第16話 クマリの進退と「最後の仕事」
アリ塚を破壊して自分も退任するつもりなの? という葵の問いに、クマリが答える。
「それしかないだろう。
肥大しきったアリ塚を放置したまま彼女が退任せざるを得なくなったら、次のクマリが来るまでアリを間引く者がいない。常世からあふれたアリが、現世に影響を与え、人の心はすさみ犯罪が増えてしまう。
それよりは、とクマリが考えるのは無理もない。
クマリと葵はアリ塚に近寄った。いくつかのアリの隊列が、地面にうがたれた穴へと潜っていく。
(あの中に、クマリの乗る山車に細工した者のところへ行くアリがいるかも)
葵は数の多い隊列の後をつけて、その先を探った。けれども、別の負の感情に行き当たるだけで、目当ての情報はない。
女神像に捧げるための黄金の装飾品を盗む、警官が賄賂をもらって犯罪を見逃す、選挙で不正を働く、女の子を都市部へ奉公へ出すと見せかけて、インドの売春窟へ売る、物乞いをするために子どもの手か足を切り落とす相談をする――。
豊かではないゆえに、人々の心はすさみ、負の感情が膨れ上がって、どんどんよくない方へと進んでいる。
(……見るだけでもつらすぎる。あと一つで終わりにしよう)
そう思って葵が覗いた穴の先は、クリシュナだった。
彼の肌を喰うアリを尻目に、手に握られたスマートフォンの画面を解読する。
「明日、クマリジャトラがあるね。一緒に行かない? 車で連れて行ってあげるよ」
売春宿へ売るターゲットである女子校生、ラクシュミへのメッセージだ。
どうか相手にされませんようにと願ったのに、彼女は「嬉しい! じゃあお願いしようかな」と待ち合わせ時間と場所の相談をしていた。
「アオイ、塩の雨はどれくらいの時間、降らせることができる?」
こちらを振り返ってクマリが言う。
「やってみないとわからない、そんなに連続して出したことないから」
アリ塚を破壊するまで、降らせることができるのだろうか。もし途中で限界が来たら、女王アリを刺激するだけで終わってしまうかもしれない。
「ねえ。歴代のクマリは、どうやってアリ塚を破壊していたの?」
雨くらいでは崩れてくれそうにない大きな塚を見ながら、葵はクマリに訊ねた。
「三代前までは、湖に棲んでいたナーガが手伝ってくれていた。ナーガは雨を司る神だからな。塩は、ヒマラヤ山脈にある特別な岩塩を採取していた。あとは、動物たちの協力。今はチャンドラとアカーサだけだが、昔はたくさんの獏や動物がいたのだ」
では、ナーガが日本へ行ってしまったことは、かなりの痛手だったようだ。
「ナーガがいなくなった代のクマリは相当苦労した。川の神に協力をお願いしたり、国境を越えて海神と話をつけたりしたようだ」
現クマリのように、鷹に乗って外に出ていたのだろうか。
「その代のクマリは、力を使い果たして心を病んだ。先代は、インターネットを介してさまざまな神様から少しずつ力をわけてもらったらしい」
「じゃあ、今回もその方法を使ったら」
「水は確保できるのだがな、塩がないのだ」
意外な答えだった。
「水の神様はたくさんいても、塩の神様というのはいないのだ。塩とは魔除けであって、それ自体は神にならない」
そういえば、日本にも「製塩の神様」はいても、「塩」の神様はいない。
「ヒマラヤにあった塩の洞窟は、もう掘り尽くしてしまった。……ゴルカナやネパールは海がないから、塩やミネラルが不足してヨード欠乏症になる。貴重な岩塩を人々が掘り尽くしてしまうのは、無理もない」
クマリが、袖の中から袋を取り出す。
「我も昔は、洞窟から掘り出した岩塩を砕いたものをアリや巣穴に振りかけて、勢力を衰えさせていた。だが、これが最後の一袋だ」
もはや一握り程度の量しか残っていない。
「普通の塩じゃ、だめなの?」
「人の手が触れていない塩でないと、効果がないのだ。通常の塩は使えない」
クマリがため息をつく。
「来るべき日のために塩を無駄遣いしないよう、チャンドラやアカーサが代わりにアリを食べてくれていたが、それでは現状維持だけで、塚は破壊できない。だから、ナーガに連絡を取った。どうしても、
つまり、葵の持つ
「とりあえず、どのくらいもつか、やってみる」
葵は塚に近づき、右手を天にかざした。意識を空へのぼらせ、雲を集める。
ぽつり。
降った。大粒の雨が、音を轟かせながら塚を打つ。
周りにいたアリたちがあわてて中に入る。
塚の表面が、水流で徐々に溶け出す。中の空間が露出して、塚が少しだけ崩れる。だが、まだまだ足りない。
葵は右手を掲げ続けた。腕がだんだんだるくなってくる。
くらり、とめまいがした。
体中のエネルギーが抜けていくような感覚がして、目がかすむ。今にも倒れそうになるのを、葵は必死に耐えた。
「もういい」
クマリの声に、葵は右手をおろし、力を振り絞って左手を掲げた。
雨がやむ。
あまりに疲れすぎて、葵は膝をついた。肩で息をし、濡れた髪をかきあげる。
「五分といったところか」
(かなりがんばったつもりなのに、たったの五分!? せめて十分はあると思ったけど)
一メートルほどあるアリ塚は、表面は溶けてはいるが、たいして減ってはいなかった。中にいるアリは無傷だろう。
アカーサがくちばしで塚をつつき、チャンドラが穴に舌を差し込んで中のアリを舐めとっている。
「女王アリを、巣から外へ出すことはできないの?」
もうろうとしながら葵は訊ねた。
「それができればいいのだがな。まあ、できるだけアリを外に出した状態で雨を降らせて、塚は別の方法で破壊するか」
むせかえるような潮のにおいと、濡れて体に張りついた服が気持ち悪い。そういえば、借り物のクマリの衣装を着たままだった。
「今日の分のアリは滅することができた。とりあえず戻ろう」
クマリの声が耳の裏で響いたが、葵は疲れすぎて、本物の目を閉じたのか第三の目を閉じたのかすら、わからなかった。
気がつくと、葵は床に横たわったまま、部屋を飛び回る鷹をぼんやりと見ていた。
(あ、そうか。現世に戻ったんだ)
「明日は大祭だからな。ゆっくり眠れ」
クマリの小さな指が、葵のまぶたをそっとなでる。目を閉じさせるように。
重石のようにのしかかっていた疲れが、少しだけ溶けていく。葵はゆっくりと眠りの中に沈んでいった。
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