第10話 アリ塚と塩の雨
クマリのまっすぐな目に射すくめられて、葵は思わず息を止めた。
「珠をくれって言われても、どうすればいいかわからないよ。まさか瘤を切り取るわけにもいかないし……」
「では、ゴルカナに移住しないか。クマリの館に部屋を用意する。国から恩給も出るぞ」
まるで部屋の模様替えでもするかのようなクマリの気軽な発言に、葵は面食らう。
「そ、そういうわけにはいかないよ。私だって日本に家族がいるし、大学にも行かなきゃだし。そんな簡単なことじゃないんだから」
「我は、三歳のときに家族と引き離されて、クマリの館に連れて行かれたぞ」
淡々と事実を述べるクマリに、恨みや悲しみは見て取れない。
「最初は母や父が毎週会いに来てくれたがな、今では年に数回、祭のときにしか来てくれない」
物心づいたばかりの子どもが、女神に選ばれた宿命を背負い、家族と引き離される。それが当然のことなのだと思い込まなければ、寂しさや不自由さに耐えられなかったのかもしれない。
だからクマリは、葵にも当然のこととして提案するのだろう。
それはわかる。でも、従うわけにはいかない。
「じゃあ、ゴルカナにいる間は協力する。でも、四日後には迎えが来るから、日本に帰る。……それでいい?」
精一杯の譲歩を、葵はクマリの顔色をうかがいながら告げる。
隔離されて育ったせいか、クマリは常識とかけ離れた価値観を持っているようだ。押し切られてはいけない。
「よくはない。が、あと数日ある。また話し合おう」
クマリが言ったとたん、近くを旋回していた鷹が鋭く言った。
「奴らが来ます!」
葵が振り向くと、アリ塚から黒い群が出てきた。
たくさんの穴からなだれ落ちるようにして、こちらに向かってくる。
「まずい、兵隊アリだ」
先ほどの蜜胃を持ったアリよりも、体が大きい。一センチ以上ある体は、鎧のように黒光りしている。
「あいつらは、餌集めではなく、巣を守るために戦うのが役割だから、面倒くさい。逃げるぞ!」
クマリがチャンドラの首をたたき、向きを変える。
アリから遠ざかろうと走っているらしいが、子どもとはいえ人ひとりを乗せているのだ、オオアリクイの歩みは遅い。
クマリたちをかばうかのように、鷹がアリの群れを翼の風圧でとばしたり、鳴き声で威嚇したりする。
「クマリ、自分で走った方が早いんじゃないの?」
葵が横に並んで声をかけると、「とんでもない!」とチャンドラが叫んだ。
「クマリは地面に足をつけちゃいけないって決まりなの! 破るとクマリの資格を失ってしまう。……それに、アリの奴らが地中から襲ってきたらどうするの。アリの巣の本体は、塚じゃなくて地中にあるのよ」
それで、クマリはオオアリクイに乗っているのか。
クマリは館から出ず、祭のときは世話役の者に抱き抱えられて
「でも」
小走りになりながら、葵は言う。
「ここは現実とは違う層なんでしょ? ここで傷を受けても、現実世界にいる体は大丈夫なんじゃないの?」
クマリが「違う」と釘を刺す。。
「常世での死は、現世での死に直結する。人は、自分の頭で『死んだ』と認識すれば、その時点で死ぬのだ」
ざわざわとしたかすかな音と気配に振り向くと、兵隊アリがすぐ後ろに迫っていた。地面が黒く蠢いている。
葵の耳元を、風がかすめる。翼の風圧だ。
アカーサが鋭くいなないて、葵をにらんだ。
「アオイ、何をぼんやりしている。塩の雨を降らせてクマリを守れ!」
そうだ、自分にはその能力があった。
葵は立ち止まり、右手を天に掲げた。
(雲よ、来い!)
しかし、焦れば焦るほど、雲は集まらず雨が降ってくれない。
よく見ると、手近なところには薄い紙のような雲しか残っていなかった。
葵の魂はさらに高く空にのぼり、飛び回って雨雲を探した。
遠くにある一群を見つけると、力の限り引っ張る。
(早く、早く)
浮遊していた葵の意識が体に戻る。
すでにアリは葵を取り囲み、足にのぼり始めていた。靴下ごしに、ごそごそと這う感覚がある。
(雨、降って!!)
ぽつり。
ようやく雨が降り始めた。頭頂に勢いよく雨粒が当たる。
激しさを増した雨がアリを打ち、葵の体から引きはがしていく。
兵隊アリたちは塚まで撤退しようとしたが、大半が途中で力つき、水たまりに浮かんだ。
振り向くと、クマリの頭上でアカーサが羽ばたいて、彼女に雨がかからないようにしている。
「もういいぞ、アオイ」
そう言われて葵は、今度は左手を掲げる。
雨がやみ、ずぶぬれの顔を手で拭うと、急激にめまいがした。立っていられない。
「アオイ、珠の力を発動させると自分の生命力を削ってしまう。連続して使わない方がいい」
先に教えといてよ……と膝を折りながら、葵はかすむ目でクマリを見上げた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます