第7話 感情を喰うアリ
一匹、二匹と、アリ達が次々とクリシュナの妻の鼻の中へ消えていく。
見ているこちらがむずがゆくなってしまうが、やはり彼女は何も気づかない。
「あれは、現実には実体がない生き物だからな」
クマリの声に葵が振り向くと、先ほどまで見えていたクリシュナ家の光景が消え、青白い荒野に戻った。
「見てもらいたいものって、さっきのあれのこと?」
葵の問いに、あどけない顔の少女がうなずく。
「アリ達は、夜になると現世へ赴いて、あんな風に人の体内に入り込む」
「入り込まれた人は、どうなるの?」
「そろそろ出てくるぞ。見てみろ」
再び第三の目を凝らして、先ほどの女性を見ようと葵は意識を集中した。
ベッドで泣き続ける女性の鼻から、アリが出てきた。
長い触覚を揺らしながら、唇、あご、首筋と、一列に行進している。カサコソと動きがせわしなく、見ているだけでざわざわした気持ちになる。
アリの腹が異様に大きく膨れていることに、葵は気づく。
先ほどはもっと小さかったはずだ。
「腹がぱんぱんに膨れているだろう。蜜胃といってな、集めた餌を腹の中に貯めて、巣に持ち帰るんだ」
まさか、脳や内臓の一部を餌にしているってこと?
ぞっとしながら、早送り再生のようにせわしなく進むアリの隊列を葵は見つめる。
「あいつらの餌は、負の感情だ」
「負の感情?」
「怒り、悲しみ、不安、嫉妬といった強い感情だな。よく見てみろ」
葵が目を凝らすと、女の人の肌は、ところどころ穴が開いていた。海綿スポンジやチーズのようになっている。気持ち悪くて、葵は本能的に目をそむける。
「感情をアリに喰われたんだ。あいつらは毒を持っているから、傷口から蟻毒が入り込んで、さらに負の感情が増す。それをまたアリが喰いに来る」
「何のために」
「意味なんてない」
クマリが、さも当然という風に即答する。
「あいつらは、自分が生きるために、人間の負の感情を喰う。我々が食事を摂るのと同じだ。まあ、効率よく餌を集めるために、負の感情が増幅するよう仕向けるがな」
アリ達が地面を通って常世に戻ってきた。穴から出た彼らは、一列縦隊を崩すことなくアリ塚を目指す。
「チャンドラ」
クマリがオオアリクイの首筋を軽く手でたたく。
チャンドラは、のそのそとアリに近づき長い舌をべろんと出して、アリの一隊を舐めとった。もぐもぐと口を動かしながら、オオアリクイが葵の方を向く。
「あたしゃ獏ですからね、人間の夢を食べるんですよ。負の感情なんて、実体のない悪い夢みたいなもんでしょ」
きょとんとしている葵を、クマリが見据える。
「これが、このゴルカナ国の
「クマリの役割?」
生き神として託宣をしたり祝福を与えたりするだけではなかったのか。
「この国には昔から、アリが棲んでいる。普通の人には見えない、別の次元、別の層に。……アオイが見ているこの世界だ」
青い荒野が続く、しんとした世界を見回す。アリ塚だけが威容を誇っている。
「アリは、人の負の感情を喰らって女王アリを成長させ、数を増やす。アリが増えすぎると、人の世に影響を及ぼす。悪いことを考える人間や自己中心的な人間が増え、犯罪が増加し、国が衰退する」
クマリが葵の正面に向き直る。
「アリを間引き、女王アリの成長を抑えるのが、代々クマリの役目なのだ」
「つまり、悪のアリと戦っている、ってこと?」
赤い衣をまとい、凜とした表情のクマリが、世界を守る正義のヒロインに見えてくる。
「アリは悪ではない。あくまでも、人間の負の感情を食べて生きているだけだ」
「でも、悪い感情を増長させるんでしょ?」
「彼らは餌を求めているだけだ。それが悪だという意識はない。そもそも、アリに感情はない」
アリ塚の下から、先ほどよりもたくさんのアリの一隊が、現世へとつながる穴を目指して行進し始める。
「見ろ。さっきのアリが残したにおいを目印にして、また新手が行くぞ」
黒々とした行列が、紐のように連なっている。かなりの数だ。
「嫉妬くらいであんなにたくさん?」
「いや、今度は違う。追ってみろ」
先ほどと同じ要領で、葵はアリのあとをつけていく。
彼らは妻ではなく、クリシュナの方へと向かった。
空になったビール瓶を持ったままソファで居眠りをするクリシュナに、アリたちが群がる。
足をつたい、服から肌が見えている部分、手、胸、首、顔、すべてに無数のアリが黒く覆い被さる。
さすまたのようなアリの大顎が、クリシュナに喰らいついた。
アリの腹が、不気味に膨れだす。逆に、褐色の肌は蓮の実のように穴だらけになっていく。
生理的な嫌悪感から、葵はカメラアイを現世から逸らした。
視界が青い荒野へと戻る。
「穴だらけだっただろう。肌を喰いつくして内蔵までいくと、あいつも人の心を失うな」
浮気が許されることではないといっても、人の心を失うほどの大罪なのだろうか。
「あんな奴、もう人の心なんてありませんよ!」
吐き捨てるようにチャンドラが言う。
「やっぱり浮気してるんだ、クリシュナさん。ちょっとショック」
アドレスを教えてくれたときの人なつこい笑顔に裏があったことが、葵は悲しくなってくる。
「浮気なら、まだましなんだがな」
クマリが表情を変えずに言う。
九歳の少女が何もかも知り尽くしたように話すことに、葵は居心地が悪くなる。
「アオイ、奴のスマートフォンを見てみろ」
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