第11話 笑わない元クマリ

 葵が目覚めると、そこはクマリの館の一室だった。

 水牛の首の部屋ではなく、ちゃんとベッドに横たわっている。


「お目覚めですか」


 人がいたのかと、葵は慌てて起き上がる。声がした方を見ると、窓から差し込む朝日の中に、マヤの無愛想な顔があった。


「朝食を用意してあります。着替えられましたら、突き当たりの部屋までどうぞ」


 葵は髪や服を触って確かめた。

 濡れてはいないし、塩分でバリバリにもなっていない。塩の雨に濡れたと思ったのに。常世での一件は、夢だったのかしら。


「あの、クマリは」

 出て行こうとするマヤを呼び止める。


「クマリは、朝のお勤めをされています。明日は、クマリジャトラの大祭ですからね」


「一晩中起きていたのに、もう?」


 年端も行かない少女が背負っているものの大きさに、葵は尊敬よりも戸惑いを感じた。


「行かれたのですね、常世に」


 抑揚のない声だが、マヤは探るような視線を葵に向けてきた。


「知ってるんですか、常世を」


「ええ。だって私は、元クマリですから」


 言われてみれば、マヤは整った顔立ちなのに無表情なところが、現クマリとそっくりだ。


「そうだったんですか。すごいですね」

 素直な賞賛だったのに、マヤは眉をひそめた。


「クマリなんて、なるものではありませんよ」


 葵はベッドから下り立った。

「どうしてですか」


「アオイも見たでしょう。クマリは代々、アリと戦い続けています。物心づいたときから、思春期まで。その間、学校にも行けません。最近では家庭教師がつくようになりましたが、昔はクマリは全知全能だから学ぶ必要などないと、勉強もさせてもらえなかった。そんな状態で、初潮とともに解任されて、いきなり学校に放り込まれるのですよ。勉強も、人付き合いも、ついていけずに苦労するのは目に見えています」


 無表情で少し常識のずれた現クマリを思い出す。彼女も、学校に行くとさぞ苦労するだろう。


「アオイ。クマリや私のことを、無愛想だと思っているでしょう」


 図星だけれど肯定するわけにもいかなくて、葵は生返事をした。


「クマリは、笑ってはいけないのです。クマリが笑うのは凶兆だから。ほほえんだだけでも、相手は自分が不幸になると信じ込んで、パニックを起こしてしまいます」


(それで、マヤさんもクマリも無表情だったのね。感じ悪いとか思っちゃって、なんだか申し訳ないな)


 気まずくて黙っている葵に、マヤが続ける。


「笑い方など忘れてしまいました。私は、勉強はどうにかなりましたが、結婚はできませんでした。元クマリの夫となったものは一年以内に死ぬ、という迷信があったからです」


 マヤの声は淡々と事実を述べているのに、ほのかな恨みが感じられた。


「クマリ時代の恩給は、家族が使い果たしてしまいました。実家には未婚の娘の居場所はないから、クマリの館に住み込みで働くことにしたんです。英語力を活かして村にツアー客を呼び込みながら、何とか生活する毎日ですよ」


 自嘲気味に言うマヤに、なんと声をかけていいかわからなかった。心を痛めながらも、葵は話題を逸らす。


「常世のアリ塚は、ずっと昔からあるのですか」


「いいえ、あれは約十年ごとに代替わりしています。クマリと同じように」


 ということは、女王アリも代替わりするのだろうか。


「女王アリが産卵を続けると、アリが増えすぎて手に負えなくなる。そうなった場合、クマリがアリ塚を破壊して、中にいる女王アリを葬ります」


「じゃあ、アリを全部駆除してしまえば、こんなことを続けなくてもいいんでは?」


「そうもいきません。アリは必要悪なのです。だから、何匹か生き残ったものを見逃す。その中から新しい女王アリが誕生し、また巣を作り、産卵する」


 必要悪。


 その言葉を葵が反芻していると、マヤが動いた。


「では、後ほどお食事にお越しください」と言ってドアが閉じられる。


 常世でのことは、夢ではなかったらしい。葵は右手甲の瘤をなでた。

 この珠があれば、今までよりも楽にアリを駆除できるようだ。自分だって、クマリに渡せるものなら渡したい。


 もう一つ、気になることがある。通訳のクリシュナの件だ。


 放っておけば、あのSNSの女子高生は、インドの売春宿に売られてしまう。ゴルカナにいる間に、それだけでも何とかしたい。


 身支度をして、朝食をいただきに行く。

 マヤが用意してくれたのは、ダルバートという豆のスープとご飯、野菜、漬物が、丸いお盆に乗った定食風のものだった。インドよりもネパールの食文化に近い。


 一緒に来るはずだった鏡香に見せるために、葵は写真映えを気にしながら携帯電話を構える。そういえば、この館にはWi-Fiがあると言っていた。


「マヤさん、ここってネットに接続できるんですか」

「三階にWi-Fiがあるから、使えますよ。村の寺院にも電波が通っていて共用パソコンが置いてあるから、村の人はそこでインターネットを使っています」


 思ったよりもIT環境はいいらしい。クリシュナが言っていた、国の施策のおかげのようだ。


「そうだ、マヤさんは、観光ガイドもしているんですよね。時間のあるときに、村を案内してくれませんか? あ、お祭の準備で忙しければ、遠慮しますけど」


 思いがけず「いいですよ」と返事がくる。

 祭の準備は、力仕事は男性がメインだし、その他の準備は別の世話役が行い、マヤは最終チェックと来訪神である葵のエスコートが担当だから、大丈夫なのだそうだ。


 無愛想な表情で言い放たれたので、クマリは笑わないという話を聞いていなければ、嫌々引き受けたのかと思ってしまうところだった。


 クマリ時代の習慣なのはわかったけど、もうちょっとフレンドリーに接して欲しいなぁと思いながら、葵はマヤと外出した。

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