しただけで、何も言わなかった。


 うながされて浴室へと向かう。祭の前に潔斎して身を清めるのは、ゴルカナでも同じらしい。丹念に体を洗っていると、昨日の疲労が少しずつ流されていく。


 赤と金の衣装をつけ、髪を結ってもらう。葵の髪は肩の少し上までしかないので、結い上げるのに苦労しているようだ。

 顔をパウダーで白く塗り、黒珊瑚の粉で作った塗料で、下まぶたから跳ね上げるように目張りを入れる。


 唇に紅を引くと、鏡の中の女性が自分であって自分でない、本物の女神のように、葵は思えてきた。


 マヤに導かれて、葵は館の出口へと向かう。布でできた靴を、世話役の女性がはかせてくれる。


 外へ出ると、早朝だというのにたくさんの人垣ができていた。クマリ用の山車が、館のすぐそばに横付けされている。


 人々の歓声の中、葵は山車の下まで進み、待機する。

 車輪に描かれた三つの目は、昨日見たストゥーパの目を思わせた。悪いことをしていないか、善く生きているか、すべてを見透かすブッダの目。


 歓声がいっそう高くなる。本物のクマリの登場だ。


 地面に直接足をつけてはいけないクマリは、世話役に抱きかかえられて館の外に出た。

 人々が絹布を敷き、クマリのための道を作る。真っ白な布の上を歩く幼いクマリは、まるで鳥のように軽やかで、人ではないみたいだった。


 クマリが葵の方を見る。唇が小さく動いた。


「行くぞ」


 まずはクマリが、世話役に抱き上げられて山車に乗る。彼女は床に降り立つと、二メートルほどの高さから人々を見下ろした。


 クマリと目が合っただけで幸運が訪れる、と信じられているため、その姿を見よう、あわよくば視線を合わせようと、みんな押し寄せてくる。彼女は、八角の屋根の下にしつらえられた黄金の椅子に座った。


 うながされて葵も山車へ進む。

 上にいる世話役の男性たちに引っ張り上げられて、ようやく山車にのぼった。柱を取り巻くように控える世話役たちの横を通って、葵もクマリの後ろの席に着く。


 一段高くなっているので、世話役の人たちの頭越しに、たくさんの人々が見える。皆、熱に浮かされたようにクマリを讃えている。


「アオイ、第三の目を開け」


 英語で話しかけられる。日中に、しかも屋外で開くことができるのだろうか。

 葵は額に意識を集中し、慎重に第三の目の瞼を動かした。本物の目を閉じてしまったりして手こずったが、なんとか開くことができた。


 世界の解像度が格段に上がった。


 痛いほどの鮮やかな色彩が、葵の脳に直接飛び込んでくる。たくさんの人を眼下に見ているのに、一人ひとりの顔も同時に把握できる。


 彼らを注視すると、肌にうがたれた穴に、黒い液状のものが溜まっている。

 蟻毒だ。ほとんどの人が侵されている。


「クマリジャトラは、ゲームのエクストラステージのようなものだ。この日はクマリが外に出ることができるから、人々についた蟻毒をじかに取り去ることができる」


 蟻毒が減れば、生み出される負の感情も減る。

 つまり、アリの餌を抑えて女王アリの成長を少しでも止めることができるのだ。


「でも、どうやって蟻毒を取り去るの?」


「アリに感情を喰われると穴が開く、というのは見ただろう。もちろん、本当に肉がうがたれるのではなく、霊体の方だぞ」


 穴が開いた部分に黒い蟻毒が溜まった人々を眼下に見ながら、葵はうなずく。


「その部分を正しい方法で埋めなければ、穴に悪いものが入り込む。それは、悪霊だったり、自分や他人の負の感情だったりする。本来は、その人自身の生命エネルギーを増幅させて穴を修復するのだが、それでは時間がかかりすぎる」


 蟻毒を取り除くだけでなく、穴を埋めなければならないようだ。


「それで、だ。よく見ておけ」


 クマリは、山車の下にいる、穴のせいで口が二つあるように見える男性に、視線を固定した。

 中年男はクマリの視線を感じると、歓喜したように叫び、クマリと目を合わせたまま合掌する。


 クマリが目を見開く。その瞬間、鏡の反射で太陽光を当てられたかのように、中年男性が光に包まれた。

 男の腹の底から光の泡がわき起こり、表面へとのぼってくる。光の泡は、穴に入り込んでいた黒い蟻毒を押し出し、その勢いのまま開いた穴を埋めた。


「これで元通りだ」


(すごい! さすが生き神と言われるだけあるわ)


「コツがわかればアオイにもできるぞ。基本的に、相手が持っている生命力を表面に引っ張り上げるだけで、自分の力は使わないから、消耗することもない」


「でも、私にそんなすごいことは」

 腰が引ける葵に対して、冷静に人々を見下ろしながらクマリが続ける。


「プラシーボという言葉を知っているだろう。効能がなかったとしても、これは効く薬だと思い込んでいる人には効き目がある。それと同じだ。アオイは今、クマリの出で立ちをしている。相手がアオイを『クマリ』だと認識すれば、それでいいのだ」


 そう言われると、気が楽になる反面、少しがっかりする。


「もちろん誰でもいいわけじゃない。クマリを演じられる素質というのはある。アオイならできると見込んで、我が呼んだのだから」


 話している間にも、クマリは次々と視線を合わせて人々から蟻毒を取り去り、元の状態に戻していく。


「我一人の手には余る。アオイ、早く手伝ってくれ」

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