第9話 潮満珠の力
葵の左右の手の甲には、小さな瘤がある。
確か、小学生のときにできて以来、治らないのだ。
病院に行ったこともあるが、「骨になり損ねたゼリー状のものが溜まっているだけで害はない。気になるなら中身を吸い出す」と言われ、布団針なみの太さの注射針に恐れをなして、処置をせずに帰ったのだ。
「必要って言われても、これはただの瘤で」
戸惑う葵に、クマリは凜とした声で言う。
「右手を天に掲げてみよ」
有無を言わせぬクマリの目力に、葵はしぶしぶ右手を頭上にやった。
「空に浮かぶ雲を、手のひらで呼び寄せるようイメージしてみろ」
クマリに言われ、半信半疑のまま葵は「雲よ来い、雲よ来い」と頭の中で唱える。
が、何の変化もない。
「何も起こらないけど……」
あげっぱなしで疲れた右手を下ろし、葵は欺されたような気分でクマリを見る。
「言葉で唱えても、効かないぞ。映像でイメージしろ」
あどけない顔のクマリが、さもたやすいことのように言う。
「魂が空に舞い上がって、浮かんでいる雲を見下ろす。それをかき集めて自分の体の真上まで引っ張ってくるよう、具体的に観想するんだ」
葵はもう一度右手を天に掲げ、目を閉じてイメージする。
(私の魂は体を抜け出て、空へとのぼる。下の方に雲が見える。綿菓子を巻き取るみたいに、薄雲をかき集めて分厚い雲の塊を作って……)
ぽつり。
葵の頬に雨粒が当たった。夕立のように急激に雨が降ってくる。
閉じていた目を開くと、上を向いていたせいで、ぽかんと開けた口に雨が入る。
「しょっぱい!」
雨水はなぜか、塩の味がした。
降りしきる雨が、アリ塚に入る直前だったアリたちを洗い流していく。粘土状のものでできたアリ塚の一部も、表面が溶け出した。
「そろそろいいだろう。……左手を掲げて、雲を散らしてくれ」
葵は左手を天に向けて、雨雲を風で吹き払うようイメージする。
雨は一瞬でやんだ。
「なに、今の」
まさか、自分が雨を降らせ、そしてやませたのだろうか。
そんな馬鹿な、とは思うものの、この「常世」という世界では、あり得るのかもしれない。
「アオイがまだ我と同じくらいの年の頃、ナーガから
「ナーガ?」
葵が問い返すと、クマリは言葉を探すかのように目を泳がせてから、焦点を合わせて言った。
「アオイの国の言葉で、……龍」
小学五年生の正月、神社で出会った、金色の目と緑の肌の面をかぶった少年。
舞楽・
彼が、「ナーガ」だったのか。確か、彼から何かをもらったはずだ。
そういえばあの冬、庭の椿や、祖母の鉢植えが枯れてしまった。自宅は海から離れていて、塩害はなかったはずなのに。
「誰か、力のあるものが、アオイの第三の目を封印していたようだ。さっき、我が解いたがな」
(おじいちゃんだ)
神主である祖父は祓う力が強いと、近所のお年寄りから評判だった。現実主義者の父や母は、不思議な力の存在をまったく信じていなかったけれど。
「ナーガはもともと、ヒマラヤの湖に棲んでいた。が、高値で売れる水晶欲しさに人間が湖の周りを掘り返し、水が汚れてしまった。清流にしか棲めないナーガはだんだん弱って小さくなり、ついには切り出された水晶に入り込んで、外国へ行ってしまったのだ」
祖父が奉職する海沿いの神社は、二十年以上前に台風で社殿が壊れ、補修した。地鎮祭には鎮めものとして、水晶が埋められる。
それがゴルカナ産の水晶で、中に入っていた龍が神社に棲みついたのだ。
「ナーガとは、気脈を通じてわずかにやりとりができる。彼が日本の海神から
「もしかして、私がゴルカナに来ることも、ナーガから聞いていたの?」
「ああ。インターネット経由でな」
は? と葵は思わず声を出す。気脈、いわゆるレイライン経由じゃないのか。
「気脈は途中で途切れている箇所がある。神々や人の念は、実は電波によく似ていてな。だから、インターネット回線に念を乗せると、短いやりとりならできるのだ」
古来から続く風習「生き神クマリ」が、現代的アイテムの象徴であるインターネットを使っているのが意外で、葵はなんだか笑いそうになる。
「クマリは外出禁止なのだ。約十年の任期中ずっと館の中なのだから、インターネットくらいさせろ。あまりに聖性を期待されても困る。そんなことより」
オオアリクイに乗ったまま、クマリがアリ塚へと近づく。
彼女を守るかのように鷹が周りを飛ぶ。葵もあわてて後に続いた。
アリ塚付近の水たまりの中に、何十匹というアリが浮き、水面を黒く覆っていた。
この程度の浅さなら這い上がってきそうなものなのに、アリ達はすでに死んでいるらしく、身動き一つしない。
「死んだの? ちょっと雨が降ったくらいで」
短時間の夕立でアリが死ぬなんて、聞いたことがない。
「特別な塩水だったからな」
「塩水? 雨が?」
そういえば、さっき口に入った雨粒はしょっぱかった。食塩水というより、海水のような混ざり気のある塩辛さ。
「
山幸彦が海神からもらったという
「塩には魔を祓う力がある。粗い粒子の中に、悪いものを取り込んでくれるからだ」
それで、盛り塩をしたり、葬式の後に塩をかけたりするのか。
「だから」
クマリがいったん言葉を切って、葵に告げる。
「その珠を、我々にくれ」
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